『幸也はいい子ね』

 昔、母はそういって幸也をよく抱きしめてくれた。

 あの頃はまだ父もまともで、よく3人で遊びに出かけたりもしていた。

 穏やかで優しい記憶。

 それも数年前、父が昇進してからは変わってしまった。

 慣れない仕事に、上との軋轢、神経は磨り減って、そのストレスから酒に走った。そして、家族に手をあげるようになった。

 きっと父の元から離れることができなかったのは、あの優しい記憶が幸也の中にあるからだ。

「幸也、父さん、頑張るからな」

 昇進が決まった時、そう言って笑った父親に自分はなんと言って声をかけたのだろうか。

 頑張って、とでも言ったのだろうか。

 それとも。

「…ん…」

 その瞬間、思い浮かんだ父の顔が消え、ゆっくりと自分の意識が覚醒されていくのに、夢だったのかと自覚した。

 そして、自分がなにやら暖かいものに包まれていることに気づいて、何だろうと、目を開けることなく考えた。

 しかも何だかひどく心地よい場所で眠っている気がする。

 母が出ていってから、布団を干すことのなくなったベッドはいつも冷たく、どこか湿っていた。万年床という言葉があるそうだが、それに近いなと思っていた。

 そのベッドよりも随分暖かく、スプリングが効いていて寝やすい。

 なんだろうと考えて、唸りながら寝返りを打ち、目を開けてそこにあったものに、一瞬思考が奪われた。

「……」

 ――――どういうことだ、これは。

 そこにあったのは男の顔だった。

 しかもひどく整った顔立ちで、伏せられた目を長い睫が象っている。少し頬がこけてみえるが、それすらもその顔立ちを際だたせていた。

 この顔は知っていると、幸也は思って、その記憶にある人物の顔と照らし合わせて思わず声を上げた。

「一宮!」

 そうだ、一宮カインだ。

 どうして、ここにあの男がと、そう思って、はたと気づいた。

 そう、昨日、幸也は不本意ながら、この男に助けられたのだ。この男は父に殴られ、行き場を失った幸也を助け、自分のマンションまで連れてきた。

 だが、いくらなんでも同衾するなんて知らなかった。

 きっと幸也が眠った後に潜り込んだのだろうけれど、一体どういうことなのか。

 まんじりとも動けず、冷や汗すら流しながら、幸也がカインを見ていると、その瞼がかすかに動いた。

 それからゆっくりとその瞼が持ち上げられるのを、幸也はなんだか奇跡でも見ているような思いで見つめていた。

「……」

 カインは目を開いた瞬間、なぜか一瞬笑って見せた。

 ひどく幸せそうな、優しい笑顔に幸也は金縛りにあったかのように動けなくなった。

 だが、再びその目が伏せられ、もう一度開いた時にはそこには先ほど見たような暖かい眼差しはなかった。

「…起きたか」

「…お、おう」

「…ふう…」

 カインはため息をひとつ零すと、起きあがった。

 バスローブがはだけているのにも構わず、膝を立てた格好でそこに座り、小さくカインは欠伸をかみ殺した。

 そして、幸也を一瞥すると、呆れたような顔をした。

「いつまでそんな馬鹿面を晒している気だ。洗面で顔を洗ってこい」

「…い、言われなくても…ッ」

 いちいちこの男は人を怒らせる。

 幸也はカインの言葉にむっとしてベッドを降りた。

 だが、瞬間、足が砕けたように、その場に崩れ落ちた。

「…あ、あれ…」

「…ッ…」

 そのまま床に転びかけた幸也を助けたのはカインだった。

 カインは転びかけた幸也を慌ててその腕を掴んで助けると、そのまま昨日のように幸也を横抱きに抱きかかえた。

「お、おいっ」

「じっとしろ。それとも落とされたいか?」

「……」

 昨日と全く同じ脅し文句に、幸也が身を縮めると、カインは納得したように、そのまま洗面所まで幸也を連れていき、洗面所の前に立たせた。

「…捕まることはできるだろう」

「あ、ああ」

「顔を洗ったら呼べ」

「……」

 そこまでしてもらわなくても大丈夫な気がしていたが、幸也は逆らう気にもなれず、頷いた。

 その幸也に納得したようにカインは頷くと、そのまま出ていった。

「…なんなんだ、あいつ…」

 無駄に優しい気がする。

 いや、これもきっと気まぐれなのだろう。

 金持ちは気分屋が多いという。なら、これもその気分で起こしたことなのだろう。

 気にするのはやめたと、幸也は派手に顔を洗い、そこに置いてあった新品らしい歯ブラシで歯まで磨いてやった。

 そうすると、かなりさっぱりする。

 これなら大丈夫だと、幸也は思って、カインを呼ぶことなく洗面所を出ると、カインの姿を探して広いリビングに入った。

「…顔洗った、サンキュ」

 リビングにはいつの間に着替えたのか、学校では見ないようなシャツにジーンズという格好のカインがいた。

「…何故、呼ばなかった」

「え?あ、いや、さっきは油断しただけだったし」

「……」

 カインはむっとしたように目を細めると、つかつかと幸也に近づくと、幸也の額に自分の手をやった。

「…うわ…」

 カインの手はひどく冷たくて、幸也は思わず身を竦めた。

 だが、その幸也に構わずカインは手を当てると、それから首を傾げた。

「やはり、お前は普通じゃないようだな」

「はあ?」

 一体どういう意味だと幸也がむっとするのに、カインは構わず続けた。

