3日ほど、カインと一緒にいて分かったことがいくつかある。

 単純にいうと、カインは頭もよく、商才もあるようだが、日常生活においてその能力は全く発揮されておらず、完全に役立たずだった。

 洗濯もできないということで、その家政婦が休んでいる間、それこそハンカチ一枚でもクリーニングに出していたというずぼらさ。

 食事もずっと外食で、朝はあのゼリーを流し込んで、昼も夜も外で食べてくる。

 そして、決して休まない。

 家に帰ってきてもまだ仕事をしている。

 だから、3日経ってこれはだめだと幸也がしたことは、その怪我で休んでいる家政婦を見舞いがてら、一体どういうふうにカインの世話をしているのかを聞くことだった。

「ここか」

 住所はカインの秘書の宅間に教えてもらった。

 運転手だと幸也が思っていたあの男は宅間佳樹といい、カインが社長になった時からずっと行動を共にしている秘書だった。柔和な物腰の男で、幸也は自然と好感を持っていた。

 その宅間に教えてもらった住所には、矢吹とその家政婦の苗字の表札がかかった家があった。名前を八千代というそうで、宅間もカインも名前で呼んでいたそうだ。

近くまで送ると宅間は言ったが、カインのマンションからそう遠くなかったため、自力でやってきていた。

「こんにちはー」

「どうぞ、お入りください」

 小さな古びた日本家屋、ベルらしきものが見当たらなくて、こんこんと玄関のガラス戸を叩いて声をかけると、中から女性の声がした。

 その声に幸也は戸に手をかけると、鍵がかかっていなかったのか、すんなりと戸が開いた。

「すみません、えーっと、橘幸也っていいます。あの、宅間さんから連絡があったと思うんですけど」

 とりあえず、そう声をかけると、聞いていますよ、お入りくださいと声が奥からして、幸也は一瞬躊躇しつつ、お邪魔しますと中に入った。

「あの…」

 中に入ると、奥の部屋に柔らかい微笑を浮かべた初老の婦人が布団の上に座っていた。優しげな雰囲気のこの女性が八千代だろう。

「すみません、家に押しかけてしまって。…あの、これ…」

 見舞いなんて何がいいかなんて分からない。

 だが、これなら大丈夫だろうと、バスケットに入れられた花のアレンジを買ってきた幸也は彼女にそれを渡した。

「まあ、綺麗なお花。ありがとう」

 八千代は幸也の差し出した花に柔らかな微笑を浮かべた。

 その笑みに幸也も釣られて笑った。

 優しい微笑は幸せだった頃、母親が幸也によく見せてくれていたものに似ていた。

「それで、あなたが今カイン様のお世話をしてくださっているのね?」

「え、あ、はい」

 少しぼんやりしてしまっていたらしい。

 八千代に声をかけられて、はっとして幸也は顔を上げた。

「カイン様は手はかからないけれど、何もできない方ですからねえ。大変かも知れませんけど、どうかよろしくお願いします」

「え、あ、はあ」

 にこにこと優しい笑顔で言われると、なんともいえなくなってくる。

 だが、やはり思っていた通り、カインが何もできないのは確実のようだ。

 どうしたものかと幸也が思っていると、彼女はどこか嬉しそうに言った。

「けれどね、あなたが来てくださっていると聞いて、嬉しかったんですよ。実はわたし、足を痛めてしまいましてね、本当は病院に入院していたほうがいいそうなんですけれど、病院というのがどうも好きではなくて、無理を言って退院してきましたの。カイン様は自宅療養に必要なものを全部揃えてくださって、宅間さんが時々往診してくださって、本当によくしてくださって。けれど、仕事に復帰するのには1ヶ月はかかるといわれて、その間のカイン様のお世話をどうしようと考えていたところなんですよ」

 八千代が心配そうにため息をこぼすのに、幸也は口を開いた。

「一宮って、本当に何もできないんですか?」

 その幸也の問いに彼女は小さく苦笑いした。

「やればできるのだと思います」

 それから、切なげに遠い目をした。

「けれど、カイン様は自分が生きるために何かをするのを嫌っていらっしゃるから。わたしがいない間、外食ばかりになっているのは、そうでもしないとカイン様は何も口にしようとされないんですよ」

「…どういうことですか?」

 幸也が驚いて問いかけると、八千代は小さく首を振った。

「カイン様があなたに何もおっしゃっていられないのでしたら、わたしの口からは何も言えません。ただ、カイン様はいつもひどく傷つけられておいでなんですよ。だから、どうか、あの方に生きる意味を教えてあげてください」

「……」

 意味が分からない。

 幸也は初対面にかかわらず、そんなふうに幸也に頼んでくるこの女性の心理が分からなくて、目を細めた。

「…あの、オレは…」

「…ごめんなさいね、ついつい言葉がすぎてしまって」

 幸也の戸惑いを八千代は苦笑いを浮かべた。

「けれどね、あなたがあのマンションにいらした次の日、ここにきて、カイン様があなたのことを話していかれたの。面白い人だって、八千代も会えばそう思うぞって。滅多に見せてくださらない笑顔まで見せてくださって、だからついつい」

