カインのマンションに半ばなし崩しに居候になり、彼の身の回りの世話を焼くようになって4日間、幸也は学校に登校していなかった。

 カインは特にそのことには何も言わず、宅間が学校に行くようにと薦めてくれた。

 その宅間の薦めに幸也は学校に行くかと腰を上げた。

 とはいえ、教科書やノートの類は家に置いたままだ。

 一度は家に取りに戻らなくてはならない。

 昼に行けば父も仕事に行っていないだろうし、何とかなるかも知れない。

 そう思って、父親が出かける時間を見計らって、幸也は自宅に戻った。

「……」

 鍵を持ち出していなかったが、玄関の脇の置石の下に隠していた鍵で中に入った。

 家の中は比較的綺麗だった。

 荒れ放題になっているのではないかと幸也は思っていたが、どこもそうはなっておらず、綺麗に整頓されていた。

 その様子に胸が痛んだ。

 何を期待していたのか。

 確かにゴミ箱は分別ができていない状態でゴミが突っ込まれていたが、後はどこも荒れている雰囲気はなく、掃除もしているのか、綺麗だった。

 何だかその風景に納得できなくて、幸也は自分の部屋に上がると、あれだけ引っ掻き回されていた室内は確かにしまい方は無茶苦茶だったが、それでもきちんと整理されていた。

「…なんだよ、これ…」

 どうなっているのか分からない。

 もしかして、父親がやったのか?

 いや、そんなことができる男じゃない。

 ならば、誰かが、誰かの手がここに入ったというのか。

 母と別れてから父に女性の影はなかった。

 だが、それはそういうふうに見たい幸也の願望がさせているだけで、本当は誰かいたのだろうか。

 そして、その女に頼んで家を綺麗にさせているのか。

「……」

 幸也はなぜか身体がひどく震え始めて、その震えはどうやっても収まらず、震えた手で必死で必要な教科書やノートを探って、そこらにあったスポーツバッグに詰め込んだ。それから、当面必要な洋服や下着も入れた。

