最初が悪かったのだと思おうとしても、あの猫の一件に関してはそうとは思えず、幸也は不機嫌そうに口をへの字に曲げた。

 その幸也に克己はうーんと唸った。

「その猫のことは何とも言えないけどねえ。でも、一宮くんは優しいし、橘くんに合うと思うよ」

 そして、脳天気な声でそんなことを言ってのけた。

 そのいかにも当然と言いたげな口調に幸也の方は何を言っているんだとのけぞった。

「はあ?オレとあいつが合うー?あり得ないだろ、それ。めちゃめちゃ違うし、性格も何もかんも」

「まあ、橘くんは一宮くんほど綺麗ではないけどね。でも、合うと思うよ」

「……」

 克己を幸也はおおむね気に入っているし、このおっとりとした性格と空気も好きだ。

 だが、時々分からなくなるのはこの天然ぶりだ。

 克己は時々こうして無茶なことを言ってのける。

 あのカインと自分が合うなんて、絶対にあり得ない話だ。

「お前さあ、どっかと交信してんのかよ」

「え?」

「それ、絶対ないから」

「そう?」

「ああ、ない。もう絶対ないっ」

「…そうかなあ」

 まだ克己は納得していないのか、そうだろうかと何度も繰り返した。

 その克己に幸也は呆れたように肩を竦めたが、やがてあることを思い出して慌ててカバンを掴んだ。

「ごめん、克己、今日バイトだった。先行くわっ」

「あ、うん、分かった。頑張ってね」

「おう」

 幸也は克己に片手を上げて見せて、それから慌てて教室の外へと飛び出した。

 毎日放課後、幸也はカフェでギャルソンとして働いている。特に今日は給料日で、気合が入っていた。

特に金に困っているわけではない。父親は暴力は振うけれど、きちんと働いているから、食うに困っているわけでもなく、特に幸也には不自由はない。

 だが、それでも自由になる金が欲しかった。

 理由は簡単なこと、もうすぐ母親の誕生日だったのだ。

 幸也を置いて出ていった母だけれど、幸也はそうするしかおれなかった母の苦悩も知っているし、何より父の元に残ると言ったのは自分だということも自覚している。

 だから、慕う心はあっても、憎む心はなく、彼女の誕生日が近づいたと気づいたとき、自分で稼いで何かを買ってやりたいと思ったのだ。

 父親は食事の用意等の家のことをきちんとやっていれば、特に幸也が何をしようと文句は言わない。

 確かにバイトを始めたすぐの時は要領がつかめなくて、家事がおろそかになり、それが原因で殴られたこともあった。

 だが、今は慣れたおかげで何とかやっている。

 それにカフェのギャルソンのアルバイトは裏方も手伝わされたために、料理を少し習うこともできて、最近食事のレパートリーが増えたのも喜ばしいことだった。

 これで父親が酒をやめてくれさえすれば、もっと楽になれるのにと幸也は思っていた。

 そして、今日も学校から真っ直ぐバイトに向かい、給料日の今日、バイト代を手渡されて、大喜びで家に向かっていた。

 本当は振込にしなければいけないらしいのだが、自分で稼いでいるのだという実感が欲しくて、幸也は無理を言って手渡しでもらっていた。

 結構バイト代を貯めた貯金も増えた。これなら、それなりのものを母親に買ってやれる。パートで暮らしている彼女に、自分で稼いだ金で栄養のつくものを食べさせてやりたいとも思っていた。

