目の前を一台の車が通りすぎたのだ。

 えらく大きい上に綺麗に磨かれているなと、その車体に思って見送っていた幸也だが、その車が幸也から少し離れたところで停まったのに、なんだろうと、そちらに目を向けた。

「…誰…?」

 殴られたせいで瞼が腫れていて、目がはっきりと見えない。それでも誰だろうと、目をこらしていると、いきなりふわりと身体が浮いた。

「え…」

「じっとしていろ」

 耳障りのいい、少し低い声。

 その声には幸也も聞き覚えがあった。

「…一宮…」

 カインだった。

 カインはその細身の身体のどこにそんな力がと思うほどにしっかりと幸也を抱き上げ、そして、運転手らしい男がドアを開いて待つ車の後部座席に幸也を座らせ、その隣に自分も乗り込んだのだ。

「…お前…」

 声がちゃんと出ない。腹を殴られているせいで、下手に腹に力を入れると痛むものだから、力のない頼りなげな声しか出なかった。

 だが、その幸也にカインは笑うこともなく、運転手が乗り込んだのに、前を向いた。

「…一宮、オレ…」

「喋るな、その声で喋られても聞き苦しいだけだ」

「…ッ…」

 ぴしゃりとはね除けられて、幸也は思わず胸が痛むのを感じた。

 そんなふうに言うなら、なぜこの男は車に幸也を乗せたのだろう。

 こんなぼろぼろになっている男を叱責するのなら、放っておけばよかったのに。

 だが、もう動くのも億劫なほど身体が辛くなっている幸也には車を降りる力もなく、黙ってシートに身を預ける他はなかった。

 車はゆっくりと走って、二十階建ての最近できたばかりのマンションの地下駐車場へと入った。

 以前、噂でカインは父と一緒に住む本宅とは別に、個人でマンションを購入したという話を聞いたことがある。

 もしや、このマンションがそうなのだろうかと、幸也はぼんやりと思った。

 やがて、車は駐車場へと停められると、またカインは幸也を抱き上げ、そのままエレベーターフロアへと向かった。

「カイン様」

 先ほど、車を運転していた男がすたすたと歩き始めたカインを追ってくる。

 その男が幸也をカインから受け取ろうとしたのだが、カインはそれに首を振った。

「宅間」

「分かりました」

 宅間と呼ばれた男はカインのその仕草に優しげな笑顔を浮かべ、じっと抱かれたままの幸也を確認すると、そのまま二人の先に立って、一番左端のエレベーターのボタンを押した。

 エレベーターはまるで彼らを待っていたかのようにすぐにドアが開いた。

「あ…」

 エレベーターに乗って、幸也はそのエレベーターが本当に待っていたのだということに気づいた。

 エレベーターの行き先ボタンには玄関である一階と、先ほどの駐車場の地下、それから最上階の二十階しかなかったのだ。

 最上階専用エレベーターかよ。

 思わず金持ちのやることは分からないと幸也はその贅沢さに呆れた。

 エレベーターはすぐに最上階へとついた。

 そして、そこについてまた、幸也はその贅沢さに目をむいた。

 二十階のフロア、すべてがカインの部屋だったのだ。ようするに通常ならば、いくつかの部屋に分けられ、分譲されているはずだというのに、二十階はたった一人のためだけの場所になっていた。

