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「今日はカイン様のお母様、美鈴様のご命日であり、カイン様のお誕生日だったのです」

 あの後、幸也はカインを抱えたまま、家を出、宅間の運転する車でカインを病院に連れて行くと、カインの折れた腕の治療をして、マンションへと戻った。

 病院では入院していくことを薦められたが、秘書の宅間が医師免許を持っていることもあり、また患者であるカインが病院に対してひどい拒絶反応を見せたため、帰宅が認められた。とはいえ、ギプスで固められた腕は必ず通院の上治療にくることを厳命された。

 カインはその間痛いとも全く言わず、淡々と治療を受けていた。

「痛みには慣れている」

 幸也が心配してカインに大丈夫かと問えば、カインはそうあっさりと言った。

 確かにカインは痛みには慣れているらしく、骨を固定する際に折れた場所を捕まれても苦鳴を全くもらさなかった。

 だが、逆にその姿が悲しく見えた。

 そして、そのカインをマンションに連れ帰って、彼をベッドに寝かせると、幸也が尋ねる前に宅間が口を開いた。

「…一宮の母親って、あの写真の…」

「ええ。本当にお美しい方です。その上、とても優しく暖かく、今も生きておいでだったらと、どんなに思ったか知れません」

「…そっか」

 幸也がキッチンでコーヒーを淹れて持ってくると、そのカップを受け取って宅間は目を細めた。

「わたしの家は代々一宮の家に仕えている家系で、わたしが一宮に勤めだした頃はまだ美鈴様はご存命で、カイン様のお父様、龍樹様とは本当に仲睦まじく、理想のご夫婦でした。ただ、美鈴様は生まれながらにお体が弱く、本当に一日一日を慎重に生きているような方だったのです」

 宅間はコーヒーを口にそっと運んで、その温かさに少しだけホッとしたようだった。

 その宅間をじっと見ながら、幸也は彼がどうして自分にこんな話をするのか、計りかねていた。

 けれど今はカインの話を宅間がしてくれることに、口を挟むこともできず、黙って聞いていた。

「ですから、龍樹様は美鈴様との間にお子様を望まれていなかったのです。とてもじゃありませんが、美鈴様には出産に耐えるだけの体力はなかったからです。けれど、美鈴様はカイン様を身ごもられてしまった…」

 宅間は心痛な表情で言って、ため息を零した。

「龍樹様は美鈴様に堕胎されることを望まれました。それこそ、妊娠していることすら、美鈴様には耐えられない可能性があるんです。美鈴様は心臓が弱く、一年の半分をベッドで過ごされているほど体力がなかったのです。けれど、美鈴様は産むことを決められた。どれほど龍樹様が懇願されても絶対に産むのだとおっしゃって、その意志を貫き通された。日頃は弱々しく見えられたのに、あの時だけはとても強くおられた。美鈴様はカイン様を産むことを心底望まれたのです」

 けれど、その望みは彼女の命を奪ったということか。

 柔らかく微笑む彼女の遺影を幸也は思い出す。優しい微笑は彼女の性格を表していたのだろう。きっととても素晴らしい女性だったに違いない。

 そして、今も生きているなら、カインをとても愛してくれただろうことを。

「けれど、やはり妊娠は美鈴様の命を確実に削っていったのです。結局、臨月まで美鈴様は持たなくて、7ヶ月の早産で産むことになってしまったのです」

 宅間は心痛な面持ちで、そう言った。

 そして、彼女は。

「…美鈴様は一度もカイン様をその腕に抱くことなく、命を落とされた。ただただ、生まれてくる子を大切にしてくれと、龍樹様への愛を最後まで口にされて。…龍樹様も最初は美鈴様の代りとカイン様を愛そうとされた。けれど、早産で生まれ、弱々しいながらもそれでも生きているカイン様に龍樹様は愛情を持たれることはなかったのです。そして、名前をカイン、と名付けられた…」

 宅間はそこまで言うと、身体の力を抜いて、それから幸也に縋るような目を向けた。

「どうか、カイン様をお救いいただけますか?橘さんだけなんです、カイン様が望まれた人は。カイン様は他人を受け付けません。わたしは愚か、八千代さんですら、カイン様の近くに歩み寄れない。なのに、カイン様は橘さんだけには心を開かれた…」

「宅間さん」

「お願いします」

 宅間は深々と幸也に頭を下げた。

 その宅間の姿に幸也はどうしたらいいのか分からなくて、口ごもった。

 もし、カインが宅間のいう通り、幸也を近くに置いているのだとしたら、それは同じ体験をしているからだ。

 幸也もカインのように親から虐待を受けている。腕をへし折られたことはないが、あばら骨を折られたことくらいはある。それこそ殺されるのではないかと、父親に恐怖を感じたことすらある。