「…あ」

 家を見ると、灯りがついている。

 父親が帰ってきているらしい。

「うわ、やっべ」

 機嫌が悪かったら、帰宅の遅さを理由に殴られる。

 そう思った幸也は慌てて家に向かった。

「ただいまー」

 鍵の開いていた玄関に、恐る恐る中を伺うと、父親の気配はリビングにあった。

「…ごめん、バイトが長引いちまって…」

 できるだけさりげなさを装ってそう声をかけつつ、リビングに通じるドアを開けた時だった。

「…ッ…」

 いきなり灰皿が飛んできたのだ。

「幸也!」

 見れば、酒を飲んでいるらしく、顔を真っ赤にした父親が座った目で幸也を睨んでいた。

「…親父」

 かなり酔っているようだ。

 まずいなと思ったが、後の祭だった。

 後少し遅く帰っていれば、父は酔いつぶれて寝てしまっていただろうに。

 幸也は嫌な時に帰ってきてしまったと、思わず思ったのが顔に出てしまったのだろう。

 父はさらに顔を赤く変えて、今度は空になった酒瓶を幸也に投げつけた。

「…う…」

 それは運の悪いことに幸也のこめかみに当たった。

 瞬間ぷつっと皮膚の切れた音がして、鉄錆くさい匂いが鼻をついた。

 切れたなあと、幸也は慣れた思いで少し笑った。

「幸也、何笑ってるっ!」

「…なんでもねーよ」

 その幸也の様子が余計に不興を買ったのか、父が怒鳴ったが、幸也は軽く首を振って流した。つっとこめかみから血が垂れてくるのが気になったがどうしようもない。縫うほどの怪我でなければいいけれどとただそう思った。

