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傷のことを話した。
それは新一にとってかなり特別なことだった。
幼等部でおきたこの事件のことは当時、保護者の間でかなり噂になったが、子供にまでいきわたらず、新一の傷を知る生徒はほとんどいない。
幼等部からの付き合いの新庄ですら、以前さりげに探った時、何のことか分からないという顔をしてみせたくらいだから、皆知らないと思っていいのだろう。
その傷の話を新一は亮介にしたのだ。傷を見せはしなかったけれど、その話をしたというだけでもかなりのことだった。
「そうか、浅見くんにねぇ」
そして、新一は浅見とのことを葉山という社会科を受け持っている教師に放課後、話に来ていた。
「そうなんです、浅見には話せたんですよ、あいつ、いいやつです」
新一が話すたびに葉山がうんうんと頷く。
葉山はあの事故の時、新一を発見してくれた教師だったのだ。高等部に入学した時に声をかけてくれたのがきっかけで、何かあると新一は葉山のところに報告にきていた。
「そうか、いいお友達になれるといいねぇ」
おっとりとした葉山は生徒に人気がある。熱血では決してないけれど、とても熱心に指導してくれるし、こういった相談事にも乗ってくれる。何より彼自身がこの学校の卒業生であるから昔の話を聞けるのが楽しいのだ。
「そうですね。俺、あいつのこと、毛嫌いしてたから、ちょっと後悔してて」
新一は照れくさくなって、頭を掻いた。
あの夜、亮介は新一を一晩抱いたまま眠ってくれた。おかげで背中がそれ以上痛むこともなく、朝までぐっすり眠れた。朝、顔を合わせたとき、少し気恥ずかしかったけれど、嬉しくて仕方がなかった。
あの日からほんの少しだけ関係が変わったとは思った。新一は亮介を認めたし、亮介は新一にわずかな気遣いを見せるようになった。
分かるのは当人くらいの変化だけれど。
「誤解を受けるところは確かにありますけど、いい子ですよ、浅見くんは」
葉山にそういわれ、新一はなんだか背中を押されたような気がしていた。
「そうですね。だから俺、もう少し浅見と仲良くしてみようかと思って…」
「それはいいことです」
葉山はそういって立ち上がると、校庭に目をやった。
「…あの池はね、友情の泉といわれていたんですよ」
「友情?」
「ええ」
葉山につられて、新一は彼に並んで窓の外に目をやった。視線の先にあの池がある。
「あの池の中にはこれくらいの小さなくじらの形をした石が入っているんですよ。あの池を作った時の理事長がした、悪戯だったんですけどね」
「…くじらの石?」
葉山が手のひらの上にくじらの形を指でそっとなぞって象るのに、新一は何かどこか遠くに聞こえる声を聞いた気がした。
『くじらの石、見つけるんだ!』
なぜか、どこかで聞いたような気がしたのだ。
くじらの形をした石。それは本当に遠い頃の記憶のよう。
「それをね、手に入れると、本当に仲良くしたい人と仲良くできるようになったり、友情が永遠に続くようにと願うこともできるといわれていたんですよ。友情、ではなく、恋愛に変換していた生徒の方が多いようでしたけど。フェンスで囲われて、中に入ることができなくなってからはすたれた話ですね」
「…そうだったんですか」
新一が驚いてまじまじと池を見詰めるのを見ながら、葉山は言葉を繋いだ。
「けれど、その話があったおかげで僕は君を発見できたんですよ。あの話を信じて池に入る生徒が絶えなかったんでね、事故が起こらないようにと見回っていて、君が浮いているのに気づいたんです。だから、あのちょっとした伝説めいた話は君の命の恩人なんですよ」
「…先生」
本当の命の恩人は葉山ではないかと新一は思いつつも、彼の話に頷いた。
確かにそんな話が伝わっていなければ、新一が見つかるのは遅れていたかもしれない。
「…くじらの石か…。見てみたかったかもしれませんね」
「見ますか?」
「え?」
驚く新一に葉山はいたずらっぽく笑うと、軽く手招きして机の引き出しを開けて、中から小さな袋を取り出した。
「これですよ」
「…本当だ」
その袋から転がり出たのは本当にくじらの形をした小石だった。面白いことに潮まで吹いている。それを葉山は新一の手の上に置いた。
「すごい、本当にくじらだ」
「そうでしょう。僕もね、学生の頃に伝説を信じて手に入れたんですよ。大切な思い出の品です」