 だが、不思議なことにおいていったはずの幸也の携帯電話がどこを探しても見つからず、仕方がないとそれだけの荷物を持って外にでた。

「幸也さん」

 家を出ると、今日行くとは言っていたが、何時とは言っていなかったのに、宅間が車を家の前につけて待っていた。

「…宅間さん」

「お迎えにあがりました。ここからその荷物を持っていくのは大変でしょう」

「…すみません」

 幸也は宅間の言葉に軽く頭を下げて、彼に手伝ってもらって車に乗り込んだ。

「…一宮」

 そこにはカインがいた。

 彼はいつものようにスーツに身を包み、車に乗ってきた幸也をじっと見ていた。

「荷物は持ってこられたのか?」

「え、ああ」

「それで、どうしてそんな顔をしている?」

 カインに指摘されて、幸也は何も言えず、思わず黙り込んだ。

 その幸也にカインは宅間に出せと車を出すことを指示した。

 ゆっくりとした車の動きに幸也はシートに身を預け、思わず目を閉じた。

 少し混乱しているのが分かる。

 てっきり家は荒れ放題に荒れていると思っていた。それこそそこらに酒瓶が転がり、ひどい状態になっていて、自分の部屋も八つ当たりに荒らされていると思っていたのだ。

 だが、どこもなんともなっていなかった。

 それどころか綺麗だった。

 掃除機もちゃんとかけてあって、埃で足の裏が黒くなっているなんてことは全くなかった。

 そう、家はまともだったのだ。

 幸也がいなければいけないような状態では少しもなかったのだ。

 幸也は必要ではなかったのだ。

「くそ…」

 なんだかひどく泣きたい気分で仕方がなかった。

 悔しくて、目を開けるのも辛くて、そのまま目を閉じていると、優しい車の揺れにいつの間にか眠ってしまっていた。

 ようやく眠りから覚め、目を開けたとき、ひどく整った顔立ちの男が幸也を覗き込んでいた。

「目覚めたか?」

「え、あ、うわっ」

 耳障りのいい声にそう言われて、幸也は自分の状態に気づいて声を上げた。

 カインの肩に頭を乗せて寝ていたのだ。

 しかも、カインはまるで幸也を支えるように幸也の肩に手を回して抱き留めていた。

「オ、オレ…」

「降りろ」

「へ?」

 慌てて身を起こした幸也にカインはそう言うと、言っても呆然として降りようとしない幸也の腕を掴んで、無理矢理車から降ろした。

「おい、ちょっと何す…」

 だが、車を降りた幸也はそこにあった風景に目を奪われた。

「すげ…」

 目の前に海が広がっていた。

 いつの間にここまでやってきたのか、宅間の運転する車は海が見下ろせる高台へと来ていた。

「ここにはよく来る」

 幸也が呆然と海を見下ろしているのに、カインがそう声をかけた。

 宅間は車で待つことにしているらしく、ここにいるのはカインと幸也の二人だけだった。

「気持ちいいな」

 幸也がそう呟くのに、カインもああと呟いた。そのカインに幸也は自嘲気味の笑みを向けた。

「さっきさ、家、行っただろ。オレさ、てっきり家の中、すっげー汚いことになってるって思ってたんだよ。今まで家事やってたのはオレで、オレがいなくなったらきっとひどいことになるだろうなって、勝手に思ってた。ところがさ、家の中、すごい綺麗なんだ。掃除もしてあって、台所だって綺麗でさ、なんか、オレ、いらないみたいでさ…」

 ぽつりと幸也が呟くのに、カインは幸也の隣に立った。

「…それで、あんな顔をしていたのか?」

「あんな顔って、どんな顔だよ」

「捨て犬」

 あっさりと言ったカインに幸也は苦笑した。

「ひでー言い方だな。まあ、似てるかもな」

 くっくと笑った幸也にカインは口を開いた。

「オレにはそういう感情は分からない。オレが父を語ることは許されていないからだ。お前は父親の世話をすることで、存在意義を見いだしていたのだろうけれど、オレには到底考えられないことだ」

「…一宮?」

 幸也はカインの言葉に疑問で目を細めた。

 カインの父とカインは経済誌でよく取り上げられている。それこそ、カインの名はその父と並んで載せられ、雑誌ではカインは父を敬い、父はカインを褒めている。

 理想の親子だとさえ言われていた。

 その通り、理想そのものとしてテレビや雑誌に出ているというのに。

 今の言葉はその報道を否定していた。

「お前はお前の足下を見ればいい。父といっても血が繋がっているだけで、他人なのだから。依存する必要はない。…お前はしっかりと自分の足下を見て、そこに立てばいい。オレはずっとそうしてきた。そうでなければいけないのだ」

「一宮」

「…橘」

 久しぶりにカインが幸也を名で呼んだ。

 驚く幸也にカインはその玲瓏な目を向け、それから幸也に手を差し出した。

「お前は何をする?どう生きる?オレはお前の先を見てみたいと、そう思う。父親という他人に惑わされず、お前の考えで進めばいい」

「…一宮」

「お前は強いとオレは思う」

 カインの言葉に胸が震えるのが分かった。

 あの一宮カインが幸也を認めた言葉を告げたのだ。もしかしたら、慰めようとしての言葉だったのかも知れない。だが、それでもカインが幸也のために心を砕いたのだ。

「…は、ははは」

 なぜかおかしくなって、幸也が笑うと、カインは不快そうに眉間に皺を寄せた。

 笑われたとでも思っているのだろうか。

 ならば、この男は自分の言葉がどれほど他人に影響を与えるのかを知らないということになる。

 特に幸也には。

「嬉しいよ、一宮。ありがとうな」

「……」

 思ったまま、口にすると、カインはどこか怪訝そうにしていたが、やがてふいと明後日の方向を向いた。

 その姿にあのカインでも照れることがあるのかと、幸也はますます笑った。

 依存していた気持ちはどこか宙に浮いて辛かったけれど、ただ今は今まで見たことのなかったカインの姿に夢中になっていた。











back / next
2008.8.18

back
/ index / home