 ただそれだけなのだ。別にカインは幸也に気を許してはいない。

 そんな優しいものではない。

 だが、夜、眠るカインの横顔がひどく安心した、穏やかなものであるのだけは確かで、その寝顔を見た時だけはこの安らぎを守りたいと静かに思うことはあった。

 まるで手負いの獣、きっとカインと幸也はそういう意味で似ていたのだ。

「……」

 幸也は宅間の言葉に返事はできなかった。

 だが、帰ると言った宅間にいつものように玄関まで見送った。

「では、失礼します」

「うん、おやすみなさい、宅間さん」

「はい、おやすみなさいませ」

 宅間は幸也に話したことで落ち着いたのか、随分すっきりした顔で出ていった。

 その宅間を見送って、幸也はどうしようかと、寝室のカインに思った。

 今日は客間を使った方がいいだろう。腕を痛めているカインと一緒に眠って、何かあったら大変だ。寝相の心配は今までしたことはないが、眠っている間のことは保証できない。

「…一宮?」

 寝室を覗いて声をかけると、カインは眠らず、ベッドに座っていた。

「寝てなかったのか?」

「…いたのか?」

「いたら不味いか?」

 カインの言葉に幸也はいつものように返すと、カインは一瞬驚いたが、やがてふっとため息をついた。

「お前は鈍感だったな」

「まあね、鈍くできてますよ」

 これくらいの嫌味でへこたれていたら、ここにはいられない。

 幸也はカインに近づくと、その額に手をやった。

「熱はないみたいだな。さっき、病院で抗生物質、打ってもらえたから、大丈夫かな」

 そう言いながら、幸也は小さく笑った。

「オレがここにきた時と、逆だな」

 あの時は幸也がぼろぼろに痛めつけられていた。

 だが、今こうしてベッドに寝ているのはカインだ。

 綺麗な顔にも青痣があって、ひどく痛ましい。

 ギプスで固めた腕は首から布でつるされていて、この身体のあちこちに痣があることを幸也は知っていた。

「なあ、今日はもういいからさ、寝ろよ。腹、空いてるんなら、なんか作るけどさ」

「…お前」

 幸也がカインの身体をベッドに寝かせようとしたのに、カインはその幸也の腕を掴んだ。

「…一宮?」

「宅間から聞いたんだろう?オレが一宮美鈴の命を奪って生まれたことを」

「……」

 母とは言わず、カインは母親を名前で呼んだ。ただそれだけでカインの傷がどれほど深いかが知れた。

「…ああ、少し、聞いた」

「そうか」

 隠していても仕方がないと幸也が肯定すれば、カインはくっくと小さく笑った。

「哀れと同情するか?実の父親から心底憎まれ、死ぬことを切望されているオレを」

「…別に…、オ、オレだって、似たようなもんだし」

「だが、お前には父親に愛された記憶がある」

 カインは幸也の言い訳めいた言葉をあっさりと否定した。

「オレはずっと一宮龍樹を父と知らずに育った。初めて知ったのは雑誌の取材を受けた時だ。他人と思っていたあの男が突然オレを連れだして、取材の場所に連れていき、息子だと説明した。5歳の頃だ。それまであの男はひどく無関心でオレの存在なんてないものとしていた。時々姿を見せてはオレにまだ生きていたのかと言った」

 カインの淡々とした口調に幸也はその闇と傷の深さに目を細めた。

 最愛の人を亡くした痛みも悲しみも分かる。けれど、その人が遺した子供をどうしてあそこまで憎めるのか。

 カインを殴っていた姿は本気でカインが死ぬことを願っていた。

「父かと、それまで名前すら知らなかった男にオレは少しだけ期待した。本の中にある父親というのはとても優しく、自分を守ってくれるものとあったからだ。だが、その後もあの男の態度は変わらなかった。相変わらずオレが死ぬことだけを願っていたが、案外オレは丈夫にできていたし、宅間や、その頃新しくやってきた八千代のおかげで死ぬことはなかった。あの男の望み通りにはならなかった」

 カインの言葉はまるで独白だ。

 淡々とした言葉はひどく切ない。

 広い屋敷の中で、自分の存在がただあるだけのものと思うことはどれほど悲しいだろう。

 幼いカインはきっと愛らしかっただろう。今、これほど綺麗な顔をしているのだ。幼いカインはとても可愛かったに違いない。

 なのに、そのカインを抱きしめるものはいなかった。

「あの男ももうオレの顔を見るのもいやだったのだろうな。小学校に上がった日に宅間を通して百万を寄越した。これでどうとでもしろとな。要するにその百万で自分で生きていけと。その金をもらった翌日からオレの食事は出なくなったから、確実にそうなのだろう。仕方なく、オレは宅間に株の運用を習った」

 逸話にすらなっている話の内情はそうだったのか。

 カインの悲しい過去。幼い子供は父に生きていることさえ疎まれ、たった百万円の金を与えられ、放り出されたのだ。

「結局、オレがあの男からもらったのはその百万とカインという名だけだった」

 カインはそう言って、ギプスで覆われた腕をさすった。

 痛むのだろうかと、幸也は思いながら、そうかと声を上げた。

「お前の親父、お前の名前だけは考えてくれたんだよな。…ちゃんと、大事にしようとしてくれてたんじゃないのか?」

 不意にそこに救いがあるのではないのかと、幸也が口にしたのに、カインは呆れたような目を幸也に向けた。

「お前は本当に無知だな」

「なんだよ、それ」

 いいことを言おうとしたのにと、幸也がむっとしたのに、カインは言った。

「知らないのか、カインという名の意味を。カインというのは聖書に登場する、人類最初の殺人者の名前だ。しかもアベルという兄弟を殺した男の名だ。そんな名、どうして大事なものに与える?あの男はオレを人殺しだと思っているんだ」

「…ッ…」

 心が瞬間凍ったのを感じた。











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2008.9.20

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