 半端じゃないと幸也が身体の痛みも忘れていると、カインは幸也を抱いたままマンションの中へと入っていった。

 そして、宅間が開いて待っていた部屋へとそのまま入っていったのだ。

「ここは…」

 なんとなく、湿気を感じて、幸也が首を傾げていると、カインはそこにあった椅子に幸也を座らせ、いきなり幸也の服を剥ぎ取り始めた。

「な、何、すんだよっ」

 腹に力が入らないというのは本当に情けない声しか出ないものだと、幸也は情けなくなりながらも、必死で抵抗した。

 その幸也の抵抗にカインは呆れたような顔で幸也を見た。

「お前は風呂に服を着たまま入るのか?」

「へ?」

「そんな酒臭い格好でいつまでもおられんだろう。風呂に入れというんだ」

「…あ」

 言われて、部屋の奥にまだ何かあるのに気づく。

 磨りガラスになっている向こうに見えるのは確かに風呂だった。

 だから、これほど湿気を感じていたのかと幸也は気づいた瞬間、思わず顔が熱を持ったのを感じた。

 さっきまで、カインが何かよからぬことを自分にするのではないかと、そんなことを気にしていたのだ。

 あまりの想像に、自分で自分が恥ずかしくなって、思わず俯いてしまった。

 その幸也にカインがどう思ったのかは分からない。

 だが、彼は幸也の服をもう無理矢理に剥ぎ取ろうと考えようとはしなくなったらしく、小さくため息を漏らして、くいと顎で隅に置かれたワゴンを指した。

「その中にバスタオルや着替えを入れておく。だから、風呂に入って来い。お前はひどい匂いだ」

「なっ」

 そのひどい匂いの男をここまで運んできたのは誰だと幸也はむっとしたが、言い終えると、さっさとカインが出ていってしまったものだから何も言えなかった。

 幸也は椅子に座ったまま、少し苦労して、服を脱ぐと、風呂へと向かった。

 そこで幸也は風呂場につけられた姿見に映った自分に思わず顔をしかめた。

 打撲の後があちこちについている上に、嘔吐したものが髪にまでついている。

 確かにこれはくさいし、ひどい。

 だが、そのひどい男をカインは何も言わず抱いてここまで連れてきたのだ。

 一体どういう気まぐれだろうかと思いつつ、それでもありがたいと幸也は風呂に浸かった。

「…イチ…」

 出血している場所が痛む。ひりひりとした痛みと、打ち付けた背中が熱を持ってくるのを感じて、幸也は身を縮めた。

 痛みのやり過ごし方だけは覚えている。

 こうやって膝を抱えて丸くなり、目を閉じていれば随分楽になるのだ。

 暖かい風呂の温もりも今はとてもありがたかった。

 その後、少し回復した幸也はいい匂いのするシャンプーで髪を洗い、身体も初めて使うボディーソープで洗って風呂を出た。

「…これ、使っていいんだな」

 風呂を出ると、さっきカインが言ったように、ワゴンの上に洗い立てのように柔らかなバスタオルと部屋着、それから新品の下着まで置いてあった。

 嫌いなやつという認識はまだ変わっていない。

 その男から施しを受けているような嫌な感触は消えないけれど、背に腹は替えられなかった。

 幸也は仕方ないと小さく呟いて、バスタオルで身体を拭い、下着と部屋着を着た。

 高級そうな部屋着はなんだか幸也に着られるのが不服そうに見えて、何だか少し可笑しかった。

「……」

 そっとドアを開けて、外に出ると、リビングらしいところに誰かがいるのを感じた。

「…あの…」

 その部屋を覗くと、やはりそこはリビングだったらしく、バスローブを着たカインが宅間と一緒にいた。

「…一宮、これ…」

 幸也は礼を言おうと、口を開きかけたのだが、その幸也の言葉を遮るようにしてカインは立ち上がると、またいきなり幸也を抱き上げた。

「い、一宮!」

 さっきまではショックから歩くのも億劫になっていたが、今は随分回復している。

 もう抱いてもらう必要もないと、幸也は暴れたが、カインは容赦なかった。

「そんなに降りたければ、このまま手を離すが?」

 ようするに幸也を横抱きにしたまま、床に落とすというのだ。

 そんなことをされたら、それでなくてもいいだけ痛めつけられた身体はどうなるか分からない。

 幸也はカインの言葉に抵抗をやめた。

 その幸也にカインは少しだけ口元をくいと笑うように上げたかに見えたが、笑ったのかどうかは確認できなかった。

「宅間」

「分かっております」

 宅間はカインの慇懃な呼び方にも慣れた調子で、また先に立って、別の部屋のドアを開け、二人を中に入れた。

「…え…」

 そこは寝室だった。

 大きなベッドが一つ、そこに置いてあるのに、幸也が驚いていると、カインはそのベッドに幸也を寝かせた。

 この部屋だけで十分一家族くらいは暮らせそうだと、幸也が驚きのまま思っていると、カインが宅間を呼んだ。

「宅間」

