16







 必死で涙を堪えて、幸也は家に向かったのだが、その家の前に誰かが立っているのに気づいて目をこらした。

「…親父」

 父親だった。

 数日前に会ったところだったけれど、妙に懐かしい。

 父は幸也の姿を見つけると、ぎこちなく笑った。

「…重かっただろ、中に入れ」

「…あ、ああ…」

 父は幸也の荷物を少し持って、家の中へと幸也を入れた。

「…親父、その…」

 リビングに入ると、数日前に帰った時よりもさらに綺麗になっていた。

 本当に女でも入れているのではないかと、疑い始めた幸也に父はソファーに座れと言って、コーヒーまで淹れ始めた。

 それこそ幸也の父は縦の物を横にすることもしない。家のことは母がいる間は母が、母が出ていった後は幸也がしていた。

 その父がコーヒーを淹れている。

「ほら、飲め」

「…ああ」

 そっと差し出されたカップを受け取って、幸也は一口飲んだ。

 さっきまで気持ちが高ぶっていたのに、どこかでホッとした。

「帰ってこないかと、思っていた」

 その幸也に父がぽつりとつぶやくように言った。

「親父」

「オレはいい父親とは口が裂けてもいえないからな。お前が見切りをつけても仕方がないと思っていたから」

「……」

 幸也の言葉に父はそっと封筒を差し出した。

「これ…」

「お前のバイト代、オレが使ってしまったものだ。返すよ」

「…返すって、親父…」

 驚く幸也に、父は苦笑いをした。

「お前が出ていった後、お前の友達がきたよ。お前と同い年だとは思えないくらい、しっかりした子だったな。一人前にオレに説教までしてくれた」

「……」

 克己だろうか。

 父親のことを聞いた時、すれ違ったことはあるというようなことを言っていたが、そこまでしていてくれたのか。

 学校で親しく話す連中はいても、幸也には友達といえるような人間は克己だけだった。

「その上、お前がバイトしていたっていう店にまで連れていってくれた。洒落たいい店だった。皆、お前のことを笑って話す、店長だっていう男はオレに自慢の息子さんでしょうという。…正直、顔から火が出るかと思った」

「…親父」

 恥をかかされたということか。

 また殴られるのかと、幸也が身を縮めたのに、父の反応は違った。

「恥ずかしかったよ、本当に、自分が情けなくて、涙が出た」

「…え…」

 幸也が恐る恐る彼を見ると、父は少し顔を赤くして、項垂れていた。

「いい息子だといわれているお前に、オレは何をしてきたか。虫の居所が悪いといっては殴って、会社での不満をお前を殴ることで解消して、そんなことをやっていたオレがお前のことで褒められるんだよ。お父さんと二人で暮らしていると聞いているけれど、礼儀もしっかりしているし、優しいし、きっとお父さんがちゃんと愛情を注いで、きちんとした躾をしているからなんだろうなと思っていたってな。…オレがそのお前にその前の夜、何をやったか、お前の稼いだ金で酒を買い、お前を殴って蹴って、気絶するほど暴行したなんて」

「……」

 確かにその通りのことをこの男は幸也にした。

 幸也はバイト先でも学校でも決して人に咎められるようなことはしていない。確かに時々授業をサボったり、居眠りをしたりしたこともあったが、それでも親を呼び出されるようなことだけはしていなかった。バイトだって、言われたシフトには必ず入っていた。

 だから、比較的、幸也は印象がいいのだ。特にバイト先では真面目で通っていた。

 幸也の人となりを聞けば、間違いなく、バイト先ではいいように言ってもらえるだろう。父に言ったようなことを言われたこともあるのだから、君のような息子を持って、親は安心だろうと。

 その息子を父は酔って暴行し、気絶するほど長く乱暴を働いた。

 そんな話を聞いて、少しは良心が痛んだということか。

「オレは親として失格だと、思った」

「……」

 後悔を、してくれたというのか。

 なら、いいと、幸也は目を伏せた。

 それで十分だ。

 それでいい。

 少し辛い想いをしたけれど、それもこのまま忘れられる。

 父が更正さえしてくれれば、それでいいのだ。

 その幸也に父は少し笑ってみせた。

「今、カウンセリングに通っているんだよ、幸也。オレは病気だそうだ。それから、会社も今有給を取って休んでいる。…休むと言ったら、逆に安心されたよ。部下にも上司にも、オレは限界に見えていたらしい。その間に家事をしてみた。だが、だめだな、どうにもうまくいかない。お前はそれを学校に行きながら、やってくれていたんだな」

「……」

 では、家の中が片づいているのはそのせいか。

 てっきり、荒れるだけ荒れていると思っていたのに。

「…てっきり、オレ、女でも連れ込んで、やってもらってんのかと思ってた」

「…そんな馬鹿な」

 幸也の言葉に父は苦笑いをした。

「オレのところにくるような物好きはいない。…それにオレには一人だけでいい」

「……」

 母のことを言っているのだろうか。

 幸也はその言葉にもう、大丈夫かと思った。

 駄目な父の世話をすることで、存在意義を見いだそうとしていた幸也。けれど、もうその必要もない。

 そんなことで存在を確認することもない。

 自分で父は立ち直ろうとしている。

 どこかで寂しく思ったけれど、それもいい。

 カインとのことはまだ胸の中でくすぶっているし、早々忘れられそうにはないけれど、それでも時間が解決する。

 どうせ、カインは学校にはあまり来ない。

 だから、顔を合わせることもない。この思いも時期に消える。

 そう、思いこもうとしていた。

「それから、これを」

「あ、携帯」

 父がテーブルの上に出した携帯電話に幸也は父が持っていたのかと、驚いた。

「すまん、本当はお前に返さないといけないのは分かっていたんだが…。久しぶりにあいつの声を聞いて、返すのが遅くなった」

「……」

 あいつというのは母のことか。

 手紙でのやりとりのほかに、電話も時々かかってきていた。

 幸也がいない間にもかかってきていたのか。

「母さん、なんか言ってた?」

「…また、泣かれたよ。それから、お前の携帯の履歴やメール、見てみろって言われた。あいつのところに連絡していたのはほとんどオレのことでだったんだな」

「……」

 せめて酒だけでもやめさせたくて、母にどうにかならないかと相談していた。施設があることも、そのほかのことも色々と。

 出ていっても、母は父をいつも気遣っていたのだ。

 いつか優しい、元の父に戻ってくれることをひどく願っていた。

「母さん、親父のこと、いつも心配してんだよ。身体を壊さないようにって、せめて少しでも休んでほしいって」

「そうか…」

 目を細める父にここまで余裕を持つことができるようになったのかと、幸也は思った。

 自分が出ていったことは無駄ではなかったのだ。

 そして、幸也のために、ここまで心を砕いてくれた友人にとても感謝した。

「克己に礼、言わないとな。あいつがそこまでオレのためにやってくれると思わなかった」

 だから、てっきり克己が父に話をしてくれたのだと思って、口に出したのだが、父の反応は違った。

「……」

 克己の名に、父は一瞬不思議そうな顔をしたのだ。そして、何のことだと言いたげに幸也を見た。

「山瀬くん?あの子には一度も会っていないが…」

「え…?」

 驚く幸也に父が告げた名は思いも寄らない人の名前だった。











back / next
2008.10.11

back / index / home