18
綺麗だと見とれたのを覚えている。
1年の頃、もう今の仕事を始めていた渉は、その日仕事場から学校に直行した。ちょっと早いかなと思っていたのだが、ちょっとどころではなく、本当に随分早くに学校にきてしまい、こうなったら教室で寝ようと思っていたのだけれど、校舎の端に立てられた剣道場に人の気配を感じて近づいたのだ。
そこに人がいた。
凛とした姿。背筋は今まで見たどんなモデルよりもすいと伸びていて、とても綺麗だった。
その彼は踏み込みを繰り返し、竹刀を振るう。素振りの練習をもくもくとこなしていたのだ。
早朝だというのに、その顔に眠気なんか見せず、その少しきつめの双眼に涼やかな光をのせて、竹刀を一心に振るっていた。
飛び散る汗さえ綺麗だった。
気づいた時にはもっと見たくて、窓から覗いているだけじゃ我慢できずに道場の戸を開いていた。
「なんか、すげー綺麗だな。努力してる人ってのは綺麗なんだ」
そして、ついてでたのはそんな言葉。
ハッと渉を見た彼の迷いも濁りもない目に驚いて、慌てて渉はそこを逃げ去った。
驚いた、けれど本当に綺麗だった。
剣道場のその人が誰かなんて、調べるのは簡単だった。
羽住悠。
外見と違い、随分優しげな名前を持つ人は渉と同じ一年で、新入生でありながら、入部当初から剣道部の代表として、レギュラーで試合に出ていた。
そのため、先輩や同級生からの嫌がらせを受けていたという。あの早朝練習はその嫌がらせから逃れ、思うまま練習するために彼が仕方なくこなしているものらしかった。
唯一水谷という当時2年の先輩だけが彼の味方で、彼には絶対の信頼を寄せているらしかった。
「できてるって噂まであるんだ」
渉が話を聞いた男はひどく下世話な言い方で、二人のことを中傷した。
けれど、そう思われても仕方がないくらいに悠は水谷を信頼し、部活でも、それ以外でも彼と一緒にいた。
渉とはクラスが違い、接触はなかなかもてなかったが、外から見ていても悠には水谷以上に親しい人間はいないようにさえ見えた。
そんな悠をただ黙って見ているだけだった。
こんなのは自分らしくない、気に入ったのならさっさと友達になってくれと言うのが自分だと渉は思ったが、そうしようとすると身が竦む。
変に思われたら、なんて思っただけで怖くなった。
いつもならそれこそ軽く声をかけることができる。なのに、悠を前にするとそうできないのだ。
そんなことをぽつりとある女優に話したら、小さく笑われた。
「渉くん、それ、その子と友達になりたいっていうよりも、わたしにはあなたがその子を好きだって言っているように聞こえるわ」
知的で優しく、渉にとって尊敬もしていた女優の一言に、まさかと、男だよと抵抗したけれど、その言葉がするりと自分の中に入り込んだのを渉は感じていた。
きっと、あの日、一目惚れしてしまったのだ。
あの凛と真っ直ぐ前を見た瞳に。
当時、少しだけ渉の中に迷いがあった。
モデルを続けながら、俳優の仕事をしたいと事務所に頼む日々。元々がモデル事務所だけにそれは無理な相談だと突っぱねられた。ただ黙ってモデルの仕事を続けていればいいと頭ごなしに言われもした。
確かに事務所にはモデルとしてスカウトしてもらった恩があった。けれど、やはり俳優になる夢を捨てたくはなかったのだ。
そんな渉の迷いを悠の姿は笑い飛ばしているようにも見えた。
真っ直ぐ前を向く姿、その姿を自分に照らし合わし、これではだめだと渉を奮い立たせてくれた。
そう、悠は渉をその姿を見せることで支えてくれたのだ。
その後も時々悠の練習している姿をのぞきに行った。
そのたびに水谷に寄り添い、彼の隣で安心した顔で笑う悠にひどく嫉妬をした。そんな顔で笑うのは自分の隣のはずなんだと、勝手なことを思いもしたのだ。
そうなったら、もう思いは止めようがなかった。
けれど、クラスも違えば、付き合っている友人も違う渉と悠では接触を持つことすら難しかった。
だが、2年になって同じクラスになって、これでと思ったのだ。
