それから結局学校に行く気になれたのはカインのマンションに居候してから一週間経った後だった。

 幸也は久しぶりの学校にどこか気後れしながら、教室のドアをくぐった。

「あ、おはよう」

 その幸也を克己が見つけて声をかけた。

「おう」

「元気そうだね。よかった」

「そうか?」

 克己の言葉に幸也はカバンを机に置いて、克己を見た。

「まあ、心配はしてなかったけどね。一応、聞いてたし」

「……」

 そう言えば、克己はカインの会社に出入りしているのだ。

 カインともそれなりに親しい間柄だと聞いている。その中で聞いたのだろう。

 幸也は克己の穏やかな笑顔に小さく笑って、椅子に腰を下ろした。

「そっか、ならいいか」

「まあね、色々聞いたけどね。宅間さん、嬉しそうに橘くんと一宮くんのこと、話してくれたから」

「あの人に聞いたんだ」

「そだよ、宅間さんは一宮くんのことなら大抵知ってるから。橘くんが風邪で休みって聞いて、でも随分長く休むから、もしかしてって、宅間さんに聞いたってわけ。ちゃんと説明してくれたから、安心した」

「そっか、ごめんな、オレ、携帯どっかにやっちまって、お前の連絡先、全然分からなかったから、説明できなくて」

 携帯の中に克己の連絡先の全てが入っている。

 どこかにメモぐらい取っておけばよかったと、携帯がなくなってから思うようになった。そうすれば、カインのマンションの電話を借りて、電話くらいはできたのに。

「別にいいよ。僕は気にしてないし。ちゃんとこうやって学校に来てくれたから」

「そっか」

 克己は幸也のことをなんでもいいよと受け入れてくれる。

 たぶん、幸也が間違ったことをすれば諫めてくれるのだろう。けれど、そうでない限りは応援してくれるのだ。

 高校なんて行く必要があるのかと、そう思っていたけれど、克己と出会えたことで行った意味ができたと幸也は思っていた。

 きっと一番の親友になってくれる。

 そうなってほしいと思える相手でもあった。

「それで、どう?一宮くんのマンション」

「ああ、もうすげーぜ。まさに金持ちって感じ。最上階の全部があいつの所有だっていうんだから、信じられないぜ。広い上になんか色々揃ってるしさ。それにあいつんちの家政婦さんが調理師免許も持ってるような人だから、すごいキッチンも整ってて、なんかそれだけは羨ましかったなあ」

「そうなんだ。さすがに僕もマンションまでは知らないからなあ。それで、そこでお手伝いさんみたいなことをしてるんでしょ、橘くんは。家政婦さんの代理だって、宅間さん、言ってたけど」

「まあ、そうなんだけど」

 だが、カインはそう認めていない。

「一宮は人のこと、召使い呼ばわりだぜ?まさに下僕って感じ。いくらギャラがよくてもたまにむかつく」

 今日も学校に行く時に一悶着あった。

 カインが朝食をなかなか食べなかったのだ。

 いつまでも書類に目を通し、コーヒーばかり口に運んで、幸也が用意した朝食には手をつけようとしない。

 本当は放っていきたかったが、そんなことをすれば確実にカインは何も口にしないで出かけようとする。一度、カインが食べ終わる前に席を立ったことがあったのだが、その時、カインは朝食を食べかけのまま放って出かけてしまったのだ。

 どうやら、側で見ておかないと全部食べないらしいことに幸也は気づいて、それからカインとの食事は彼が食べ終わるまで待つことにした。

 何だか本当に下僕みたいだと思いつつ、今朝もカインが食べ終わるのを待っていたのだが、どこか腹の虫の居所が悪かったらしく、なかなか朝食に手をつけず、おかげで幸也は出かけるのがぎりぎりになってしまった。

 もしや、自分は学校に行けないのに、行ける幸也に対しての八つ当たりだろうかと、思ったけれど、カインが何も言わないものだから、憶測でしかなかった。

「そうなの?」

「そうなのよ、克己」

 おねぇ言葉で克己の疑問に返すと、彼は楽しげに笑った。

 その脳天気な笑いに幸也は肩の力を抜いた。

 どちらにしてもカインのマンションが居心地がよくなってきているのは身をもって知っている。

 カインと同衾して眠ることも、時々戯れに構われることも慣れてしまった。

 あの男はあれほど冷たい目で幸也を牽制するわりに、自分の気が向いた時には幸也を構いにくる。

 気まぐれさに腹は立ったが、何だか怒れないでいた。

 そうやって、気まぐれにすり寄られ、構われることを幸也はいやではなかったからだ。

 この間のように膝枕をしてくれとすり寄られることもある。時々、じっと顔を見られることもある。

 どちらにしても他の誰も知らないカインの姿だと思うと、何だか嬉しかったのだ。

 特に朝起きて、隣で眠るカインの寝顔を見るのが幸也は好きだった。

 眠っている姿は本当に綺麗で、カインの造作がこれ以上ないほどに整っていることを知る。

 そして、眠りという無防備な状態で幸也の隣にカインがいることが本当に嬉しかったのだ。

 学校では何かにつけて無視されたり、辛辣な言葉を投げかけられることの多かったカイン。だが、あのマンションでは確かにそういう冷たい言葉を投げられることも多々あったけれど、それ以上に時々甘えてきているとしか思えないカインの行動が幸也にはとても嬉しかったのだ。

