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 悠はマンションの外で黙って建物を見上げていた。

 何度も通った場所。嫌々だったはずなのに、今見ると何だか愛しく思えてきた。

 もう来ることはないと思う。

 携帯も鍵も返した。きっと渉は問いつめてくるだろうけれど、それももういやだと言えば済む話だろう。

 それ以上追いかけてくるなんて、面倒なことはきっとしない。

 本命ができた今、逆に悠の存在なんて面倒なだけだろうから。

 けれど、思うだけなら面倒だと思われないだろうと悠は思った。

 それだけは許してほしいと。

 悠はしばらくマンションを眺めていたが、やがて小さくため息をついて背を向けた。

 いつまでもここにいても仕方がない。まるでストーカーのようで、自分の未練がましさにも嫌気が差してきていた。

 そして、ゆっくりと歩き出した時だった。

「…羽住!」

 自分を呼ぶ声が聞こえて、驚いて悠が振り返ると、渉が走ってきていた。

「…的場」

「お前、話があるって言っただろっ」

「……あ」

 そう言えば、そんなことを言っていたか。

 自分のことばかりで、そんなことも忘れていた。

 悠はそっと俯くと、渉を見ずに言った。

「…もう、話は聞けない。もう、無理だから」

「…羽住?」

「…もう、お前の所にはいけない」

「……」

 渉がどんな顔をしたのか、俯いている悠には見えない。

 きっと怒っているだろう。

 分かっていても顔を上げることができなかった。

「…くそっ」

 その悠に小さく渉は罵る声を上げた。

 その声に、てっきり自分に言われていると思った悠は身を竦めたが、その悠の手をぐいと渉が引っ張った。

「…的場?」

「ちょっと来いっ」

「え、的場」

 驚く悠に構わず渉は悠の手を引いて歩き出した。

 もう夜といってもいい時間で、十時を過ぎようとしてしまっている。けれど、こんな時間だというのに外に出ているものは少なくなくて、悠の手を掴んで無理矢理引っ張っていく渉の姿は人の目を引いていた。

「……っ」

 ここで目立つようなことをしたら、騒動になるかも知れない。

 悠は抵抗するのをやめ、渉に引っ張られるまま、マンションへと連れ戻された。

 エントランスを暗証番号で開け、エレベーターを使って部屋へと向かう。

 もう逃げる意志なんてもっていないというのに、渉は悠の手を離そうとしない。ぎゅっと掴んで無言のまま、エレベーターの階数表示を睨んでいる。

 痛いほど握りしめた手は一体何を意味するのだろうか。

 悠はその手の意味を計りかねていた。

 渉は悠を自分の部屋に連れ戻すと、悠をソファーに座らせ、そして自分はその向かい側に座った。

「…あの、的場…」

「なんで帰るんだよ」

 悠が口を開いたのに、渉はまるで言葉を遮るようにせわしなく言った。その渉に悠は俯く。

「…ごめん」

「……」

 思わず謝った悠に渉はイライラとテーブルを指で叩いていたが、やがてひとつ深呼吸をした。

「…オレ、話があるって言ったよな」

「…ああ」

「なのに、なんで…」

 渉の声が切なく聞こえるのはきっとそう聞きたいからだろう。

 悠は人間というのは自分勝手にできているものだとそう思いながら、ゆっくりと口を開いた。

「…もう、やめたいんだ」

「え?」

「…もう、ここには来ない」

 悠は思っていたことをやっと口にした。

 その悠に渉は目を見開き、やがて叱責するように声を荒げた。

「お前、あの写真はどうするんだよっ」

 渉の言葉に悠は俯くと、小さく言った。

「部を辞めてきた。だから、もうどうされてもいい。ばらまくならばらまいていい。…もうどこにも迷惑はかからないから」

 もっと早くにこうしておけばよかったのだ。

 そうしたら、これほど傷つくこともなかった。

 傷ついて苦しむこともなかったのだ。

 どんなに虐げられても、好きでいることしかできない自分の強情な恋心なんて、知りたくもなかった。

「…羽住、お前…」

 渉は驚いて目を見開き、悠の顔を覗き込んだ。

「お前、剣道好きだったじゃないか。なんで、そんな辞めるなんて…」

「…好きだったし、剣道くらいしかできることも、したいこともなかったけど、もう、いいんだ」

 あんな脅迫で結びつきがもてたと喜ぶ自分が嫌いだった。

 嫌がる素振りを見せながら、渉の肌を感じるのが嬉しかった、そんな自分が嫌でしょうがなかった。

 渉に都大会に出ることを話のネタにして話しかけたいなんて、不純な動機が都大会を目指す理由の中にあったから、そんな自分に罰が当たったのだ。

 ならば、その罰をちゃんと受けなければいけない。

「…だから、的場…」

「……」

 渉は悠が何かを言う前に立ち上がると、隣の部屋に行ってしまった。

 もしかしたら、これで話し合いは打ち切りなのだろうかと思った。

 それならばそれでいいかも知れない。

 もう、終わりにして、ゆっくりと何も考えずに眠りたかった。

「羽住」

 渉に声をかけられ、悠はゆっくりと上を向いた。

 渉は悠のすぐ目の前にに立っていた。

「…的場」

「……」

 悠は渉が自分を見たのを確認すると、携帯とデジカメを見せた。

 そして、渉はデジカメを何度か弄っていたが、やがて業を煮やしたように、デジカメからチップを取り出すと、それを指で真っ二つに割ったのだ。

 その上で、また携帯をいじっていたが、こちらもやがて面倒だといわんばかりにたたき壊した。

「…的場、今の…」

 驚く悠に渉はひどく悲しげな顔で笑った。

「…今の、お前の画像が入ってたんだ」

「…的場…」

「ごめんな、これでもう自由だ」

「……」

 渉の真意が分からなくて、悠が呆然としていると、渉はその場にしゃがみ、悠に視線を合わせると縋るように言った。

「だから、頼むから剣道を辞めるなんていうなよ。オレはお前が竹刀を振ってる姿を見るのが好きなんだよ。凛としててさ、すごく綺麗で、見ているだけで分かる。お前は剣道がすごくすごく好きなんだよ」

「…的場」

「好きなことはやめるべきじゃないだろう」

「……」

 渉の言葉に悠は目を細めた。

「けれど、オレは…」

「絶対に言いふらしたりなんかしない。…いや、言いふらしたって、真面目で優等生なお前といい加減なオレじゃあどっちの言い分が通るかなんて分かりきっているじゃないか。…だから、なあ、辞めるなんて言うなよ、羽住」

「……的場」

「オレはお前が…」

 渉の顔がそっと伏せられた。

 そして、その口からたった一言告げられた。

「…好きなんだ」











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2009.4.18

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