「はい」

 カインに呼ばれた宅間はすっと前に出ると、横たわった幸也の身体に触れ始めた。

「ここは痛くはありませんか?…こちらは?」

 腹や胸、それから幸也を俯せにして背中に触れながら、そう何度も問いかける宅間に幸也は何をされているのか分からないまでも、いちいち律儀に答えた。

 やがて、宅間は納得したのか、はだけさせた幸也の部屋着を元に戻すと、カインを言った。

「打撲だけですね。骨にも内臓にも異常はありません。打撲からの熱が明日は少し出るでしょうけれど、他は全く心配ありません」

「…あんた…」

 宅間がそうカインに報告するのに、幸也はまじまじと彼を見た。

 その幸也に宅間は安心させようとするように、穏やかな微笑を向けた。

「一応、医師でもあるんですよ、わたしは」

「そうなのか…?」

「ええ。触診で大体のことは分かります。明日、少し熱が出て辛いかも知れませんが、身体には特に異常はありませんから、今日はこちらで休んでいかれるとよろしいですよ」

 宅間はそういうと、カインを見た。

「そうですね、カイン様?」

「…ああ」

 カインは勝手にしろと言いたげにそう答えると、幸也をちらりを見た。

「そういうことだ、休んでいけ」

「休むって言ったって…」

 驚く幸也にカインはその玲瓏な瞳を睨むように細めた。

「この夜更けに人の家を出ていくというのか、お前は。しかも恩人の申し出を断ってまで」

「…恩人って…」

 確かにカインは幸也を助けてくれた。

 あんな場所で蹲っていたら、今頃どうなっていたか分からない。

 確かにあそこで痛みをやり過ごし、家に戻るのも方法だっただろう。出てきたときには父は眠っていたし、あの酒量なら当分目を覚ますこともない。こっそりと帰ったところで咎められることもなかった。

 だが、心に残った傷は別だろう。

 父があそこまで腐っているとは思いたくなかった。息子がこつこつと貯めたバイト代を無断で引き出し、全て酒に変えて飲み干してしまうようなことをするとは信じたくなかった。

 けれど、実際父はそんなことをし、それを咎めた幸也に暴力を振ったのだ。

 帰りたくないという気持ちはかなり強かった。

「…一宮」

 どうしたらいいか分からず、カインを呼ぶと、彼はむっとしたように幸也を一瞥して言った。

「オレは今日も仕事で疲れているんだ。これ以上お前と下らない言い合いをしたくない。黙って休め」

「……」

 どうしてこの男はいちいち気に障るようなことばかり言うのだろうか。

 かなり頭に来たけれど、もうなんでもいいかと幸也は思った。

 この男に今更どう思われようと構わない。それこそ、図々しいやつだと思われたって、痛くもかゆくもない。

 ならば明日までこの柔らかいベッドで眠ってしまった方が得策だろう。

 そう思って、幸也はベッドに潜り込むと、シーツを引き上げ、頭まで被った。

「わーったよ、ベッド借りるよっ」

「最初からそうすればいいものを」

「…おやすみっ」

 カインがまだ何か嫌味を言ってくるような気がして、幸也はそう声をかけて言葉を遮った。

 その幸也にカインはまだ何かを言うだろうと、幸也はてっきり思っていた。だから、身構えていたのだが。

「…おやすみ」

 次に聞こえたのは柔らかな声と、それからドアの開閉の音。

「…一宮?」

 シーツから顔を出してカインがいた方へと目を向けた幸也の前には誰もいなかった。

「…なんだよ、あいつ」

 幸也はよく分からないと首を傾げたが、金持ちの考えることだからなと妙な理由をつけて、再びベッドに潜り込んだ。

 きっと気まぐれなのだろう。

 幸也を拾ったことも、こうしてベッドを貸したことも。

 これだけ広いマンションだから、沢山客室もあって、幸也一人くらい、一晩泊めても何ともないのだろう。

第一、幸也が風呂を借りて出てきたとき、カインもシャワーを浴びた後に見えた。あれはきっと風呂ももう一つくらいあるのだ。

 やっぱり金持ちのすることはオレたちには理解不能だとそう幸也は思った。

 明日になればきっとカインの気まぐれも解けるだろう。そしたら、さっさとこのマンションを出ていけばいい。それだけで終わる話。

 そして、また口もきかないクラスメートに戻るだけだ。

 そう思った瞬間、少し寂しくなったが、その思いを幸也は消そうと目をきつく閉じた。

 やがて、幸也が寝息を立て、眠りについた頃、カインは宅間に命じて急ぎ取り寄せさせた資料を見ながら、携帯電話を取り出して誰かに電話をかけていた。











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2008.7.13

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