朝起きると、もう亮介の姿はなかった。
 賄いのおばさんによると、六時三十分の朝食時間に食堂に来て、飯を食うと、さっさと寮を出ていったという。
 おかげで朝からあの男の顔を見ずにすんだのはありがたかった。
「浅見のやつ、昨日からおまえと同室だって?」
 学校に向かう途中、同じ寮生でクラスメートの新庄が追いついてきて、なんだか楽しそうに言った。
「ああ。昨日からな。一ヶ月も憂鬱だよ」
「まあ、おまえが嫌いだって言ってる相手だしな」
「あのなあ」
 新庄がどこか面白そうにいうのに、新一はむっとした。
「分かってるんならおまえが変われ。おまえも一人で部屋、使ってんだろうが。神辺さんに言え」
「やだよ」
 その新一の言葉に新庄は首を振った。
「俺じゃあ、逆恨みされる。その点、浅見嫌いが有名なおまえなら、逆恨みもされないからな。逆に皆、ホッとしてるよ、おまえになら浅見を独り占めされることもないって」
「本当になんか間違ってる、この学校」
 なんで男しかいないこの学校で、そういう独り占めだのという発想が出てくるのだろう。
 幼等部からこの藤峰にいる新一だが、その発想だけは分からんと思った。
「あの浅見と一緒にいて、なんともないおまえの方がおかしいんだって。あのフェロモン垂れ流しの男を前に」
「…俺はおかしくない、おまえらがおかしいんだ」
 確かに他人を惹き付けるだけの魅力はあると思う。
 スタイルも顔立ちもいいし、独特の雰囲気は飲まれそうになる。
 だが、その亮介を新一は会った時から嫌いだった。
 幼等部で、別のクラスだったけれど、ある日すれ違った時、こいつが嫌いだと思ったのだ。
 あれはもう本能が訴えかけるような嫌いという感情だったなと新一は思っていた。
「お、噂をすればだ」
 新庄の言葉に新一が目を向けると、なぜか亮介が校門前に立っていた。
 おかげで、そこに少し人が集まっている。
「何やってんだ、あいつ」
 さっさと教室に入ればいいものを、あんなところにいるから皆寄っていっているではないか。
 新一はむっとして、校門前の亮介に近づくと、その腕を掴んだ。
「おまえ、何をしている」
「新一を待ってた」
 すると、亮介は眠そうな声で言い、新一を見た。
「俺を?」
「ああ」
「…なんで?」
 新手のケンカを売られているのだろうかと、新一が身構えた瞬間、亮介は首を傾げた。
「…なんでだろ…。何となく、かな…」
「……」
 まだ寝ぼけているんだろうか、この男は。
 新一は深くため息をつくと、新庄へと視線を向けた。
「付き合っておれん、行くぞ、新庄」
「はいはい」
 新庄が可笑しそうに笑うのが一層苛立ちを深めたが、それには構わず、新一は新庄と一緒に校舎へと入った。
「おい、新一」
「なんだ」
「浅見、ついてきてるぞ」
「…はあ?」
 言われて振り返れば、亮介がいる。しかも取り巻きを引き連れてだから、かなり鬱陶しい姿だ。
「なんで、ついてくるんだ、おまえはっ」
 やっぱりからかってるんだろうかと新一が息巻けば、亮介は不思議そうな顔をした。
「なんで怒るんだ、新一。嫌いな俺が後をついてきたらやっぱり嫌か?」
「…当たり前だろ!」
 嫌いな相手に付きまとわれて喜ぶ人間がどこにいるんだと、新一が地団駄を踏みながら怒鳴るのを、新庄がまあまあと宥めるように肩を抱いた。
「ほら、怒ってないで、教室行こうぜ、遅刻カウント取られるだろ」
「…分かった」
 本当はまだ怒鳴り足らなかったのだが、確かにこのままでは遅刻は確実だ。新一は仕方なく、新庄が促すのに教室に向かった。
 その日、何がしたいのかは分からないが、亮介は新一の側を離れようとしなかった。それこそ昼飯にまでついてこようとしたのにはやはり怒鳴りつけてしまったが、その時も一緒にいた新庄に宥められ、渋々一緒に飯を食った。
 疲労困憊とはまさにこのこと、寮に帰る頃にはもう何が何だかどうでもいいくらい疲れていた。
 何しろ亮介といると怒鳴りっぱなしの苛つきっぱなし。少しも気の休まる時がないのだ。もうずっと怒鳴っていたせいで喉は痛いし、苛々のしすぎで頭まで痛い。
 頼むから夕飯だけは一人にしてくれと思ったのだが、いつの間にか亮介が新一の隣に陣取っている。
「…おまえ、一体どうしたいんだよ…」
 いつもは大盛りを頼むのに、中くらいでとごはんの盛りを頼んだ新一は、賄いのおばさんにお腹でも痛いのかと心配され、思わず嫌いなやつに付きまとわれて飯が喉を通らないんですと愚痴りそうになった。
