17
悠が渉の部屋に行くと、渉はベッドに寝転んで、台本を読んでいた。
「こっち」
「…ああ」
手招きされて、悠は躊躇いながらも渉の側に近づいた。
「…っ…」
ベッドに手をついた途端、いきなり腕を引かれて、抱き込まれた。
驚いて目を見開いた悠に渉はふっと笑った。
その顔は今まで見たこともなかった笑顔で、悠はどうしたらいいのか分からなかった。
優しげで穏やかで、どこか切なかった。
「練習してきたのか?」
「え?…ああ」
部活のことを言っているのかと、悠がうなずくと、渉は悠を抱きしめたまま言った。
「オレも一回は部活っていうの、やりたかったなあ」
「…そうなのか?」
仕事という本来のやりたいことをちゃんとやっている渉がそんなことを思っていたとは思えなくて、悠が驚くと渉はああと頷いた。
「今度出るドラマがさ、サッカー部に入ってる高校生役なんだよ。役名もちゃんとついてて、主人公の相手役の弟っていう、結構いい役でさ。…って、こんな話、お前にしてもしょうがないか」
「……」
渉がぽつんとそういったのに、悠は許されるならと胸の奥で思って首を振った。
「…オレが聞いていいなら、聞きたい」
「……」
勇気を出して何とかいった言葉だったが、渉には驚くばかりだったのだろう。
目を見開いた彼に悠はやはりだめかと目を伏せた。
「…したくないなら、いい…」
悠が小さくそういうと、渉はどう思ったのか、いきなり悠の体を抱きしめて、布団の中に引き込むと話し始めた。
「…その役っていうのが、結構めんどくさい性格しているやつで」
唐突に話し始めた渉に悠は驚いたが、さっきの続きかと思うと黙って耳を傾けた。
「…うん」
「屈折した性格してて、本当は才能があるのに、兄貴のが才能があるっていって、最初っから諦めてんの。だから、半端にしか練習もしない、だからせっかくの才能も宝の持ち腐れっていうやつでさ、なんか演りながら、腹が立ってくるばっかで…」
渉は卓越した美貌と、普通とは違うオーラがある。だが、努力を怠りはしなかった。
仕事もきちんと遅刻せずにいく。トレーニングだって欠かさないし、台本もちゃんと頭に入れて仕事に取り組む。何事にも一所懸命だ。
俳優になりたいという夢をかなえるために、モデルの仕事も手を抜かず、それこそ名もないような役でも演じる仕事なら喜んで請けていた。
その渉にとって、その役柄はようやく役名を手に入れた仕事で、それだけにその役を理解しようと必死なのだろう。
「オレにはあいつの気持ちが分からないんだよな…」
挫折する前に努力へと考えを転じることができる渉には確かに理解するのが難しい役かも知れなかった。
だが、悠ならば。
「オレには分かるかも知れない」
「…え?」
驚く渉に悠は小さく答えた。
「オレには才能という才能はない。オレにできるのは努力するだけで、それしかない。確かにこの体格は剣道をするのには向いているけれど、それは親がそういうふうに生んでくれただけだ。…本当にやめてしまいたいと思ったこともある」
頑張ることしか能のない悠に、練習の場を与えまいとした先輩たちにやめてしまおうかと何度も思った。
「本当にずば抜けて才能があって、強かったらそんなことも思わなかったかも知れないけれど、オレにはそんなものは存在しなかったし、拗ねてやめようかと思った。回りにも嫌われて、疎まれて、そこまでして続けて何があるんだろうと」
「羽住」
「でも、そのオレに言ってくれた人がいて。…努力する人は綺麗だと。もがいているだけのオレの努力を綺麗だといってくれて、それだけでここまでこれた。才能なんかなくても、何とかなるもんなんだなあと思うよ」
「……」
きっと渉は忘れていると思っていた。
悠に言った言葉なんて気まぐれに発しただけで、その後、悠がそれに縋っていたなんて思いもしないだろう。
けれど、それでよかったのだ。
それで十分。渉が覚えている必要なんてない。
「才能を持っていて、けれど、その才能を信じ切れない切なさも分かる気がする。…信じることは怖いことだから」
