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その後、予鈴が鳴り、担任が入ってきた。
担任は久しぶりに登校した幸也に身体は大丈夫かと声をかけたが、それに幸也は平気と応えた。
一週間も休んでいれば、授業の遅れは大変なものになる。
これは克己にノートを借りたほうがよさそうだと、昼休みになる頃に克己は思ってため息をついた。
「橘くん、どうしたの?」
その幸也に克己が弁当を用意しながら、尋ねた。
「え、ああ。元々分からないのに、もっと分からなくなってた、授業」
「あー、一週間も休んでたらねえ」
机に突っ伏して唸る幸也に克己はくすくすと笑った。
「後でノート、貸してあげるから、コピーしたら?」
「お、サンキュ。お前真面目だから、ちゃんとノート取ってるもんな」
「真面目って、当たり前だと思うけど」
克己はそう言いつつ、幸也にノートを貸して、それから首を傾げた。
「今日、お弁当なんだ?」
机の上に幸也が置いた包みの中身が分かったらしい克己に、幸也は頷いた。
「そうなんだよ。朝、飯を作るときについでに詰めてきた。残り物ばっかりだけど、結構ちゃんとやってんだろ?」
「そうみたいだね。じゃあ、一緒にご飯、しようよ。いつもは橘くん、学食に走っていっちゃうから、一緒、できないだろ?」
「そうだな」
作るのは好きなのに、どうしても食べることには無頓着な幸也は昼食に弁当を作るようなことは一度もしたことがなかった。
だが、最近はそうではなくなっていた。
作るということも、食べるということも好きになりつつあった。
それがどうしてかなんて、鈍感な幸也でも分かる。
カインが食べるからだ。
あの男が黙って食事をするから、幸也も食べるようになったのだ。
嫌いだと思っていた男のために食事を作り、その男が食べるからとつられて食事をするようになった。
不思議なものだと思う。
きっと、今、カインを嫌いかと問われると、答えることはできないだろう。
その答えはきっと今までのカインへの感情を別のものに変えてしまう。
優しくなんて少しもない。口を開けば幸也を馬鹿にすることを平気で言う。
そして、少しでも幸也が反応を返すと、簡単に揚げ足をとって幸也を悪し様に言ってのける。
ひどい男なのに、それでも不意に優しい気がする。
眠っている時も、そっと抱きしめてくる腕はちっとも暖かくないというのに、どこか優しい。
あの男の存在に慣れてきているのだろうか。
「僕のおかずとかえっこしようよ」
「ああ、いいぜ」
克己が嬉しそうに言うものだから、ついつい弁当を差し出してしまい、滅多にしないことだから女子にからかわれてしまった。
いつもならその女子の言葉に過剰反応して怒るのだろうけれど、気持ちに余裕があるのか、笑って言い返すだけになっていた。
ちゃんと食べていれば余裕も出るのだろうかと思っていた。
「じゃあ、一宮くんとこにはその家政婦さんが復帰するまでいるってこと?」
弁当を食べ終わり、自然とカインのところでの話になり、幸也はああと頷いた。
「それまできっちり働かせてもらうよ。まあ、雇い主は気に入らないけど、職場は結構いいから」
「そのキッチンに惚れたんだ?」
「まあ、そういうことだな」
そう、八千代が戻ってくるまでのこと。
彼女が戻ればまたあの家に帰らなければいけない。
もう、父親は幸也を必要としていない。それでも帰る。
以前ならもっと色々と考えたのだろうけれど、今は何も思わない。
ちゃんと自分の足で立って歩くことを、あのカインから少しずつ学んでいるようだ。
実際、カインは本当にすごかった。
英語どころじゃない、フランス語とドイツ語、イタリア語まで使える。ギリシャ語も喋るくらいはできると言っていた。
バイリンガルどころの話ではないのだ。
そして、その仕事の量も半端ではなかった。
その中でカインは学校へ提出するレポートを書き上げるのだ。
さっき、幸也は一週間程度休んだだけで、根を上げていたというのに、カインはほとんど学校には来ず、秘書でもある宅間がカインの家庭教師もかねているそうで、彼から日に数分講義を受けて学校の勉強をこなしてしまうのだ。
幸也は以前克己にそんなに偉いのかとカインのことを毒づいたが、確かに偉いと言えた。
あの男はやるべきことをきちんとこなし、その上で生きていた。
「オレも頑張らないとなあ」
思い出して、ぽつりと言うと、克己が首を傾げた。
「何?どうしたの?」
「いや…」
幸也はこののんびりとした顔の親友にそうだと尋ねた。
「お前、なりたいものとかあんの?」
「僕?」
幸也の言葉に克己は一瞬驚いたが、やがて笑って答えた。
「僕ね、エンジニアになりたいんだ。だから、大学は工学関係のところに進むんだよ。ゲーム、好きでしょ、それでかな、そういうコンピュータ関係、やってみたいって思ってるんだ」
「へえ」
親友と思っていたのに、こんな話を聞いたことはなかった。
ちゃんと前を見ている克己、なんだか少し眩しかった。
「橘くんは?何かなりたいものとかあるの?」
「オレ?オレかあ…」
不意に頭に浮かんだのは八千代だった。
今は家政婦をしているが、以前は亡くなった夫と二人で小料理屋をやっていたという。
彼女はその腕で作った料理で金を稼いでいたのだ。
何も考えず、もくもくとやっているだけだった家事。母がいないから、仕方なくやっていたけれど、それでも幸也は料理は好きだった。
何かにつけて幸也を殴る父も、幸也の料理には何も言わず、食べていた。
できるなら、好きなことをやって生きていきたい。
それなら。
「…料理人、とかいいかなあって」
「そう」
ぽつりと言った幸也に克己は頷いた。
「橘くんは料理が上手だし、好きだもんね。いいね、それ。すごくいいかも」
「そっか?」
「うん、似合うよ、きっと、橘くんのコック姿」
「そうか…」
お世辞かも知れない、幸也を盛り立てようとしているだけかも知れない。
それでも幸也は克己の言葉が嬉しかった。
「じゃあ、いっちょ、頑張るかなあ」
「うん、頑張りなよ。そしたらさ、コックになったら、一番最初に僕に料理、食べさせてね?」
「おう、分かった」
「約束だから」
「ああ」
克己の笑顔が幸也を救う。
何度もそういう時があったけれど、今はその笑顔は救いではなくて、なんだか幸也を応援しているように見えた。
対等な立場で見て、幸也の肩を克己が叩いたように感じたのだ。
いつも胸の片隅にあった引け目、克己のような一般的な幸福な家庭で育った友人への嫉妬もあった。
それが今は薄らいでいた。
何が原因だなんて、考えたくなかった。
あの男の言葉が支えになっているなんて、思いたくなかった。
思えば何かが変わりそうで怖かった。
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2008.8.31
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