幸也はカインの言葉に驚いて彼を見た。

 ただの気まぐれだと思っていたというのに、カインは幸也の姿をきちんと見て、その上でここに連れてきたというのか。

「言ってみろ。何があった?オレには聞く権利があると思うが」

「…聞く権利って…」

「頭から酒を被り、その上自分の吐いたものでどろどろのお前をここまで連れてきてやった、その権利だ。そこまでしてもらっておいて、関係ない、言わないなどと言うつもりか、お前は」

「……」

 確かにカインのいう通りだ。

 昨日のひどさは分かっている。

 本当にどろどろでみっともない格好だった。その幸也をここまで連れてきて、介抱してくれたカインに説明をしないのは納得してもらえないだろう。

 まして、カインは幸也が話さないことには許さないと言いたげな目で幸也を見ている。

「…分かったよ」

 一体何がこの金持ちの男の気に障ったのかは分からないが、聞きたいというなら言うしかなかった。

 幸也はそう思って、その重い口を開いた。

「…親父だよ。オレんとこの親父って、どうしようもなくってな。機嫌が悪いと暴れんだよ。その上、酒が入ると手がつけられなくなる。…昨日は馬鹿みたいに酒買って、飲んでたからな、余計にひどかった。いつもは放っておくんだけど、あいつ、オレが稼いだ金で酒、買いやがったから、どうにも我慢できなくて…」

「バイトで貯めた金か」

 カインが言葉を遮ったのに、よくそんなことを知っていたなと思ったが、高校生が金を貯めるとなれば、バイトでと思うのは普通だと幸也は思って頷いた。

「ああ。放課後と土日にな、必死で稼いだ金だったんだよ。お前にしたらはした金だろうけど、オレにとったら大金だよ、それをあいつ、飲み代につかっちまいやがって…」

「…そうか」

 カインは納得したように頷くと、いきなり立ち上がって、一室に消えた。

 その姿にどうしたのだろうと、幸也が見ていると、カインは財布を持って現われた。

「その使い込まれた金はいくらあったんだ?」

「…たぶん、十万くらい…」

 何を買ってやったら喜ぶのかが分からなくて、ただただ金を貯めていたのだ。だから、働ける時間が少なかったけれど、貯金はそれなりにできていた。

 幸也がそう答えたのに、カインは財布を開いて、中から一万円札を引っ張り出した。

「ここに二十万ある」

「…なっ」

 施しをしようというのか。

 一瞬ひどく侮辱されたように思った幸也はソファーから腰を浮かせたが、その幸也にカインは冷たく言い放った。

「誰がくれてやるなどと言った」

「…え…」

 中腰のまま、驚いて声の出ない幸也にカインはどこか意地悪く笑ってみせた。

「これはお前の仕事の報酬だ。…そのバイトで貯めた倍の額を出してやるから、ここで働け」

「…ここ?」

 いきなり言い出したカインに幸也は驚いて首を傾げると、カインはそうだと頷いた。

「宅間は優秀な秘書だが、料理はできない。やつのできることはその冷蔵庫を空にしないだけだ。だから、お前にオレの私生活の面倒を見ろと言っているんだ」

「…それって」

「…あのように、朝食を作ったりすればいい」

「……」

 幸也はカインの申し出に首を傾げたが、やがて納得した応えが見つかって声をあげた。

「えーっと、それって家政婦ってことか」

「……」

 その幸也の言葉にカインはフッと笑った。

「家政婦などという上等なものか、お前が」

「…はあ?どういう意味だよ」

「お前なぞ、召使いで十分だ」

「…め、召使い?」

 そんな古びた言い方を今時誰がするというのだ。

 幸也が驚いて声をあげると、カインは楽しそうに笑った。

「そうだ、それで十分。何に使うかはしらんが、お前にそれだけの金を出してくれるものはオレくらいしかおらんだろう。この条件、飲んだ方がお前のためだと思うが」

「……」

 普段ならそんな馬鹿な話、受けられるかと、テーブルをひっくり返すところだろう。

 だが、これだけの金があったなら、母に考えている以上のものをプレゼントすることができる。それこそ旅行くらいは連れていってやれるかも知れない。

 こつこつと貯めた金はもうない。けれど、母の誕生日はもうすぐ目の前に迫っている。

 そう言えば、昨日持ち帰ったバイト代はどこにやったのだろう。どこにも持っていなかったことを考えると、家に置いて出てきたのだろう。きっとまた、あの金は父が使い切ってしまっているに違いない。

 そこまで考えて、幸也はあまり自分には選択肢が残されていないことに気づいた。

 母の喜ぶ顔が見たい。

 それでなくても、最近、幸也が母の顔で思い出せるのは泣いた顔だけだった。

 出ていってごめんね、弱くてごめんねと泣きながら謝る母。そのたびに大丈夫、分かっている、泣かなくていいよと繰り返す幸也。

 そのやりとりは幸也の胸を苦しめ続けた。

 それこそ旅行に出かけて、のんびりとした場所で過ごすことができたなら、母の自責の念も薄れるかも知れない。

「…いつまで、やればいいんだ?」

 幸也は目の前に置かれた金を見つめてカインに言った。

 すると、カインは面白そうに笑って答えた。

「とりあえず一ヶ月でいい。通いの家政婦が怪我でこれなくなっているからちょうどいい」

「……」

 やっぱり家政婦じゃないかと、家政婦の変わりというニュアンスに幸也がほっとしたのもつかの間、カインは楽しそうに笑った。

「家政婦なんて上等なものじゃないぞ、お前は。召使いだ、覚えておけ、橘」

「……」

 いちいちそんなことを言わなくても。

 なんだか、やっぱり気に障るというか、いけ好かないヤツだと幸也は口を曲げたが、やがてこれ以上抵抗するのも馬鹿らしくなって答えた。

「はいはい、召使いでも何でもどうぞ。要するにお前のお世話をすればいいだけのことだろうが」

「そういうことだ、橘」

 カインは一層面白そうに表情を笑いに変えて、幸也を見つめた。

「手始めにベッドのメイキングをしろ」

「へいへい、分かりました、ご主人様」

 なんだかメイドカフェのアルバイトにでもきたようだと、幸也は思いつつ、カインを睨み付けた。

 そこいらの不良なら、恐れをなして逃げるだろう、幸也の睨みをカインはさらりと流して、近くに置いてあった経済界の雑誌を開いた。

 その姿に幸也は克己の言葉を思い出す。

『橘くんに合うと思うよ』

 どこの宇宙と交信しているのかは不明だけれど、やはりその交信は間違いだよと幸也は克己に心の中で訴えた。

 絶対にこの男とは親しくなれない。

 そう思った。











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2008.7.30

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