 そんな新一の思いも知らずに、何が珍しいのか食堂の夕飯というものに興味津々と、亮介はさっきから箸で料理を弄っている。
「こら、飯で遊ぶな」
 たぶん、こういう躾のなっていないところもいやなのだろう。
 たとえ最後には腹に収まるとはいえ、こんなふうに飯で遊ぶということが新一には許せない。
「うん…」
 新一に窘められて、亮介は小さく頷くと、黙って食べ始めた。その横顔を見つつ、新一はいただきますと手を合わせた。
 食事を始めれば、静かになる。元々新一は口数が多い方ではないし、亮介にいたっては必要最低限なこと以外は話す気が全くないらしい。
 一緒に食事を取る友人達は普段なら騒々しいのだが、噂の男が目の前にいることで、緊張で食事があまり喉を通っておらず、話す気にもなっていないように見えた。
 その様にばかばかしいと新一はムッとしつつ、飯をかき込んだ。
「ごちそうさま」
 いつもの半分くらいの時間で飯を平らげた新一は部屋に戻ると言い捨てて、さっさと食堂を出た。
 何にしても少しの間、一人になりたかった。
「ふう…」
 部屋に戻り、ベッドに突っ伏す。
 何だか今日は散々だった気がする。
 亮介がまとわりついているものだから、彼に接触しようとする生徒たちに新一までしつこくつきまとわれた。
 同室になった途端、浅見嫌いを返上したのかと、揶揄までされて、ひどく立腹した。
 さかりのついた猫じゃあるまいし、昨日一晩で何かあったとでもいいたいのか。
 確かに浅見ならその一晩で人をどうとでも変えてしまえるだけの魅力がある。
 何よりあの目が悪い。茶褐色の瞳にじーっと見られると、ノーマルな人間でもとち狂う可能性はあるだろう。
 あのじーっと人を見るくせをやめろと前に新一は言ったことがあるのだが、近眼だからと訳の分からない理由で却下された。近眼なら眼鏡やコンタクトで矯正すればいいのに、面倒でしていないというところなのだろう。
 まるでサイだと思った。
 動物のサイは皆近眼だという。近づいてくるまで相手が敵か味方か分からない。だから、余計に気が荒いのだと。視力が悪いから、相手を見定めることができなくて、いつもぴりぴりしていなければいけないから。
 亮介は何も考えていないかのようにかなりゆったりとしている男だが、その実神経質だというのは嫌いだと思いつつも幼等部からの長い付き合いで分かっていた。
 問題を起こすことが多い亮介だが、きっかけがあの男だというだけで、本人は何もしていないのだ。気付けば周りが勝手にあの男の所有権を争ってもめている。
 本人はいつも人と間合いを取って、付き合いには十分な距離を持っているのに。
 不思議な男だと思っていた。
「新一」
 その時、ドアが軽くノックされて、亮介が顔を覗かせた。
「風呂、行かないかって」
 亮介の言葉に新一は壁の時計を見上げた。気付けばもう八時だった。
「いや、俺はいい。俺、いつも風呂入らないでシャワーですませてるんだ。勝手に行ってきたらいい」
「…分かった」
 律儀に誘いにきたのかと驚きつつ、新一は亮介に軽く首を振って断った。その新一に亮介はそうかと応えて、部屋の中に入ると、自分の着替えを持って出て行った。
 その姿を確認して、新一はのっそりと立ち上がると、自分もシャワーを浴びるかとシャワー室を開けた。
 何でも昔、部活で汗だくになって帰ってきた生徒が風呂の時間まで汗を流せないのは辛いと設置を要望したため、作られたのがこの一部屋にひとつのシャワー室だという。最初に見た時、無駄使いだなあと思ったが、皆と一緒に風呂に入ることのできない新一はどこかで助かったと思っていた。
「よいしょっと」
 小さな脱衣所で服を脱いでシャワー室に入る。そして、その壁に張られた大きめの鏡に、ちらりと映った自分の背中に新一は目を細めた。
 背中を斜めに縦断する大きな手術痕。昔負った大怪我の痕跡だという。
 新一は覚えていないのだが、まだ幼等部に通っていた頃に負ったものだと聞いていた。
 ほんの数分、定刻が過ぎていたために保母が園児達の帰り支度に追われて、全ての子供に目が行き届かなくなった瞬間に起こった事故だったという。
 新一が乗る予定のバスが園内に入り、点呼を始めたのだが、新一の姿が見えない。慌てた保母たちは全員で園内をくまなく探したのだが、一向に見つからず、ならばと捜索範囲を広げた時、幼等部に高等部の教師から、園児が池に落ちていると連絡が入ったのだ。
 何でもなぜか新一は幼等部ではなくて、こちらの中等部や高等部の敷地内の池の真ん中で血まみれになって浮いていたのだそうだ。