 肉食獣に懐かれているようで、少し怖いような気もしていたが、それでもカインの誰も知らない顔を知っているというのは嬉しかった。

「でも、よかった」

 克己はカバンの中からノートを取り出して机の上に置くと、目を細めて幸也を見た。

「やっぱり、橘くんと一宮くんは合うんだよ。僕が思った通りだった」

「…克己」

 また言うのかと、幸也は克己の言葉に首を傾げた。

「どうも分からないんだよな。オレと一宮って、真逆だぞ?水と油ってくらい違うぞ。性格だって、立場だって、何もかもさ。それなのにあいつとオレは合うのかよ」

 幸也が何度言われても分からないと首を傾げるのに、克己はくすりと笑った。

「当人は分からないのかもね。でも、僕も、そうだな、宅間さんも分かってるのかも。橘くんと一宮くんは合うんだよ」

「……」

 何度議論してもこれはどうにもならないらしい。

 この親友のこういうぼんやりとして、どこかと交信しているような発言も好きだけれど、それが自分の身の上にかかってくると違うらしいと、克己は思った。

 このことはまたいずれ克己と話せばいいと思ったのだ。

 そして、幸也はずっと気になっていたことを口にした。

「あのさ、親父、何してるか、知ってるか?会社、行ってるのかな」

「橘くんのお父さん?」

 克己はうーんと唸っていたが、やがてそうだねと呟いた。

「朝、ちゃんと仕事には行ってるみたいだよ。一度すれ違ったことがあったかな。ちょっと元気がなかったみたいだけど、お酒の匂いもしなくなってた」

「…そっか」

 それだけ分かれば十分だろう。

 父が幸也の手助けもなしにはどうにもならないと思っていた。だが、それは幸也のそうあってほしいという願望で、現実にはそういうわけでもなかったのだ。

 あの日、カインが幸也に言ったこと。

『父親という他人に惑わされず、お前の考えで進めばいい』

 そう、カインが言ってくれた。

 だから、幸也はここに立っていられるのだ。

「それならいいや」

「…橘くん、おじさんに一宮くんとこにいるって、言ってないの?」

 幸也が納得して頷くのに、克己は声を潜めて幸也に尋ねた。

 その克己に幸也は首を縦に振った。

 本当はあの日、教科書等を取りにいった日、置き手紙をするつもりだった。

 カインのところとは言わず、学校の友達のところに住まわせてもらっていると。数日で戻るつもりでいるのでよろしくと書いておくつもりだった。

 けれど、部屋の閑散と手入れのされた状態に幸也は何もできずに飛び出してしまったのだ。

 子供じみた行為だとも思う。

 だが、胸の奥では探してくれないだろうかと、そんなことを思っていた。

 それこそ、ああやって掃除をしているのだとしたら、幸也の部屋から持ち物がなくなっていることに気づくだろう。そして、幸也がいったん家に戻ったものの、また出ていったと、どうしてそうしたのかを考え、追いかけてほしいなどと甘えた考えを頭の片隅にでも少しでも思ってもいたのだから。

 家出をする連中の気持ちが少し分かったと幸也は思っていた。

 結局皆どこか寂しくて、親の愛情に飢えているのだ。自分は違うと思っていたけれど、幸也もそうだったのだろう。

「言っても言わなくても、変わらないだろ?」

「…そうかな」

「そうだよ。言ったって、きっと外面気にして怒るだけだし。しかもオレのいるのがあいつんとこだって分かってみろよ、どうなるか分かったもんじゃねーよ。きっとすごい勢いであいつに頭下げて、オレのこと殴りにくるだけだ」

 想像は簡単につく。

 きっとカインに息子が世話になったと、散々頭を下げ、いかに幸也がどうしようもない息子かをあげつらって、自分がどれほど努力していたかを主張するのだ。そして、幸也を家に連れ帰って、また殴るだろう。

 簡単すぎる想像に苦笑いも浮かんでこない。

 そうやって、あの男は生きてきたのだから。

 母が出ていったときも、本当は自分の暴力だったくせに、気づけば幸也が家庭内暴力で暴れ、母がそれに逃げたというふうに話は作り替えられていた。おかげで近所や親戚の間では幸也は手のつけられない暴れ者の烙印を押されている。

 そういう男が父親なのだと、諦めるしか他に幸也には方法がなかった。

「まあ、僕は橘くんが幸せならそれでいいよ」

 克己は思案げな顔をしていたが、やがて吹っ切ったようにそういうと、幸也の顔を覗き込んだ。

「顔色いいしね。少し太ったみたいだし。前は青い顔して、げっそり痩せてたから。今は目もきらきらしてて、すごく安心した」

「それはまあ、ちゃんと飯、食ってるし、寝てるから」

 食べないことのほうが多かった以前に比べて、今は三食きちんと食べている。

 睡眠だって、寝ているところをたたき起こしにくる父親がいないから、ぐっすり眠れている。

 洗い立てのシーツとふっくらとしたベッド。それから、いつの間にか潜り込んでいるカインの安らかな寝息。

 その全てが幸也に安らいだ眠りを与えてくれているのだ。

 食べることと寝ることをきちんとしているだけで、これだけ気持ちは穏やかになるのかと、最近幸也は知った。

 まあ、カインの毒舌は相変わらずだけれど、それでもその会話も今では楽しかった。

「そっか、よかった」

「ああ、ごめんな、心配かけて」

「別にいいよ。ただ、橘くんが大変なときに僕が通りかからなかったのが悔しいだけ。その時にもし僕が通りかかっていたら、もっと橘くんと仲良くなれたのにって思うから。一宮くんはたまにずるいよね」

「…克己」

 少し唇を尖らせて拗ねた顔をしてみせた克己に幸也はおかしくて笑った。

 久しぶりに再会した親友は相変わらずで、幸也は嬉しくて仕方が無かった。











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2008.8.24

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