11




 もう、ずっと辛い。

 けれど、どうにもできない。

 いっそ、渉を嫌いになれたらいいけれど、そうするには渉を好きになりすぎた。

 脅迫されるという立場ではあるけれど、渉の側にいられる状況になった今、それも無理な話だった。

 身体を重ねれば、どんなにひどいことをされても心は動く。まして今まで口も聞くことのできなかった相手と一緒にいられるのだから。

 辛いけれど、一緒にいられる状況が一層に悠の心を動かしていた。

 以前は挨拶すら交わせない間柄だったから、余計に今の辛い状況でも側にいられるのが嬉しかった。

 悠は小さくため息をつくと、予定していたように、道場へと向かった。

 それから朝練が始まるまで、一人で練習をし、そして、練習が終わるといつものように授業を受けた。

「今日も休みか、渉のやつ」

 不意に声が聞こえて、悠はそちらを見た。

 渉が親しくしている友人たちで、渉の机を囲んで話している。

「なんかドラマの撮りがとか言ってたぜ。最終的には俳優になりたいから、頑張るとか言ってたな」

「へえ、あいつもまあ、ちゃらちゃらしてばっかじゃいられないってことか」

 渉の友人は口が悪く、乱暴な物言いのものが多いのを悠は知っている。

 けれど、言葉は乱暴でも渉に対する優しさが見えて嬉しくなった。

 渉にはそういう人間はあまり多くない。友人も少ないし、部活ではあまりに強すぎる悠に皆、一線を引いているところがあり、話しかけてくるものは極少数だ。

 別にそれを悪いことだとは思っていない。

 自分の性格上、それも仕方のないことだと思っている。

 それでも渉をどこか羨ましく思ってしまうのは仕方のない話だろう。

 羨ましく思い、そして憧れて、好きになった。

 そんな図式が目の前にある。

 悠の練習している様が綺麗だと言ってくれた渉。

 その言葉に今も縋り付いている。

「羽住、部活行こうぜ」

「あ、ああ」

 比較的仲のいい部の友人が呼びにきたのに、悠はこくんと頷いて彼の後を追った。

「なんか顔色悪くないか?」

「そうか?」

 別に身体の調子が悪いわけではない。

 確かに昨日から今朝にかけて散々嬲られてはいたが、それくらいでどうにかなるほど柔ではないと思っていた。

 だが、身体の中を探られるという行為は負担になっているのかも知れない。

 道場に着くと、その脇にあるクラブハウスで袴に着替え、そのまま走りに出る。

 裸足で走るものだから、最初は足が痛くて仕方がないが、随分慣れた。

 いつもよりも少しペースが遅いのを考えると、確かに調子はよくないのかも知れなかった。

「悠、どうした」

 後ろからぽんと背を叩かれて、驚いて振り向くと、水谷がいた。

「…先輩」

「ほら、しっかり走れ。頑張れよ」

「…はい」

 ふらふらしていてこれ以上心配かけるのもよくない。

 悠は身体を奮い立たせて何とか走り抜いた。

 その後の練習も今朝の無理がたたってしまったのか、かなり辛いものだったが、それでも何とかこなせることができた。

「悠」

 部活が終わり、着替えをすませると、後ろからぽんと肩を叩かれた。

「途中まで一緒に帰ろう」

 水谷だった。

 そう言えば、以前はよく一緒に帰っていた。

 最近は渉が水谷と接触を持つのを嫌がるためにそれもできなくなってきていた。

 何もないというのに、渉は信用しない。

 水谷と悠が関係があるものだと思っている。

 他の部員は知らないが、水谷にはずっと大事にしている幼馴染みの彼女がいる。小柄で、決して美人ではないけれど、とても優しい笑顔を浮かべる人だった。近くの女子校に通っていて、学校も違うから、知られづらかったのかも知れない。