「……」
悠はそこまで言って、渉はきっとそんな自分を笑うだろうかとそう思った。
笑われたら笑われたでいい。
思っていたことをここまできてどうにか言えた。
だから、それで十分。
「…お前って」
「ごめん、変なことを言ったな」
悠が目を伏せると、渉はその悠に違うと首を振った。
「変じゃない、変だなんて思わない。…お前って、すごいよ、やっぱり」
「え?」
「羽住はやっぱりすごいな。やっぱりすごく綺麗だ」
「……」
渉の言葉に悠はこれでやっぱり十分だと思った。
今日、部活が終わった後、水谷を呼び出して退部したいと言った。
「なんで、どうしたんだ、悠」
水谷は随分焦って、必死で悠を止めてくれた。
「お前、嫌がらせされてても、一所懸命練習してたじゃないか、それなのに、今更辞めるなんて…。やっとみんな、お前と一緒に練習できて、喜んでるのに…」
「…いいです、もうそんな嘘は」
悠はぽつりと言って、目を伏せた。
確かに悠に声をかけてくれるものは増えたけれど、それもきっと水谷のおかげなのだから。
でなければ、こんな何のおもしろみもない男を誰も構うわけがない。
「…真面目なだけが取り柄で、剣道だって、少し強いだけで…。オレ一人が欠けても、全員で頑張れば、全国大会だって夢じゃないですから」
「…悠、お前…」
水谷がひどく悲しい目をしていたのを見ていられなくて、悠は振り切るように背を向けた。
最初にこうしておけばよかったのに、一体何にしがみついていたのだろう。
これしかないと思って竹刀を振るった。そしてその剣道を好きな相手に話しかけるきっかけに使おうとした、その不純の罰なのだろう。
渉に脅迫されたときにならば部をやめると言えば、それで終わったはずなのに。
それも言えずに渉の脅迫に乗った。
――――きっと、打算があったのだろう。
これで少しは渉の側に近づけるんじゃないかという。
そんな打算は簡単に打ち砕かれるのが常だ。
結果、こんな無様な終わり。
「…的場」
「ん、なに?」
ベッドに横になっている間に渉は眠くなってきたのかも知れない。
ゆるゆると瞼が落ちそうになっているのに、悠は笑った。
「…何も、しないのか?」
「……」
悠の言葉に渉は小さく笑った。
「…セックスしたいのかよ」
「…別に…」
悠が首を振ると、渉は悠を抱きしめ、その背を撫でるように叩いた。
「こうやって、抱きしめてるだけってのも、たまにはいいだろ?」
「…そうだな」
「お前、体温低いな…、もっとこっちこい」
「…ん」
何だか優しいなと、涙が出そうになった。
その悠に気づいたのか、渉はそっと悠の目にたまった涙を指先で拭った。
「何、泣いてんだよ」
「…分からない」
「分からないで泣くのか、変なやつだな」
「…変、か、そうだな、変だな」
悠はぽつんとそう言って、それから意を決して渉に言った。
「変ついででいいんだが」
そう言って、そっと渉に顔を近づけた。
「嫌でなかったら、キスしてくれないか?」
「……」
渉の顔が驚きに変わる。やっぱりそんなことを自分に言われて嫌だったのかと、悠が気を落とすと、渉は恐る恐る尋ねてきた。
「…いいのか?」
「え?」
「キス、していいの?」
「……」
悠は渉の言葉に思わず笑って頷いた。
「オレが頼んだんだ。いいに決まってる」
「そ、っか」
渉は悠の言葉にそっと顔を近づけると、悠の唇を塞いだ。
精液の味のしない、柔らかで優しいキスだった。初めてのキスだと、悠は思った。
これが渉からもらった最初で最後のキス。
「…ありがとう」
「…変なやつ」
渉は悠の礼に笑うと、持っていた台本をベッドサイドに置くと、悠を抱きしめて目を閉じた。
「起きたら」
「…うん」
悠を抱きしめたまま、渉が言う。
「お前に話があるんだ。…逃げないで最後まで聞いてほしい」
「…分かった」
「…サンキュ」
悠の返事にやがて渉の身体は弛緩し、その唇からは寝息が漏れ始めた。