「……」
新一は手のひらの石をじっと見詰めた。古い学校に伝わった不思議な話。こんな小さな石にいったいどんな力があるのだろう。
そこまで考えて、新一は葉山を見た。
「あの、じゃあ、先生も何か友達とか、恋愛のことで願い事を…?」
「…さてね」
新一に問われ、葉山は意味深に笑った。
「まあ、これは青春の記念ですよ」
葉山はそういって、新一の手から石を取り上げると袋にしまい、そのまま机にしまいこんだ。
「さあ、もうそろそろお帰りなさい。一般生徒は下校時刻ですよ」
言われて、時計を見る。もう六時を時計が指しているのに、新一は慌ててかばんを持った。
「じゃあ、また来ます。さよならっ」
「ん、さようなら」
葉山がにっこりと笑って見送ってくれるのを、新一は慌てて準備室を出た。
寮までは歩いて十分程度だ。今日は弓道部が休みだということを他のクラスメートに聞いて、亮介とゆっくり話ができると思っていたのだ。
まだ少し苦手だけれど、それも歩み寄っていけば好きになれると思った。
何が原因で最初から嫌いと思ったのかは謎だが、それさえ解ければ、きっと仲良くなれると感じていた。
「ただいまー」
寮につき、寮監のおじさんが玄関を箒ではいているのに声をかけると、彼はああと顔をあげた。
「おかえり、渡瀬くん。奥にご両親が面会に来られているよ」
「…あ、はい」
またかと新一は内心げっそりしながら、寮監に頭を下げると、寮の中に入った。
カバンを持ったまま、奥の通称面会室と言われる部屋に向かった。
「父さん、母さん」
「ああ、新一」
部屋に入ると、両親が落ち着かない様子で新一を待っていた。
「なに、用があるなら電話でいいじゃん」
部屋に電話はひかれていないが、皆個人で携帯を持つことを許されている。何か用があるならその携帯に電話をしてほしいと、新一は心底嫌になりながら両親を見た。
新一が寮生になってから、一ヶ月に最低二度は面会に訪れる両親。寮監には大切にされているんだよと言われたが、他の寮生からは揶揄の対象になってしまっている。過保護だ、箱入りだと言われるたびにいたたまれない思いをしているものだから、あまり来るなと言っているだが、未だに聞き入れてもらえていない。今月はこれで三度目の面会だ。
「父さんも会社、あんまり休んでくるなよな」
設計事務所の社長をやっている父に文句を言えば、振り替え休日だと社長にそんなものがあるのかというような理由を返されて、新一はげっそりとする。
さっさとすませて部屋に戻ろうと、新一は両親の向かい側に座ると、それでなにと切り出した。
「で、何があったの?」
「あなたの顔を見に来ただけよ、それだけじゃだめなの?」
「……」
半分涙目で抗議する母に新一は項垂れる。
そんな理由でこんなに頻繁に訪れられていたらたまらない。
「…あのねー、こんなにしょっちゅう来られたら、何のための寮入りか分からないだろ?俺、自立の一歩で、っていって納得してもらった気でいたんだけど」
「自立なんてもっと先でいいじゃない。お母さんは元々寮に入るのなんか反対だったんだから」
とうとうハンカチを目に押し当て始めた母に新一はどうしたものやらと二人を見た。
「…家に帰れってだけなら、もう部屋に戻るよ、俺」
このままじゃ堂々巡りもいいところだ。もう勘弁してくれと、新一が腰をあげようとした瞬間、父が口を開いた。
「新一」
「…なに?」
いつもは母の付き添いぶって、新一に話しかけることのしない父が声を上げたのに、新一は首を傾げて彼を見た。
「おまえ、浅見亮介くんという同級生と同室になっているというのは本当なのか?」
「…え?」
どうしてそんなことを知っているのだろうと思いつつ、新一は首を傾げた。
「…なんでそんなこと、知ってるんだ?」
「やっぱりか」
父は眉間に皺を寄せ、新一を見た。
「新一、僕は過去は過去として水に流すことをずっとやってきていた。罪も咎もそれでいいんだと。けれどね、君に関することは別なんだよ。その話を知った時、僕は絶対にそれだけは許せないと思ったんだ」
「…父さん…?」
父の顔を怪訝に見、それから母を見ると、彼女ももう泣くのをやめ、じっと新一を強く見ていた。
「あの時はそれでいいと思っていた。将来のこともある、先のことを考えれば僕も人の子、人の親だから、気持ちが分かると。でも、やっぱり許せないんだよ。あの時起こったことへの後の仕打ちがね」
