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事故を起こすことなく、無傷で社に戻れたのは奇跡だったような気がする。
それくらい、俊明は動揺していた。
泣いていた享、その享を慰めていた喜美。
以前の俊明ならその場で怒鳴り込んでいただろう。
どういうことだと、浮気でもしているのかと、それこそ享を悪し様に詰ったに違いない。
あの瞬間だって、そうしたくなった。
けれど、あの頃とは違う。
我慢もきくようになったし、冷静になることも知った。
けれど、体が恐怖で震えてどうしようもなかった。
享が泣くなんて、どういう理由があるのか。
享を一番泣かせてきたのは俊明本人だ。
彼の心を壊すほどに痛めつけてきた。
その俊明を享は許してくれて、側にいる。
けれど、まだ泣いているのかも知れない。
それこそ、喜美を前にして泣くような。
――――そういえば。
享と喜美の反応は初対面のものではなかった。
以前から知り合いだったような反応で、お互いに驚いていた。
お互いにどうしてというのような顔だったのだ。
きっと二人の間には何かある。
それに、享はああ見えて人前で簡単に泣くような男じゃない。
優しい風貌にごまかされているが、ああ見えて中身はかなり強いのだ。
でなければ、若くして両親を亡くして、たった一人で妹を育てるなんて不可能だ。
そう、本当はそんな享を俊明は支えなくてはならなかったのだろう。
なのに、享の置かれている環境なんて見もせず、享を独占することだけを考えてしまっていた。
今度は失敗しない。
失敗しないためにもどうするべきか考えなくては。
享を問い詰めるのは簡単だ。
けれど、それで享を苦しめては元も子もない。
あの涙は悲しみや苦しみからのものだ。
あんな涙をもう二度と流させないためにも考えて行動しなくては。
享が安心して頼れる男になる。
そう思って、離れていた5年、頑張っていたのだから。
「…すみません、喜美さんのところに行ってから、直帰してもいいですか?」
専務という肩書きを持っているとはいえ、今、俊明は支店のひとつに出向している身だ。
そこで、肩書きを隠して、店長補佐という立場で仕事をしている。
俊明は思いついたことを行動に移そうと、了解を得るために店長に声をかけると、彼は軽く頷いた。
「ああ、どうぞ。毎日残業で大変だったしね。今日はゆっくりして」
「はい」
店長の笑顔に俊明も笑って返すと、店を出た。
そして、そのまま喜美の店へと向かった。
ディナーの開店が6時からという喜美の店は今は準備中だ。
けれど、勝手知ったる俊明は通用口から顔を覗かせた。
「こんにちは、イクラフラワーショップです!」
少し大きめの声を上げて、そう声をかけると、仕込み中だった顔見知りのシェフが俊明を見つけて声をかけてくれた。
「ああ、伊倉さん。喜美なら、フロアーにいますよ」
「ありがとうございます」
俊明はそう返事をすると、仕込みをしている彼らの横を通り抜け、フロアーへと出た。
「やあ、俊明くん」
フロアーに出ると、喜美は自らテーブルの設置をしていた。
「テーブルが少しずつ動いてしまっていたものだから、戻しておいたんだよ。ほんの少しのことで、動線が狂ってしまって、サーブがうまくいかなくなることもあるからね」
喜美は年若く成功してはいるけれど、最初からこんな大きな店を持っていたわけではない。
小さな店から始まって、少しずつ大きくしていったのだ。
だから、こういったテーブルのセッティングも気にかかるらしい。
「相変わらずですね」
「君もそうだろう?」
「……」
喜美は俊明の立場を正確に知っている。
以前、出席したパーティーにシェフとして喜美が招かれていたことで、知られてしまったのだ。
長い付き合いにもなるだろうと思っていたから、それもいいかと俊明は思っていた。
「それで、君が突然来るっていうことは、享くんのことかな?」
「……」
やはり、知り合いだったのか。
俊明が表情をこわばらせたのに、喜美は苦笑した。
「別に享くんをどうこうしようとか、どうこうしたというのはないよ。ただ、以前顔見知りではあったんだ。ただ、彼は私のことを封印したい過去としていたみたいだけど」
「…それは、どういうことですか?」
「……」
喜美はふうと吐息をつくと、俊明を見た。
「少し、時間は取れるかな?ここでは話せない。奥で」
「…わかりました」
俊明が強くうなずくと、喜美は目を細めた。
その目に喜色と慈愛が満ちていたのに、俊明は気付いていなかった。