昨日も遅かったのだろうなと、安らかな寝顔に思う。どんなに眠るのが遅くて睡眠時間が足らなくても仕事が休みならちゃんと学校に出てくる渉。その真面目さを知ってますます好きになった。
本当は優しい男なのだということを知っている。
優しくて気配り上手で、根の真っ直ぐな男。だから、皆が渉を応援する。
脅されている立場であっても、そんな渉の姿を一番近くで見ていられるのが嬉しかった。
「……」
悠は渉を起こさないように細心の注意を払いながら、そっとベッドから身を起こした。
安らかな寝顔、もしかしたら初めて見るんじゃないだろうか。
名残惜しくて、その寝顔に手を伸ばした瞬間、ベッドに長い黒髪が落ちていることに気づいた。
渉の髪は色素が薄く、少し茶色がかかっている。悠の髪は黒だが、これほど長くはなかった。
ならば、これは昨夜、渉が呼んだ女性の髪だったのだろうか。
「……ッ」
昨日、悠は呼び出されていない。
なのに、ここで渉は女性を抱いた。
もうおしまいだと本気で思った。
悠に見せることなく抱いたということは、本気で好きになった女性なのだろう。
ならば、きっと渉が後で話をといったのはその女性のことだったのだろう。
好きな相手ができたから、悠との関係をおしまいにしてしまいたいということなのだろう。
悠にしたら本当はいいことなのだ。
これで剣道部をやめずに済むかも知れない。あの水谷のことだから、きっとまだ顧問には話していないと思う。悠が気を変えるかも知れないと待ってくれている気がする。なら水谷に話をして、もう一度やり直させてくれと言おう。
きっとひどく怒られるだろうけれど、最後には許してくれると思う。
そう、これでいいのだ。
これで十分。
最後にキスをしてもらえた。精液の味のしない、初めてのキス。
少しだけかさついた、けれど甘い口づけだった。
餞別だとするなら、これ以上にはなかった。
悠はそっとベッドを抜け出すと、カバンの中から携帯と鍵を取りだした。
結局悠からは使うことのなかった携帯、渉がいない時に部屋を開けることのなかった鍵。
それでも、これは渉が悠を繋ぐ鎖のようなものだった。
「…ふう」
そっと深呼吸をして、寝室を出、リビングのテーブルの上にその二つを置いた。
何かメモの書き置きでもと思ったけれど、頭のよい渉なら、これがここに置いてあるだけで悟ってくれるだろう。
ゆっくりと部屋の中を見渡した。
華美なものなんてどこにもないシンプル極まりない部屋。人が住んでいるように思えないほどの部屋だったが、それでもこの部屋を悠は気に入っていた。
渉の匂いと気配のする部屋。
華やかに見える渉だけれど、その影の努力を知る者には似合いの部屋だと思うだろう。
寝室とリビングの壁に備え付けられた書棚をびっしりと埋める本は渉の努力を教えるもの。
この部屋にくる目的がなんであれ、好きな場所だったなと悠は思った。
「……」
足下に置いた荷物を持ち上げる。
これで最後だ。
「…さよなら」
家に帰ったら、思い切り泣こう。
それでおしまいにしてしまおう。
それでいいのだ。
悠は随分くたびれてしまった自分の靴を履き、それからゆっくりとドアを開けた。
建前は渉を起こさないため、本音は少しでもこの場所にとどまっていたかったから。
ドアを開け、外に出ると、その手で閉めた。
「…ぅ…」がちゃんとオートロックの鍵がかかったのに、悠は胸の奥からこみ上げてきたものに、喉奥で唸った。
脅されていてもいい、もっと一緒にいたかった。
おもちゃでも、何でもいいから、羽住と呼んでもらえることが嬉しかった。
思うだけなら許されるだろうから、思うだけ、思っていこう。
的場渉という男を思っていけばいい。
それで、いい。
それだけは許してもらいたかった。
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2009.3.29
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