風呂のことで言い争いになってから、亮介はあまり新一と話そうとしなくなっていた。
 ただ、同室になった初日同様、付きまとうことはやめなかったが。
 朝から晩までずっとついてこられるのには辟易したが、それも自然と慣れるもので、傍に亮介がいても何とも思わなくなった自分に新一は驚いていた。
 あれほど嫌っていたのにと新庄あたりにはほだされたかと嫌な言い方をされたが、その点はみとめざるおえなかった。
 亮介の存在というものを新一は許容しはじめていたのだ。
「すげー降ってるなあ」
 そんなある日の放課後、新一は部室棟から第二校舎へと渡り廊下を歩いていた。
 クラス委員長を勤めている新一は担任に確認したいことがあって、彼を探して部室棟にいった帰りだった。本校舎で見当たらないと思っていたら、顧問をしているバスケットボール部のミーティングに出ていて、部室棟にいたのだ。
 どうりでなかなか見当たらないはずだと、ようやくすんだ用事にほっとしていた。
「…何の音だ?」
 その時、何か鈍い、けれど小気味いい音が聞こえた。
「…こっち?」
 日頃ほとんどきたことのない弓道場からその音は聞こえていた。
「…あ…」
 気になって弓道場の窓から中を覗くと、誰かが弓を射っていた。
 さっきから聞こえる音は矢が的に当たる音だったのだ。
 見事に的に命中していく矢に新一は思わず見とれた。
「…うわ…」
 だから、その生徒が振り向いた時もただぼんやりと見ていたのだ。
 そう、そこで弓を射っていたのが浅見亮介だとも知らずに。
「…浅見」
 驚いたのは亮介も同じだったらしい、その茶色の瞳を何度も瞬かせて新一をまじまじと見た。
「新一か?」
 亮介の言葉に何度も頷きながら、そういえば浅見は弓道部だったなと新一は思いだした。
 その新一に亮介はきょろきょろと当たりを見回すと、軽く手招きした。
「え?」
「入ってこいよ、そこじゃ濡れる」
 確かに渡り廊下の屋根と弓道場のひさしの間に立っているから、さっきから雨の雫が肩を濡らしている。
 新一はどうしたものかと思ったが、もう少し見ていたいという好奇心が勝って、弓道場の中に入った。
「は、初めて入る…」
 靴をたたきで脱いで中に入ると、亮介は薄く笑って出迎えてくれた。
「ここは弓道部だけが使っている場所だから。一般の生徒は初めてでも当たり前だろ」
 亮介は新一が中に入るのを確認すると、矢をまた弓に添えて、放った。
「……」
 素人目にも亮介がかなり上手いことは分かった。
 的を射る矢の音が全く違うのだ。
 ひゅんと風を切る音に自然と姿勢が正される。
「おまえもやってみるか?」
「…え、俺?」
 じっと熱心に見ているのが気になったのか、亮介がそう誘うのに、新一はいいんだろうかと思いつつ、亮介の前に立った。
「はい、弓と矢」
「…ああ」
 ひょいと渡されて、新一は眉間に皺を寄せる。一度もやったことがないのに、できるのだろうかと一抹の不安を持ちつつ、弓を持った。
「…えいっ」
 で、見様見真似でとりあえず射るだけは射ったのだが。
「…なんだ、こりゃ」
 矢はなぜか地面に向かって落下した。
 垂直に地面に突き刺さった矢に新一はむーっと眉間に皺を寄せると、傍で見ていた亮介に駄々をこねるように怒鳴った。
「こら、教えろ、浅見!」
「…分かった」
 亮介は新一の言葉になぜか嬉しそうに笑って、新一の背中に回ると、ぴったりとその背に張り付いて、後ろから弓と矢を新一の手に重ねて持った。その密着加減に新一は驚いた。
「なあ、いつもこんな感じで教えてんのか?」
「…こういう教え方しか知らない」
「……」
 確かにこれは亮介に少しで好意を持っていれば錯覚する体勢だなと新一は冷静に思いつつ、亮介がサポートするとおりに弓を構えた。
「肩を怒らせないで、姿勢をよくして。…そう、絶対に腕は降ろさないで」
「わ、分かった」
 かなり苦しい体勢だなと思いつつ、新一は亮介のいう通りに弓を構えた。
「で、引き絞って、射る」
「…うっ」
 力の足らない新一の手に亮介は自分の手を重ねて、弓を引き絞った。
「…えいっ」
 かけ声とともにまっすぐ矢が飛んでいく。
 そして、的に命中した。
「うわ、すげー」
 さっき地面に突き刺さった矢は一体なんだったんだろうと思いつつ、思わず呆然と新一は矢を見つめた。
「できただろ?」
「ああ、すごかった」
 後ろから囁かれて、新一はこくこくと何度も頷いた。
「おまえがサポートしてくれたからだな」
「もう少し力を付ければ、おまえも簡単に打てるようになるさ。俺の手なんか借りなくても」
「そうかな」
「ああ」