これで親しくなれるのではないのかと。
だが、悠は渉たちを嫌っていた。
話をしていると、ひどく剣呑とした雰囲気で渉を睨み付ける。そして、ふいとどこかへ行ってしまうのだ。
話しかけようと近づいても、気づけばもう悠はそこにおらず、明らかに避けられ、嫌われているのは明白だった。
好かれることは多くても、嫌われることは少なくて、一体自分の何がいけなかったのだろうと考えたけれど、きっと悠のように真面目な男には渉のような芸能活動をしているものはひどくいい加減に見えたのだろう。
そこで素直に失恋できたらよかった。
だが、そうもできずに鬱々とただ悠を思っていた。
思うことしかできなかった。
そこに、こぼれ落ちてきた幸運。
あの日、あの場面は偶然が起こした幸運だと渉は思った。
悠を手に入れろと、起こった幸運に違いないと。
思わず衝動的に携帯を起動させ、写真に撮ってしまった。
そして、脅した。
最もひどい方法で悠を手に入れた。
てっきり水谷とそういうことをしているものだと思っていたのに、悠の身体は行為に慣れていなくて、深くまで蹂躙すれば泣いて縋って嫌がった。
慣れていないと分からせるように身体の開き方も分からず、ずっとその身を強ばらせ、略奪者に縋ることもできずに震えていた。
そんな悠にもしかしたら水谷とのことは誤解だったのだろうかと喜んでしまった。
そうなら、今からでも遅くはない。どうしてこんなことをしてしまったのか話して、そしてもう一度やり直すことも可能じゃないのかと。
だが、終わった後、怯えた目で渉を見、肩に触れるだけで悲鳴を上げられた瞬間、それは叶わぬことだと思い知った。
ならば、身体だけでもと思ったのだ。その身体と時間を自由にしてしまえばいい。
そうしたらその間だけでも悠は渉のものになる。
本当は優しくしたかった。キスだって、普通にキスをして、抱きしめたかった。
けれど、渉にそれは許されていなくて、ただ悠にとっての略奪者になるしかなかった。
痛みに震え、陵辱に泣いても、悠は決して渉に縋ろうとせず、快楽も感じることなく、シーツにしがみついて耐えていた。
どんな責め苦もそうやって耐えていた。
けれど、時々警戒を解いたように笑う。思い出したように笑う顔に一瞬喜ぶのだが、それはすぐに消えてしまう。
あの日も、悠が部屋に泊った日、悠が久しぶりに笑って見せて、その顔が嬉しかったのに、翌日その滅多に渉に見せない顔で水谷に笑ってみせたのを見た時、頭から冷水をかけられる思いがした。
仕事がいきなりキャンセルになって、ならば学校に行こうと、マネージャーに学校へと送らせた。その前に悠を学校に送っていたから、きっと朝練をしているんだと剣道場に足を向けたのが悪かった。
悠がそこにいた。安心しきった穏やかな微笑で、水谷に微笑んでいた。
付き合ってはいないのかも知れない。けれど、深いところで繋がっていると見せつけられて、我を失った。
あの後、学校にも行かず、マンションで一人、考えていた。
もう何もかもがどうでもよくなっていたのかも知れない。
渉に怯える悠、触られるだけで震えて目を閉じる。
その姿に苛立ち、ならばいっそもっと傷つけてしまえと思ったのだ。
そして、選んだ最悪な方法。
以前から関係のあった女優を呼び出し、彼女を抱いているところに悠を呼び出した。
あの時、悠はひどく驚き、それからなぜか傷ついた顔を見せた。
女の裸を見て欲情していたら笑ってやろうと思ったけれど、悠はそうはならず、それ以上に身を縮ませ、必死で何かに耐えていた。
悠は傷ついているように見えた。
ようやく悠を傷つけることができたと満足して、その傷ついた目が自分を見るのがたまらなくて、何度も同じ方法で傷つけた。
女性との情事に混じれと言ったこともある。その時だけは悠はひどく抵抗した。
絶対に嫌だと、何をされてもいいけれど、それだけは嫌だとひどく嘆願し、拒んだ。