「どういうこと…?」
あの時、と言われてとっさに思い浮かんだことはひとつだけ。
日頃温厚な父が新一のことで激怒するのはたったひとつのことだけだ。
ずきりと、瞬間痛んだ背の傷に、新一は顔をしかめながら、父をじっと見た。
「理由は今から話そう。あの時のことは君も知っておくべきだから。その上で、君は浅見亮介くんとの関係をどうするのか、考えてもらいたい。ただ、分かってもらいたいのは僕も彼女も親として、まだ彼と彼のご両親を許していないんだよ。できれば君が彼と親しくなるのはやめてもらいたいと思っている」
「……」
その後、父が淡々と話したことは衝撃的なことばかりで、言い終えた両親を見送った新一はおぼつかない足取りで部屋に向かった。
「おー、新一、親、帰ったのか?」
新一がぼんやり歩いていると、開けたままにしている自室から、新庄が顔を出した。
「ああ、新庄」
その新庄に新一はぼんやりした目を向けた。
「…あの、浅見、部屋かな」
「たぶん。さっき帰ってきてたの見たし。あいつ、娯楽室には行かないだろ?」
「そっか」
新一がこくんと頷くのに、新庄は怪訝そうな顔をすると、新一の顔を覗き込んできた。
「おまえ、なんて顔してるんだよ。どうした、何があった?親、また帰ってこいって?」
「そういうんじゃない…」
軽く新一は首を振ると、薄く笑った。
「なんで俺があいつのことを嫌いなのか、あいつが俺になんで嫌ってろっていうのか、分かっただけだ」
「…新一?」
新一は新庄から目を反らせると、そのまま部屋に向かった。
どうしたらいいのか分からないけれど、聞かなければいけないと思ったのだ。
もしかしたら、亮介も覚えていないかも知れない。けれど、覚えているかも知れないから。
理由を、亮介の『理由』が欲しかった。
「…浅見?」
部屋のドアを開けると、亮介はベッドの上で雑誌を読んでいた。
一体何の雑誌を読んでいるのかは知らないが、いつも亮介はこうだった。
「…おかえり」
最近、亮介は新一に笑顔を向けるようになった。たぶん、新一を抱き締めてくれた夜からだと思う。
無防備な優しい笑顔。他の誰にも向けたことのない笑顔が新一に優越感を持たせてくれていたけれど、さっきの話を聞いた後ではこの笑顔の意味をもっと違うところに見つけそうになる。
「……」
新一は部屋のドアを閉めると、カバンを足元に置き、それからゆっくり制服の上を脱ぎ始めた。
「…新一?」
着替えにしては変だと亮介も分かったらしい。何しろ、亮介の目を見据えたまま、新一は服を脱いでいるのだから。
新一はワイシャツに手をかけ、中の下着代わりのTシャツも脱ぐと、上半身裸の格好で亮介に背中を見せた。
「…っ…」
亮介が息を飲んだのを感じる。だが、目を放せないのか、背中にちりちりとした強い視線を感じた。
「…さっき、俺の親がきて、おまえのことを話していった」
「……」
沈黙は肯定なのだろうか。
新一は久しぶりに人目に晒した背中の傷にかすかな幻痛を感じながら、言葉を繋いだ。
「俺とおまえが同室だと聞いて、慌てて来たらしい。できればおまえとは親しくするな、部屋も早く別室に変えてもらえと。俺には意味が分からなかったが、両親がこの傷ができた時のことを話してくれて納得した。親としてならそういうだろうなって」
「…そうだろうな」
ぽつんと亮介がそこで口を挟んだ。
「俺がおまえの親でも言うだろう。あんなことをした男には近寄るなってさ。たとえ、幼等部の頃の話でも、だからこそ恐ろしいって」
「…おまえ…」
亮介は知っていたのか。
驚いて振り向いた新一に亮介は自嘲気味に微笑んだ。
「そう、あの時、池におまえを突き落として大怪我させたのは俺だ。なぜか俺を嫌いだというおまえが気にくわなくて、本校の池にまで連れてきて、突き落としたんだ。そのせいでおまえは背中に大きな傷を負って、背骨にひびまで入れた。子供同士のことだからと示談になって、治療費を俺のとこが持つってことで話はついた」
「……」
亮介の話は父の話を裏付けた。
だが、父は言っていたのだ、そこまでならよかったのだと。
このことは子供の将来にかかわるから他言無用としようと、学校が間に入って話をつけたと。
それは親として相手側の親の心境も察せたから、当たり前のことと受け入れたと。
けれど、その後、亮介の両親はしなくてもいい配慮をしてしまったのだ。