「お前、バイトして、何買うつもりだ」

 その幸也に父が今更言う。

「何買うって…、だから言っただろ、部活もやってないし、暇だからバイトやりたいって」

 以前父を納得させた理由をもう一度幸也は言った。

 だが、父はその幸也に冷笑を浮かべた。

「嘘つけ、あの女になんか買ってやろうってんだろ」

「…親父」

 あの女と父が言うのは出ていった母一人だ。

 幸也はどういっていいのか分からなくて、口ごもってしまった。

 その幸也の態度がますます父を苛立たせてしまったらしい。

 父は何か言おうとしていたが、やがてフッと笑った。

「まあいい。お前がいくら貯め込んでようと、そんなもん、もうないからな」

「…え?」

 どういうことなのだろう。

 バイト代は一度家に持って帰ると、その後近くの銀行に預けにいく。

 少しずつ増えていく残高に幸也はひどく喜んだものだ。

 だが、もうないと、父は言った。

「どういう意味だよ」

 もしやと、どこかで思いながら、そんな馬鹿なと否定していた。

 だが、目の前に広がる光景が幸也の想像を肯定していた。

 朝よりも増えている酒瓶。しかも皆それなりに高級な酒ばかりだった。

「お前、通帳と印鑑は別に置いてろって、言われなかったかー?」

「……ッ!」

 父親のにやにやと笑った顔と、そのからかうような声に慌てて幸也は自分の部屋に向かった。

 すると、隠してあったはずの母から来た手紙や、母へのプレゼントを買う時の参考にしようとデパートでもらってきたバックや化粧品のカタログが部屋の中に散乱していた。

 その様子に慌てて幸也は手紙と一緒に隠しておいたバイト代を貯めている通帳を探したが、全くそれが見あたらなかった。

「…もしかして…」

 まさかと思った。

 そこまで自分の親が腐っているなんて思いたくもなかった。

 だが、そうとしか思えなかったのだ。

「親父!オレの通帳…っ」

「こいつかあ?」

 リビングに戻って、父を怒鳴りつけると、彼は幸也に通帳を投げつけた。

「…ッ…」

 ぱしんと顔に当たって、通帳が床に落ちた。

 通帳はちょうど最後の記帳のページを開いて落ちていた。

「…何…」

 通帳の残高は0になっていた。

「…親父!」

「ははは、よく貯め込んだなあ。お前はいい息子だ、親父の酒代を稼いでくれたんだからなあ」

「……」

 分かっているのだ、この男は。

 なぜ幸也が金をここまで貯めていたのかを。

 分かっていて、それこそ1円単位まで金を引き出し、その金で酒を買ったのだ。

「…ッ…」

 怒りと悔しさで声が出なかった。

 どうしてここまでするのだろう。

 母を慕ったのがいけないというのだろうか。

 この男には人の情はないのか。

「あんた、この金、なんで貯めてたか分かってやったんだろっ!」

「幸也、父親にあんたってどういう口のきき方してんだ、てめぇっ!」

 幸也が思わず怒鳴りつけたのに、父はまるで幽鬼のようにふらふらと立ち上がり、怒りで震えている幸也を吹き飛ばすほど強く殴りつけた。

「…いっ…」

 背中をひどく壁に打ち付けた。

 思わず苦鳴が漏れたが、その口はすぐに食いしばらなければいけなくなった。

「あの女はなあ、お前を捨てていった女だぞ、その女の誕生日プレゼントなんざ、用意しようってーのか、てめぇはっ」

「うぐっ」

 腹を蹴り上げられながら、そう怒鳴られ、やっぱり分かっていたのだと幸也は思って、いい知れないほどのやるせなさに目を瞑った。

 その幸也の様子がさらに父の怒りを買ったのだろう。父はさらに幸也を蹴り上げ、踏みつけた。

「捨てられたってのが分からないのか、ああっ、幸也!」

「…ぐぅ…」

 胃液がせり上がってくる。

 気持ち悪くて仕方がない。めちゃめちゃに蹴られて、頭を庇うので必死だった。

「お前なんかに物をもらったって喜びゃしねーよ、あの腐れ女はなっ」

「…か、母さんの悪口、言うな…」

 いくら父でも許せなくて、思わずその足を掴んで訴えれば、さらに蹴られた。

 その後、どれほど蹴られ、殴られたか分からなかった。

 どうやら、途中で失神してしまったらしく、気が付いた時には父が浴びせかけたのか、咽せるほどの酒のにおいが自分の身体からしていた。

「…くそ…」

 どこがどう痛いのかも分からない。

 身を起こそうとした途端、激痛が全身を包んで、幸也は呻いた。

 ぐるりと目だけ動かして視界を巡らせると、ソファーの上で酒瓶を抱いて、父が鼾をかいて寝ていた。

 その顔はそこいらにいる普通の中年の男なのにと幸也は少しだけ笑った。

 機嫌が悪いと息子に手を上げ、その上酒を飲むと変わってしまう、酒乱の父親。そんな男を父に持ってしまったのは運命なのだろうか。

 幸也は何となく、この場にいたくなくて、痛む身体を押して、リビングを出た。

 自分の部屋にこもることも考えた。

 だが、またいつ父が起きてきて、気まぐれに暴力を働くか分からない。

 気絶するほどの暴力を受けたのは初めてで、その恐怖に自然と足は家の外へと向いていた。

 とにかく、どこか安全な場所に行きたい。

 だが、外は随分暗く、時計を確認せずに家の外へと飛び出したが、誰かの家を尋ねるような時間ではもうないことは分かり切っていた。

 瞬間、克己のおっとりとした笑顔が脳裏に浮かんだ。

 あの優しい友人とその家族は今から幸也が尋ねていっても嫌な顔はしないだろう。

 それこそ黙って受け入れてくれるに違いない。

 だが、克己の家は父も知っている。そうなれば、間違いなく父は幸也を探してくるだろう。その時、幸也がいれば、どんな迷惑がかかるか分からない。

 克己の家にはいけない、後はどこにいけばいいのだろう。

 親しい友人が克己以外にはいないことに今更気づいて小さく笑った。

 人付き合いの下手さがこういう時に出てしまっている。

 駄目だなと、克己は思いながら、家から数メートルまでいったところでしゃがみ込んでしまった。

 足も少しやってしまっているようだ。折れてはいないようだが、捻っているように感じる。強かに壁に打ち付けた背中も痛むし、いいだけ蹴り上げられた腹も痛む。

 思い出すと、どこもかしこも痛んできてしまった。

「いてーよ…」

 思わず口に出す。口に出せばましになるかと思ったけれど、痛みを逆に自覚することになって、さらに苦しくなった。

 このまま死んでしまった方がいっそ楽になるかも知れない。それこそ息子が自分の暴力で死んだとなれば父も少しは思い直して、酒を控えるようになるかも知れない。

 そんなことを考えながら、身体を小さくして、自分で自分を抱きしめるようにぎゅっと肩を両手で抱いた時だった。











back / next
2008.7.7

back / index / home