「いや、その…」

「何か、用事があるのか?」

 水谷と一緒に帰宅したなんて知れたら渉が何を言うか分からない。それこそまた嬲られたら身体が持たないだろう。

 だから、首を振ったのだが、水谷がいぶかしげに悠の顔を覗き込んだ。

「…お前、本当に顔色がよくないな」

 そして、水谷は覗き込んだ悠の顔にそういって、うーんと唸った。

「何も用がないなら一緒に帰ろう。帰りながら、話を聞きたい」

「……」

 こうなると、もう何も言えない。

 不意に視線を感じてそちらを見れば、一緒に部活にきた友人が心配そうな顔でこちらを伺っていた。

 どうやら彼が水谷に相談したようだ。

 心配していたのだろう。

 その目が本当にじっと二人を見ているのに、悠は諦めて笑った。

 あんなふうに心配されていて、無頓着ではいられない。好意をあまり与えられない悠はその気持ちが嬉しかった。

「分かりました」

「…そうか」

 悠の言葉に水谷がほっとしたように笑うと、こちらを見ていた彼も笑った。

 その顔にこういって正解だったなと悠は思って、足下に置いてあったカバンを持ち上げた。

 水谷に先導されるまま外に出ると、すっかり日も落ち、空は闇に覆われていた。

「なんか久しぶりに練習した気がする」

 水谷は嬉しそうに笑って、悠を見た。

「悠」

「はい」

 こくんと悠が頷くと、水谷はどこか探る目をした。

「ほら、言えよ、吐いちまえ」

「…先輩」

「本当にしんどそうな顔をしているなあ」

 水谷はしみじみとそう言って、歩き出した。その水谷に置いていかれまいと、必死で悠も後を追った。

「お前、入部したてなのに、都大会の予選に出された時もそんな顔をしていた」

「……」

 水谷が言うのに、悠はそうだっただろうかと思った。

 あの時も辛かった。予選に正式なメンバーとして出してもらえると決まったとき、本当はよく頑張ったと先輩たちに褒めてもらいたかった。なのに、もらったのはこれでもかという罵詈雑言だった。そして、イジメにさえあった。

 道具を隠される、靴を隠されるなんてことは日常茶飯事で、あの時も折れそうになっていた。

 苦しくて苦しくて、けれどこんなことで大好きな剣道をやめたくなくて、しがみついて頑張った。

 いつか認めてもらえると、そう思っていたのに、認めてもらえることはなかった。現に今だって、誰よりも早くいかなければ道具や靴を隠されるだろうから。

 なんで自分ばかりと思ったこともある。けれど、この水谷が側にいてくれたから頑張れた。

 そして。

『なんか、すげー綺麗だな。努力してる人ってのは綺麗なんだ』

 渉が気まぐれに零した言葉が胸にあったのだ。

 けれど、きっと渉はそんな言葉を忘れているだろう。問いただしてもそんなことがあっただろうかと首を傾げられ、ますます傷つくだけだ。

 好きでいるしかないのに、好きでいるだけが辛い。

「また、なんかされてるのか?」

「いえ、もう…」

 さすがに悠が二年になった今、あんな嫌がらせを受けることはあまりなくなった。

 とはいえ、それでも時々嫌がらせはされるから、着替えの時に時間をずらしてやっているのだ。

 一年の時の陰湿さはきっとこれからも忘れられないだろう。

「本当にすまないな。実力の世界なんだから、悠が出てもおかしくないのに。どうしても『年功序列』っていういやな言葉に皆振り回れてるんだよな」

「…先輩」

「でも、何かあったら言えよ。去年はさすがにオレもまだ主将にもなっていなかったから、どっか力不足だったけれど、今はそんな心配もいらないから」

「…ありがとうございます」

 悠は水谷の言葉が嬉しくて頷いた。

「でも…」

「オレにも言えないことか」

 けれど、口を濁した悠に水谷は小さく笑った。

「相変わらず頑固だよな。お前、前に生爪剥いだ時も何でもないって言い張ったよな。いい加減、どっかで肩の力を抜けよ」

「…はい」

 そうはいっても、今悠を悩ませているのは渉のことだ。

 確かにもしもこのことを水谷に話したとしたら、水谷が間に入って、何とかしてくれるかも知れない。

 だが、そうして欲しくないという思いがあった。

 解決してしまえば、渉との繋がりが悠にはなくなってしまう。

 苦しくても一緒にいられる方法が悠にはそれしかなかった。

「…水谷先輩」

 けれど、耐えるのにも限界があったのかも知れない。

 悠は思わず水谷に囁いた。

「…好きな人がいるんです」











back / next
2009.2.7

back / index / home