「あいつ、そんなこと…」

「カイン様とは同級生で、クラスメイトだと聞きましたけど、お親しいんですよね」

「……」

 親しいどころか、会ったその日に喧嘩を売られて、買ってしまった仲だ。

 本当のことなど言えなくて、幸也はハハハと笑った。

 その幸也の笑いに八千代はどう思ったのか、それでも楽しげに微笑んだ。

「それから、ここにカイン様の好物を書いておきましたの。好き嫌いのあまりない方ですけれど、それだけは好きで、よく食べてくださるんですよ」

「へえ」

 難しい料理でも書いてあったらどうしようかと思っていたが、内容を見ると、いたって簡単な家庭料理ばかりだった。

 その中にオムレツ、とあったのに、幸也はあっと呟いた。

「オレ、初めてあのマンションに泊まった日、オムレツ作った」

「そのことなら聞きましたよ。カイン様、わたしの作るオムレツと同じ味だったって笑ってらして。どこの店に行っても同じものはなかったのに、あいつは同じものを作ったって。嬉しそうにおっしゃって」

「じゃあ、オレを雇ったのって…」

「かも、知れませんね」

 くすくすと、彼女が笑うのに、幸也もつられて笑った。

 もしもあのいつも冷静で表情を一切変えないカインが、オムレツひとつで篭絡されたとしたら、それはものすごいことなのではないだろうか。

 あの男がそんな子供じみた面を持っているなんて。

 その後、しばらく八千代にいろんなことを聞いた。カインのこともそうだが、話はどんどん料理のことに流れていった。

「え、じゃあ、八千代さんって、調理師免許持ってるんだ」

「ええ、持ってますよ。もう随分前に亡くなったんですけど、主人と二人、小さな小料理屋をやっていてね、その時二人で並んで料理を作っていたんですよ」

「へえ」

 話をしていて知ったこと。

 八千代は以前はカインの実家で働いていたこと。だが、カインがマンションへと引っ越すのに一緒に移ったのだということ。カインとはもう随分長い付き合いで、カインが5歳くらいのときに出遭ったのだと言った。

「カイン様はお小さい頃からとても利発で綺麗なお子さんだったんですよ。最初はあまりお話をしてくださらなかったんですけど、慣れたら少しずつ話してくださって、やっちゃんって呼んでくださった時は嬉しかったものです」

「へえ」

 あのカインからは想像できない話だ。

 3日間一緒にいたが、カインは普通に笑ってみせたことがなかった。

 まして、幸也の名前すらちゃんと呼ばない。おいとか、お前とか、ちゃんと名前を呼べと言っても鼻で笑われておしまいだ。

 宅間といても笑いはしないが、それでも随分和やかな雰囲気を出してみせる。

 なのに、幸也の前ではやりたい放題で、辛辣な文句は言うし、冷たい目線を向けるわで、扱いは本当に召使いと言ったところだ。

 まあ、金で雇われた身だと、本当は宅間も八千代もそうだというのに、理不尽さを噛み締めながら、それでももらえる額の大きさに文句を言うのをやめようと思っていた。

 それに、何も嫌なことばかりではない。

 あのマンションのキッチンは広く、その上調理師免許を持っていたという八千代がキッチンに立っていたせいで、調理器具も調味料も信じられないほど揃っていて、その上手入れが行き届いている。

 嬉しくて、もらった金から料理本を買って色々試したいと思うほどだった。

「キッチン、使い勝手いい?」

 だから、そう八千代に聞かれ、幸也は大きく頷いた。

「はい。オレ、料理するの好きで、今まではいやいやなところがあったんだけど、バイト先がカフェで、そこで手伝ってるうちに結構面白いなって思うようになって。だから、あのキッチン、オレにしたらなんか、宝の山っていうか、そのもうすげーって感じで、色々試させてもらってて。…あ、ちゃんと綺麗に使っているんで、その辺は大丈夫なんで」

「それはカイン様から聞いているから平気。楽しそうに料理をしてるって」

「そ、ですか」

 何をやっても無関心に見えたというのに、カインはちゃんと幸也のやっていることに目を配っていたということか。

 まあ、下手に乱暴にされて、彼女が大事にしていたキッチンを破壊されたらかなわないとでも思っているのかも知れない。

 あの男の考えていることは不可解で、けれど面白い。

 そう思った時だった。

「八千代さん、起きていますか?」

 玄関先で八千代を呼ぶ声が聞こえた。

「あら、宅間さんだわ」

「あ、オレ、行ってきます」

 足を痛めているというのに、立ち上がって宅間を出迎えようとする八千代に幸也は自分が代わりにと立って玄関に向かった。

「ああ、まだいらしたんですね」

 宅間は幸也にも丁寧な口調で話す。少しそれが照れくさかったが、やめてくれと言っても癖だからといわれて、やめてもらえなかった。

「はい。色々聞いてたんです」

「そうですか」

 宅間は目を細めて笑った。

「では、奥にいらっしゃるんですね」

「はい」

「じゃあ」

 宅間はそういうと、靴を脱ぎ、部屋の中に上がりこんだ。

 あの後を幸也も続いて中に入ろうとしたのだが、玄関先にまだ誰かの気配を感じて目をやった。

「…誰かいるのか?」

 そう声をかけると、その人物は一瞬躊躇したようだが、やがて姿を現した。

「一宮」

「なぜ、お前がここにいる」

 カインはひどく不機嫌そうな顔でそう言って、幸也を睨みつけた。











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2008.8.3

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