「けど、俺の親はそれだけじゃ納得できなくて、おまえのとこの親と学校を買収しようとしたんだよ。絶対に話が漏れないようにって」
亮介の家が古い資産家の家系だということは新一も知っている。父親は大きな会社の社長でもあって、亮介もそこを将来継ぐのだろうと言われていた。
その跡取りが起こした不祥事に親はもみ消すことに躍起になったのだ。
「けど、どっちも失敗。学校側はやんわりと断ったらしいけど、おまえんとこの親はすごく怒って、俺の家にその金を突き返しにきたの、まだ覚えてる」
「……」
新一は淡々と語る亮介の顔を見ながら、父の話を思い起こしていた。
「新一、おまえが池に浮かんでいるのが発見された時、浅見くんが傍にいて、僕のせいだと泣いていたんだ。僕が新一に怪我をさせてしまったと」
父も今の亮介と同じように淡々としていた。感情を抑え、できる限り事実だけを述べようと。
「おまえの傷は本当にひどくて、もしかしたら歩けなくなるんじゃないかとも言われた。けれど、設備のいい病院に搬送してもらって、きちんとした治療を受けたおかげでおまえは傷は残ったものの、恐れていた麻痺はどこにも残らなかった。だから、わたしたちは今回のことは忘れようと思ったんだ。おまえの将来も浅見くんの将来も大切にしたいと」
だがと、言葉を切って、そこで初めて父は感情を出した。
「おまえたちの将来を思って、わたしたちは忘れたのに、浅見くんのご両親は口止め料として、わたしたちに小切手を送ってきたのだ。わたしたちの思いを踏みにじって」
優しさを金額にすり替えてきたのだ。
だから、父は怒って突き返した。こんなものを受け取らなくても、事件のことは口にしないと、誓約書まで添えて突き返したのだと、父は言っていた。
「だから、できればわたしたちはあの浅見くんとはおまえに接触を持って欲しくない。…覚えていないおまえには寝耳に水で、聞き入れられないことかも知れないが、それでも親としては放っておけないんだ」
きっとあの時の悔しさを思い出すからだろう。
子供の将来を心配するあまりのこととは言え、やり方を浅見の親は間違えたのだ。
「…ひどい傷だな」
亮介の声に新一はハッとして彼を見た。
亮介は新一が脱ぎ捨てたYシャツを持ち上げた。
「この間の夜、おまえが痛みで苦しんでいるのを見て、俺は自分のやったことを思い知ったよ。嫌われているなら、嫌われているままにしておけばよかったんだ。それをおまえにこんな傷をつけてしまって。…本当にひどい…」
亮介はYシャツを新一の肩にそっとかけると、その新一に囁いた。
「だから、おまえは俺を嫌いでいろ。俺を好こうなんて思うな」
そう告げると、亮介は新一の横をすり抜け、部屋を出ていった。
ぱたんと閉じたドア。新一は亮介の後ろ姿を見送ったまま、じっと立ちすくんでいた。
「…今の、なんだ?」
一瞬、何かがチカッと光ったのだ。俺を好こうと思うなと、亮介が言った瞬間。
「…考えろ」
ぽつりと呟く。
そう、考えなければ。
どうしてあんな遠い池まで幼等部の子供が歩いていったのだろう。大人の足で二十分程度、なら子供の足なら倍はかかる。そんな場所に亮介は新一を突き落とすために連れ出したのか。
いや、それは不可能だろう。
自分の意志で歩こうと思わなければ、そんな距離を黙って子供は歩けない。途中で嫌になって帰ろうとするだろう。
亮介と池に向かったのならば、そこには何らかの合意がなければいけない。
一緒に池に向かうという合意。
『友情の泉と呼ばれていたのですよ』
葉山の言葉が思い出される。池の底にあるくじらの石を手に入れれば、友情が手には入り、永遠の友情が持てるという伝説。
『くじらの石、見つけるんだ!』
あの声は一体誰の物だったのだろう。
新一は必死で考えた。
考えなければ、思い出さなければいけない。
どうして自分があんなことをしたのか、亮介があんなことをしなければいけなかったのか。
本当のことはきっともっと違うところにあると思ったのだ。
痛みに呻く新一を抱き締めてくれた、あの優しさを嘘だとは思いたくなかった。
「…池…」
不意に思いだしたこと。
すべての発端は目の前にある。
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2007.3.10
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