「宅間は翌日には必ず熱を出すだろうと言っていたが、お前、全くの平熱のようだな」

「…あのな」

「かなり頑丈にできているようだな」

「…まあ、丈夫なだけが取り柄だからな」

 ひどい言われようだと思いながらも、風邪ひとつまともにひいたことのない自分に、幸也は肩を竦めた。

 その幸也にカインはそのようだなと呆れたように肩を竦めた。

 そんな仕草がいちいち気に障ると幸也はむっとしつつ、カインが手にしているものに目を細めた。

「それ、何?」

「朝食だが」

 所謂ゼリー状の栄養補助食品だ。確かに幸也もそれに世話になったことはあるが、できるだけそういったものは口をしないようにしていた。

 だから、それを堂々と手にして、口にしようとしているカインに剣呑とした目線を送ることになったのだ。

「朝、食べられないとか、そういうことか?」

「…いや、別に」

 要するにこの男は面倒だから、これですませているということなのだろう。

 何だかその様子に幸也は腹が立ってきて、オープンキッチンへと回って、冷蔵庫を開けた。

「揃ってんじゃん」

 てっきりこの中はああいったゼリーの類しかないと思っていた。

 だが、冷蔵庫の中にはある程度の食材が揃っていたのだ。

「おい、そのゼリー、食うのやめろ」

「…どうして」

 いきなりそう言われて、カインはむっとしたようだが、幸也は構わなかった。

「どうしてじゃねーの。朝はちゃんと飯を食え。そんなもん食ってたら元気がでねーだろ。朝飯作ってやるから、やめろっていってんだよ」

 幸也はそう言い切ると、フライパンを出し、それから適当に食材を引っ張り出した。

「おい、食えないもの、ないか?」

「別にないが」

「よし」

 カインの返事に幸也は大きく頷くと、料理を始めた。

 とはいえ、朝からそれほど大層なものができるわけでもなく、オムレツとサラダ程度だったが。そこに焼いたトーストを添えるかと、幸也が朝食を作り始めるのに、カインが何を思ったのか、キッチンに回ってきた。

「コーヒーを淹れよう」

「あ、おう」

 カインがそう言って、コーヒーメーカーをセットするのに、なんだか拍子抜けしたように、その姿を幸也は見ていたが、それくらいはする気になったのかと納得して、手を再び動かし始めた。

 それから十分ほどして、テーブルの上にきちんとした朝食が並べられた。

「おう、上出来」

 朝食を並べ、にっと笑った幸也に、カインがコーヒーを持ってくる。

「やっぱ、朝はコーヒーだな」

 カインが幸也の前にもコーヒーを置くのに、幸也は何だか嬉しくなって声を上げた。

「んじゃ、いただきますっ」

 幸也はカインも自分同様に席についたのを確認すると、手を合わせた。

 そう言えば、昨日から何も食べていない。思い出すと余計に腹が減ってきて、幸也は目の前の朝食を勢いよく食べ始めた。

 そうしながら、正面に座っているカインが気になって仕方なくて、その動作を目で追った。

 カインは幸也のように声をあげることはなかったが、そっと食事に向かって手を合わせ、静かに食べ始めている。表情が乏しいせいで、どう思っているのかは分からないが、黙々と食べているところを見ると、どうやら口にはあっているらしい。

 元々料理が得意な幸也だ。カインが不味いと無下には言えないものを作っているという自負があった。

「結構いけんだろ」

 だから、そう声をかけたのだが、カインはちらりと幸也を見ると、何の感慨もないように言った。

「ああ、食えるな」

「…なんだよ、それ」

 食えるという程度だというのかと、むっとしたが、この男に美味いという言葉を求めた自分が馬鹿だったと、幸也は食事に没頭した。

 しばらくして、二人とも食事が済むと、食器の洗いは洗浄機に任せてソファーへと身を沈めた。

「はあ」

 久しぶりにゆっくり食事をしたように思う。

 朝は抜かないようにしている幸也だが、それでも夜に父が暴れることが最近増えたせいで、トーストを囓って出て来る程度の食事しかしていない。夜だけは父が食べるからまともな食事を作っていたが、それも最近は幸也が口にする量は減っていた。おかげで身体はいいだけ痩せてしまっている。

「あのよ、一宮」

 ようやく一心地ついた幸也はもうここを出なければ、カインに声をかけた。

「なんだ?」

 青みがかった黒い瞳がじろりと自分を見るのに、一瞬身が竦む。

 どうもこの男相手ではうまくいかないことが多い。特別何かされたわけでもないのだが、なんだか緊張してしまう。確かに冷たくあしらわれることは多かったが、カインは無闇に暴力を振ったりはしないのに、なぜだか身構えてしまうのだ。

 その緊張を幸也は何とか解くと、カインを見た。

「その…オレ、帰るわ」

「…どこへ?」

「どこって…」

 おかしなことを聞く、と幸也が首を傾げると、カインはその薄い唇を開いた。

「昨日、お前は誰にあそこまでぼろぼろにされたんだ?」

「……!」











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2008.7.20

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