 気分がよくなっている上にそんなことまで言われて、新一は気分が浮上していくのを感じつつ、ひとつ思い浮かんだことを亮介に言った。
「俺、おまえがもてる理由、分かった、なんとなく」
「そうか?」
「うん」
 この男の優しさのせいだ。
 何気なく、当たり前にされる優しさが心地よくて、もっとと望んでしまうからだ。
「でも」
 納得している新一に亮介は小さく囁きかけた。
「新一は俺が嫌いだろ?」
「……」
 どうして今そんなことをここで言うのだと、新一は眉間に皺を寄せた格好で亮介を見上げた。
「…嫌いだけど」
「そうか」
 そして、新一の返事に亮介は嬉しそうに笑った。
「ずっと俺のこと、嫌いでいろよ」
「……」
 こんなことを念押しされるというのはどういうことなのだろうと思いつつ、新一は軽く頷いた。
「分かった。そうしてやる」
「…それでいい」
 亮介は新一の返事に満足したように頷くと、ここを片づけていくからと、新一を弓道場から追い出した。
「…なんだ、あいつ…」
 ちょっとだけ、嫌いというのを返上してやろうかと思っていたのに。
 あのすげない態度は一体どういうことなんだと新一はやっぱりあの男は嫌いだと思って、さっさと寮に戻った。
 その後、亮介は門限ぎりぎりに帰ってきた。
「おまえなあ」
 亮介の髪が雨が原因とは思えない湿り方をしているのに、部屋で鉢合わせた新一は低く唸った。
「ここにいる間はそういうことすんなよ」
 どう見ても誰かとそういうことをしてきた後のようだ。いつも気怠そうな亮介だが、今日はそれに輪をかいて気怠そうだ。
 新一の小言に亮介は眉一つ動かさず、いつものように眠いと一言言ってベッドに潜り込んだ。
「…ったく、なんだっていうんだ、もう…」
 さっきまで飯はどうしたんだろうと心配していた自分が馬鹿に思えてくる。
 なんだかんだと亮介が嫌いだといいつつも、最近の新一はそれほど亮介の存在を毛嫌いしているわけでもなくなってきていた。
 単純に馬が合わないだけなのだと、最近は思い出した。
 声をかわすのも嫌だったのに、最近は一緒の部屋にいることは気にならない。その心境は自分でも謎だったのだが、自堕落に見えてきちんと生活をしているところや結構優しいところを見るにつけ、第一印象というのはあてにならないものなのだなと思い直してきているせいかも知れなかった。
 嫌い、ではなく、苦手程度に振り分けた方がいいのかも知れない。
 そう思いつつ、新一は眠る亮介に背を向けて、また机に向かいだした。
 新庄には完璧主義とからかわれたが、新一は毎日予習と復習をしないと眠れない性分なのだ。なかば癖になっているものだから、今更変えようもない。
 ようやく全部済ませると、時計はもう十一時になっていた。一応消灯は十一時三十分になっている。慌てて、開けたままになっているカーテンを閉めようとして、新一は不意に下を見下ろした。
「…あそこ…」
 視線の先に校舎敷地内の池。池を囲う背の高いフェンスは新一があの池に落ちるとすぐにつけられた。本当は埋めることも考えられたらしいが、ここに藤峰学院が作られた時からある池だからとフェンスで囲うだけにされたのだという。
 新一の両親は埋めるように抗議したが、結局聞いてもらえなかったとひどく立腹していた。
 そういう状況なものだから、本当は今も新一がこの学校に通っていることが両親には気にくわないらしいのだ。新一自身はこの藤峰の自由な校風が気に入っていて、しかも気の合う友人も多いとなればよそに移る気には全くなれなかった。
 その上、新一自身にはあの池に関する記憶はないのだから。
「…さ、寝よう」
 考えていても仕方のないことだと、新一はカーテンをひき、部屋の灯りを消した。
「おやすみ」
 もう寝ているであろう亮介に一声かけて、新一はベッドに入り目を閉じた。
 だが。
「…っ…ぁ…」
 ほんの数分、眠りに落ちていた新一を激痛が襲ったのだ。
「…ヒッ…い…」
 声が出ない。背中がひどく痛むのに、新一はベッドの中でのたうった。
「…ぅ…っ…」
 痛みをやりすごそうと必死になりながら、しまったなと新一は今日の自分の行動を思い返した。
 元々、新一の背中の傷は何かの拍子で傷む。幻痛じゃないだろうかと、新一は思っていたのだが、あの事故の時に背骨を痛めていたためだというのだ。折れなかったが、ひびが入ってしまったことで、完治してなお、神経の集中していた場所を傷つけた後遺症が痛みになって襲うのだ。
 そして、今日はその痛みが起こる原因がかなり重なっていた。
 一つは雨が降っていたことによる湿気。そして、亮介の弓を射る姿に見とれていたため、しぶき程度とはいえ雨を浴び、体を冷やした。それから、不慣れな弓道をし、背骨に負担をかけた。