あまりにも激しい拒絶に渉も何か興が殺がれた気分でならばいいと悠を許したが、悠はその渉にホッとした顔を見せ、それでもやっぱり傷ついていた。
優しくしたくても優しくできない。
嫌われているのだと思っているからこそ、余計にできない。
けれど、そうではなかった。
水谷と二人きりで部活が終わった後に話していたことを聞いた渉が悠を問いつめたのに、悠は悲しそうに瞳を揺らせて言ったのだ。
嫌ってなんかいないと、嫌う理由がないと。
いつも睨まれていたから、嫌われていると思っていた。渉の友人だってそう思っていた。なのに、本当は違ったのだ。
羨ましくて見ていたのだと、悠は寂しそうに言った。友人の多い渉が羨ましくてただ見ていたのだと。
渉達を見る悠の目つきが鋭いのに睨んでいると思っていたが、それはただ単純に見ているの間違いだったのだ。
そして、悠は覚えていた。
「でも、そのオレに言ってくれた人がいて。…努力する人は綺麗だと。もがいているだけのオレの努力を綺麗だといってくれて、それだけでここまでこれた。才能なんかなくても、何とかなるもんなんだなあと思うよ」
訥々とした悠の言葉。
思い出すように噛みしめた言葉は渉があの日、悠に言った言葉そのものだった。
悠は覚えていてくれたのだ、あの日、渉が思わず呟いてしまった言葉を。
しかもその言葉を大事にしていてくれたのだ。
こんなにも嬉しいことがあったなんて思いもしなかった。
悠が覚えていた、渉の言葉を。
そして、キスをしてほしいと強請ってくれた。
初めて触れたみたいだった。柄にもなく緊張して、ただ唇を合わせるだけの子供っぽいキス。けれど、そんなキスでも悠は喜んでくれた。
ふわっと安心したように笑う顔に、渉は決心したのだ。
きっとひどく詰られるだろうし、毒虫のように嫌われるかも知れないけれど、それでも言おうと。
ずっと好きだったのだと、好きすぎて、悠を自由にしたくて、あんな卑怯な脅迫をしてしまったのだと。
あんな写真、それこそコンビニに備え付けてある防犯カメラでも調べれば違うことが証明されてしまう話なのだ。悠が渉の脅迫に乗ることなんてなかったのだ。
それでも、そんなことをしてでも、悠を手に入れたかったのだと、正直に話してしまいたかった。
だから、目が覚めたら話を聞いてくれと悠に頼んだ。
そして、悠も分かったと頷いてくれたのに。
「…羽住」
眠りから覚めて、ベッドの上、目を閉じたまま、隣の温もりを探した。
なんだか身体がすーすーして、寒かった。
何度も手を彷徨わせ、けれど、何にも触れることなくて、そこで慌てて渉は起きあがった。
「羽住!」
悠は部屋のどこにもいなかった。
いや、もしかしたらトイレかも知れない。
トイレに行っているだけなのだ。
どうせすぐに戻るだろうと思っていたのに、悠は戻ってこなかった。
時間にしたら5分程度、そこで我慢の限界がきて、渉は部屋を飛び出した。
「羽住!」
こんなに探させて、ひょこっと出てきたら間違いなくひどくしてやろうと思った。だが、悠は何度呼んでも姿を現さなかった。
「あいつ…」
勝手に帰ったのだろうか。
渉はカバンから携帯を取り出して、悠に渡してある携帯を鳴らした。
「……」
だが、その携帯は誰にもとられることはなかった。着メロはすぐ近くで聞こえたのだ。
「…あいつ」
携帯と鍵がテーブルの上に置いてあった。
そろえたかのように行儀良く並べてあるそれらに渉は慌てて携帯をとった。
「羽住…」
どう思って悠は外に出たのだろう。
剣道部を潰す気になったというのか。
いや、そうではない。悠はきっと自分が剣道部を去る決心をしたのだ。
「…あいつ」
決心をするならするで、渉の話を聞いてからにしてほしかった。
どうして、こんな急に離れることになるのだろう。
渉はとにかくと、鍵を掴むと外に飛び出し、ちょうど来たエレベーターに乗り込んだ。
どうか、まだ近くにいてくれと願っていた。
back / next
2009.4.11
back / index / home