 今、自分が生きているから不思議な感じがするのだが、当時はそれこそ生死の狭間を彷徨ったほどにひどい傷だったそうだ。
 結局、一人で遊んでいて転落、そして池底の石で背を傷つけたのだと大人は想像し、事件はそれで終わった。
 ただ、その事件後、新一に対する両親の過保護はひどくなってしまったのだが。
 その過保護ぶりから逃れたい一心で高等部に入ってすぐ、新一は入寮したのだ。両親の心情を思えば当たり前なのだろうけれど、傷があることは分かっていてもそんな事件のことを覚えていない新一には戸惑うばかりだった。
「…はあ」
 シャワーを浴びて一心地つく。本当は風呂に入りたかったのだが、この背中の傷を人前に晒すことがはばかれて、大浴場には未だ一度も行ったことがない。
 それこそ初等部の頃から水泳の授業に出たことがないくらいなのだから、誰かにこの傷を晒すことは一生ないのだろうなと思っていた。
 それでもかまわないと思っていたし、気にもしていなかったのだけれど。
「ふう…」
 シャワーを浴びて着替えをし、すっきりすると、新一は外に出た。
「…あ」
 部屋に戻ると、ベッドの上で雑誌をめくっていた亮介と目があった。
「…シャワー、浴びたのか?」
「ああ。大浴場、どうだった?」
「…まあまあ」
 気のない返事だなと思って、新一は苦笑しながら、ベッドに座った。
「ここの連中はみんな付き合いやすい連中ばっかりだから、慣れるのも早いと思うぜ。面白いやつも多いし」
「…みたいだな」
 亮介は軽く頷いた。その顔にやっぱり何かつまらなそうだなと新一は思った。
 この男はいつもこんな感じで、つまらなそうだ。そのくせ、何に関しても苦もなく飄々とこなしていく。成績だって、スポーツだって、新一が努力を重ねなければどうにもならないものを何のことはないと飛び越えてしまう。
 本能的に嫌いと思ったけれど、後からいくらでもその嫌いに理由がついてきた。ただ考えられる理由がかなり僻みが入って聞こえるから言わないでいるだけだった。
「…新一」
「なに?」
 そろそろ明日の予習でもしておこうかと机に座ろうとした新一に、亮介がいきなり声をかけた。
「おまえ、ずっと風呂に入ってないって聞いたけど…」
「ああ…」
 理由が知りたいのかと新一はいつも応えている内容で応えた。
「俺、大浴場っていうの、苦手なんだよ。それでずっとシャワーだけにしているんだ。実家でも風呂よりシャワーで済ませること多かったから、習慣の問題だ」
 皆、この程度の理由で納得してくれた。なのに、亮介はその視線で新一をとらえたまま離さない。
「嘘だ」
 その上、こんなことをいう。
「おまえ、水泳の授業だって受けないだろ?なんか別のところに理由があるんじゃないのか?」
「……」
 亮介の言葉に新一は目を細める。
 じゃあと思った。
 じゃあ、この傷を晒してもいいのか。
 初等部の頃、傷を負ってから初めて受けた水泳の授業で、新一の背中の傷を見て泣き出した生徒がいた。怖い怖いと新一を指さして、大声で泣き叫んだ。あれからだ、新一が背中の傷を極端に見せるのを嫌がりだしたのは。
 その生徒の顔も名前ももう覚えてはいない。だが、あの怯えた目を忘れていない。
 自分の存在が他人に恐怖を与えると新一は傷を封印した。
 あれから随分経って、年齢を重ねた分、高等部の連中がそんなことをすることはないと分かっているのだが、あの時のいいようのない寂しさと悲しさは新一の心に癒えることのない大きな傷を作ってしまっていた。
「…ほっとけよ」
 だから、反射的に亮介を突っぱねる言葉が出た。
「なんでそんな詳しい話までしなくちゃいけないんだよ。それもおまえに」
「……」
 ひどい言葉だと思ったけれど、止まらなかった。
 うずうずと背中の傷が疼く。防衛本能のようだ。傷つけられると思って、必死で相手を攻撃している。
「…分かった」
 亮介はしばらく黙って新一を見ていたが、やがて小さくそう言って、また昨日のようにベッドの中に潜り込んだ。
 その姿にほんの少し胸が痛んだけれど、どうしようもなかった。
 傷がずくずくと鈍く傷む。
 その痛みに自然と背中へ手をやりながら、新一は机に俯した。











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2007.2.25

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