 その後、寮に帰って風呂に入って温めれば何とかなったのだろうが、いつもどおりシャワーですませただけだったから、体の芯に冷えが残っていたのだろう。
 冷や汗まで流れ出すのに、一体どれほど我慢すればこの痛みをやり過ごせるのだろうと、新一はベッドの中で声にならない声を上げた。
「…新一?」
 その新一の異変に亮介が気付いたらしい。
 声をかけられたが、痛みで言葉はただの呻きにしかならず、応えることができない。
「…おい、新一」
 ぎしっとベッドを亮介が降りる音がする。
 その音に来るなと新一は思った。
 弱っているところを見せたくないと、そう思ったのだ。
「新一」
 だが、そんな新一の心情もおかまいなしに亮介が顔を覗き込んできた。
「…どうした、何があった?」
 いつもは飄々としているのに、新一の様子がおかしいことに気づいたのか、今日に限って必死な形相で新一の顔をうかがっている。
 その顔に新一はゆるく首を振った。
「…ぁ…っ」
 だが、そんな首を振るという動作さえ痛みを発する。新一は思わず背中に手をやって、浅く喘いだ。
「…背中、傷むのか…?」
 亮介はその様子に新一の様子がおかしい原因を背中と気づいたらしく、新一の背に手をやって、緩くさすり始めた。
 手の温もりが新一にようやく息をつかせる。
 背骨に触らぬように、そっと息をくり返しながら、新一は亮介を見た。
「…ありがとう…」
 ぼそっと言葉が漏れた。ようやく喋られた新一は亮介を見た。激痛で涙が出たのか、亮介の顔が少しぼやけて見える。
「たまに、こうなるんだ。…事故で、背骨やったことがあって、その後遺症…。暖めると楽になるんだけど」
「そうか」
「もう大丈夫だから、戻れよ。ありがとうな」
 亮介の手のおかげで随分楽になった。
 心から感謝して、新一が礼をいうのに、なぜか亮介は新一のベッドに滑り込んだ。
「…浅見?」
 なんだろうと思っていると、しっかり背中から抱き締められた。
「こうしてればずっとあったかいだろ…」
「そうだけど…」
 確かに亮介の体温のおかげで体から痛みが消えていく。背中の激痛も随分ましになっていくのに、新一は目を閉じた。
「おまえ、優しいな」
「そうでもない」
 新一が感謝をこめてそう言えば、あっさりとそんな言葉が返ってくる。
 その言葉に新一は逆に傷のことを隠しておけないと思った。
 さり気ない態度で、こんなに優しくしてくれる少年には痛みの理由を話したかったから。
「俺さ、ここの幼等部に通ってる頃に事故にあったんだ。一人で遊んでて、何でか分からないんだけど、そこの池に落ちて、背中に大怪我負って浮かんでたっていうんだよ。今の痛みはその時、背骨にひびいれちゃった後遺症。冷えたり、湿気が多かったりすると痛くて仕方がなくなる。事故にあった時の記憶っていうのが全然ないから俺自身は実感わかないんだけどさ」
「…覚えてないのか?」
 新一の言葉の中のそんなところに気がついた亮介に新一は思わず笑った。
「ああ、全然覚えてないんだよ。きっとパニックになって記憶が抜けたんだろうな。元々幼児の記憶なんて曖昧だし。あの時のことで覚えているのは母さんが見舞いでもってきたメロンが美味かったってことくらいだ」
「…そうか」
 亮介は新一の言葉に納得すると、ぎゅっと新一の体を抱き寄せた。
「…浅見?」
 おかしなやつだなと新一が首を傾げると、亮介は低く言った。
「新一、おまえは俺を嫌いでいろよな」
「…おまえ、それ、なんで?」
 今日はこれで二度目だと思うと、問わずにはいられなかった。
 その新一の言葉に亮介はもう一度言う。
「理由なんていいから、おまえは俺を嫌っていろ。嫌っていてくれ」
「…浅見…」
 好いてくれというならいざ知らず、嫌えとくり返す亮介に新一も切なくなってくる。
「おまえ、わけわかんねーよ…」
「わけなんかいいから、俺のことは嫌いでいてくれ…」
「……」
 何か理由があるのかも知れない。
 けれど、言わずにはいられなくて口を開いた。
「けど、俺はおまえのこういう優しいとこは好きだ」
「……」
 びくりと亮介の体が強張った。
 その体に新一は全身を委ねて目を閉じた。
 亮介に何度言われてもやはり、こういう優しいところは好きだと強く思った。











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2007.3.3

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