15
ゆっくりとした目覚めは本当に気持ちよかった。
すっと深呼吸をすると、かすかに腰と奥の部分が傷んだけれど、それも嬉しかった。
クラスの女子から借りた少女マンガに、彼氏との始めてのHとかいう特集が載っていて、驚きながらも読んで、分からない感覚だなとその時はそう思ったけれど、案外同じような気持ちになっているのかも知れない。
カインに抱かれた。
確かにきっかけは同情とか、慰めたいとか、そういう感情からだったけれど、好きだという気持ちはずっと持っていたのだから、嘘ではない。
ずっとカインに対してもっていた反感とか、ひがみのようなものがもしも、恋心からきているのだとしたら、随分自分は面倒なタイプかもしれないと幸也は思いつつ、そっと身を起こした。
それでもいい。
ちゃんと今は自覚しているし、昨日抱き合えた、それで十分。
ふっと隣を見ると、カインはいない。
カーテンの向こうがそれなりに明るいのに、結構日が高くなっているのだろうと思った。
どうせまた仕事だろう。起きた時についでに起こしてくれたらよかったのにと、恨みがましく思いもしたけれど、きっと起こしてもらってもこの身体の痛みでは学校には行けなかった。
初めてだというのに容赦がなかったなと、ため息を零す。
けれど、遠慮や気遣いなんて、それこそそっちのほうがカインらしくないし、そんなことをされても嬉しくはなかっただろう。
余裕がなかったのだと思うと、嬉しい。男を抱けたということはカインも幸也のことを嫌ってはいないはずだとそう思った。
どんな顔をしてカインに会えばいいのか。
とりあえず、晩飯はできるだけ豪華にしよう。
男は胃袋からだとカフェでのバイト仲間の女の子も皆言っていた。
そういえば、あのバイト、どうしただろうか。休みの連絡をちゃんと入れていなかった。このままではクビだろう。働きやすかったし、気に入っていた場所だったが、仕方ない。カインとの毎日で、失念していた自分が悪いのだ。
少し気落ちしたなと思って、幸也は適当に服を着ると、ベッドから降りて、沈んだ顔のまま寝室を出た。
「…え?」
そして、コーヒーでもと思って開いたリビングにいるはずのない人がいた。
「…一宮」
「……」
カインは幸也をちらりと見て、それから眉根を寄せた。
なまじ綺麗な顔をしているだけに、その不機嫌そうな表情は幸也の気に障った。
「あ、仕事、は?」
昨日、声をあげすぎたらしい。ちゃんと声が出なくて、かすれた声が出たのに、幸也は喉をさすった。
「…今日は休みだ」
「あ、そ、か」
休みの日は大抵学校に行っていたのになと思いつつ、もしかして幸也が起きてくるのを待っていてくれたのだろうかと、そう思うと胸が躍った。
「あの、コーヒーとか、飲むか?」
何だか気恥ずかしくて、キッチンに逃げようとした時、カインがその幸也を呼んだ。
「おい」
「…え?」
声の響きがいつも以上に冷たい気がする。
幸也が恐る恐る振り返ると、カインが幸也をあの青みのかかった綺麗な黒い瞳で睨みつけていた。
「…一宮…?」
「もういい」
「え?」
何のことだと驚く幸也にカインは冷たく言い切った。
「もういいと言っている。出ていけ」
「…一宮?」
カインの目は逸らされない。
この男の長所はこれだと幸也は思っていた。前をまっすぐ見て、決して目を逸らすことなく、現実を受け止める。
嫌なことも辛いことも色々とある、けれど、カインは目を逸らさない。
だから、幸也はカインに何でも言ったのだ。
「どういうことだよ、いきなり出てけって。八千代さんが復帰できるのは来月だろ?それまでは契約が…」
「昨日のアレで十分だ」
「……」
昨日の、アレ。
カインがこともなく言った言葉に幸也は言葉を失った。
では、あの行為も契約のうちだというのか。家政婦としての仕事以外に、あの行為も含まれていたというのか。
「オレは家政婦の代理だろ、そんな…」
「お前は召使いだ。そう言っている。オレのセックスの相手までご苦労だったな。確かにまだ契約期間はあるが、昨日のアレで帳尻はあうだろう。もういい、帰れ」
「……」
幸也は瞬間、腹が冷えるのを感じた。
絶望というのがあるのだとしたら、もしかしたら今感じているこれがその感触なのかも知れない。
マンガなんかだと足下が崩れるような表現を使われることが多いけれど、実際には違うようだ。
内臓が冷えるような、吐き気すら感じる、ひどい痛みだった。
「…なんだよ、それ」
幸也は声が震えてしまっているのに、必死で自分を叱咤した。
「オ、オレが身体を売ったみたいな…」
「違うのか?」
その幸也の精一杯の虚勢もカインの冷たい一言で消された。
カインは殊更冷たい目を幸也に向け、それからふうとため息をついた。
「そうか、あの金額では不満ということか。ならば、もう十万上乗せしてやろうか」
「…いらねぇよっ!」
カインの言葉になけなしのプライドが傷つけられた。
悲しいのか、怒っているのか、もう分からなくて、ただ、なぜか涙が出た。
複雑な想いが胸の中、去来して、カインを好きだと自覚した分だけ涙が出ている気がした。
「もういい、分かった。出ていけっていうなら、出ていく。お前なんか知るかっ」
幸也はそういうと、リビングの隅に、どこか遠慮がちに置かれた自分の荷物を手にすると、カインに背を向けた。
「…おい」
その瞬間、なぜかカインが幸也を呼んだ。
「なんだよっ」
目元を手で拭いながら、幸也はカインへと振り向いた。
どこかで引き留められることを願っていた。
だが、カインはそうはしなかった。
「…なんでもない」
「そうかよっ」
幸也はカインの言葉にまた期待してしまっていた自分に、悲しくなって、吐き捨てるようにそういうと、部屋を出た。
そのまま、いつものように最上階専用エレベーターで階下に降り、そして振り返りもせずに家へと向かった。
本当は帰りたくなかったが、あのままあの部屋にいるくらいなら、殴られてもまだ家の方がましだった。