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「…悠」

 悠の言葉は水谷には驚きだったのだろう。

 彼は呆気にとられたように目を見開いた。

 その顔に悠は諦めたように笑う。

 それも仕方がない。何しろ剣道ばかりでそんな感情を持っているなんて、誰も思っていないだろうから。

 けれど、事実。

「けれど、その人はオレのこと、何とも思っていないんです。それどころか、おもちゃみたいにしか思っていない」

「…お前、それ…」

 悠は思わず笑った。

 ひどく乾いた笑いで。

「…なんか情けないけれど、そうでしか、一緒にいることができない。…ひとつだけ、繋がりはあるけど、それも飽きられたら終わりとしか思えないようなもので…」

 脅迫されてはいる。

 けれど、それは今、渉が悠を面白いと思っているからだ。

 面白いおもちゃと思っているから、脅迫して、悠を無闇に怯えさせる。

 そうやって、悠が反応するのを楽しんでいるのだ。

 性的なことだって、渉ほどの容姿と性格なら望めば簡単に恋人もできる。悠で我慢しているだけなのだ。

 辛いことだけれど、渉が悠を構う原因なんて、それくらいしか考えられなかった。

「お前は…」

 水谷は痛ましいものでも見るように悠を見ると、小さくため息をついた。

「相変わらず不器用だな」

「…はい」

「そんなの、相手にしなくてもお前なら…」

「…それは先輩がオレを後輩だと思ってくれているから…」

 不器用で口下手で、取り柄なんて剣道の腕と真面目なだけ、それくらいしかないのだ。

 それだけの男を好いてくれるものなんていないだろう。

「…オレは何もないし」

「剣道やってるときはすごく自信満々なのにな、普段はどっかおっとりしてるし、自信ないんだよなあ」

 水谷は困った顔をして、悠を見た。

「お前な、朝練の前の練習、オレが言ったからずっと続けてるけど、あれ、なんで誰も混じってこないか分かるか?」

「え?」

 首を傾げる悠に水谷が言う。

「大会が近づけば普通はみんなちょっとでも多く練習したいんだよ。でもさ、朝はお前が練習してるから遠慮してるんだ。お前にはちゃんと思うように練習して欲しいって思ってるから」

「…それは…」

 どういう意味だろう。

 悠が首を傾げるのに、水谷は笑った。

「もっと、周りを見ればいいんだよ。見れば、お前を好いてるやつは結構いるってことだ。そんな訳の分からない女、やめとけよ。お前にはそういうヤツがいるんだ。オレだって、お前が可愛いからな」

「先輩」

「…朝練の前に一人で練習してるお前を見本にしてこっそり見てるやつは多いんだ。お前がまだ前のような、嫌がらせをさけるためって思ってるなら、あいつらに混じってもいいって話すからな」

「……あ」

 思ってもいなかったことで、悠は思わず水谷を見た。

 戸惑った顔をしていたのだろう、水谷は笑った。

「まあ、急に言われても分からないだろうけど。…あまり一人で悩むなよ」

「…はい」

「でも、さ」

 水谷はしみじみと言った。

「その相手のこと、お前は好きなんだろ。なら、どっかで仕方がないなって思うよな」

「…先輩」

「そういうのって、あるし。オレだって、あいつがワガママいうの、怒りながらも聞いてしまうからな」

 水谷の言葉が羨ましく聞こえる。

 好きなのは悠だけ。渉にはそんな感情はないだろう。

 昨日だって、散々嬲られた。

 身体も痛かったけれど、心はもっと痛かった。

 それでもどうしても嫌いになれないのは、あのたったひとつの言葉が悠をずっと支えてくれていたからだ。

「どうしようもなけりゃあ、愚痴くらいは聞いてやる。だから、なんかあれば話せ、いいな、一人で抱え込んで、影で泣いたりするな」

「…はい」

 水谷の言葉が小さく胸に響く。

 少しだけ心が軽くなった気がした。

 だが、その時、悠を現実に引き戻すように携帯が震えた。

「先輩、オレ、用が…」

 この携帯で悠を呼び出せるのは渉しかいない。

 またどんな無理を言われるだろうかと思ったが、従うしかなかった。

 悠がここで別れようと言うのに、水谷は軽く頷いた。

「ああ、そうか。じゃあ、また明日な。明日、もしかしたらお前の練習に混ざるやつが出てくるかも知れないけど、まあ、我慢して付き合ってやってくれ」

「…分かりました」

 水谷のついた優しい嘘に悠はこくんと頷いた。

 どうせ、誰も来ない。

 水谷は優しいから、慰めようと悠に言ってくれた優しい嘘なのだろうから。

「じゃあ、すみません…」

「ああ、またな」

「はい」

 悠は水谷と別れると、彼から離れた場所で携帯を開いた。

『今から来い』

 いつも通りの簡素な渉からの呼び出しに、悠はため息を零して携帯を閉じ、マンションへを足を向けた。

 最初は手こずったオートロックももう慣れた。

 暗証番号を押し、マンションの玄関を開けると、悠は渉の部屋へ向かった。

 渉の部屋に行く時、悠はエレベーターを使わない。

 あの狭い箱の中にいると、無駄なことを考えてしまうからだ。階段を上っていると、上ることに集中して、何も考えずに済む。

 渉にはトレーニングになるからと言い訳していたが、本当はそういう理由だった。

 さすがに渉に無体を強いられた時は帰りのみ、エレベーターを使っていたが、それでも階段を使いたいと思っていた。

「……」

 ようやく、渉の部屋まで階段をのぼると、悠はその部屋の前でチャイムを押した。

 だが、なかなかドアが開かない。

「……」

 どうしようかと悩んだけれど、悠は仕方がないと初めて自分で鍵を開けた。

 いつも渉が鍵を開けてくれるのを待っていた。悠には渉の部屋を開ける勇気はなかったのだ。

 呼んだのは渉でも、渉がいないのに部屋にいて、帰ってきた渉に嫌な顔をされるのが怖かったのだ。

 だが、今日は中に人の気配を感じて、悠はドアを開けた。

 けれど、その時、ドアは開いてはいけなかったのだろう。

 ドアを開けると、玄関のエントランスに渉の靴と女性物のヒールが見えた。

 誰か来ているのかと、帰ろうかと思ったが、渉がいるのに勝手に帰ったら怒り出すだろうと、悠はとりあえず中に入った。

 けれど、リビングには渉はいなかった。

 こうなれば寝室しかない。

 だが、寝室のドアを開ける勇気はさすがに悠にはなかった。

「…羽住!」

 その時、帰ろうとした悠を寝室の中から渉が呼んだ。

 その声にひくんと悠は身を強ばらせた。

「帰るなよ、帰ったら許さないからな!」

「…あ…」

 悠は渉の言葉に足を止めて、じっと寝室の前に立った。

 中にいる渉にもその気配が感じられたのだろう。

 渉はなおも言った。

「中、入ってこいよ」

「…え?」

「何度も言わせんな!」

 悠は渉の言葉に驚いたが、その悠の逡巡を渉は許してくれなかった。

 悠は震える手で寝室のドアノブを掴むと、ゆっくりとドアを開けた。











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2009.2.21

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