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俊明は営業周り方々、車を走らせていた。
都内の店を回り、それとは別で本社が契約している得意先を訪問する。
地味な仕事だが、こういう作業が利益に繋がっていくのだと肌で知っているから、やりがいもあった。
それに俊明は元々人と話すのが好きだ。
人と話して、何かを得るということが面白くも楽しいことだと知るようになった。
こうやって、いろんな知識を得ていけば、もっと大きな男になれるのではないかと思ったのだ。
5年前、享をひどい方法で傷つけ、縛り付けた。
自分でも最悪な方法だと思う。
卑屈になり、笑わなくなった享に暗い喜びを覚えた。
捨てないでくれと、俊明がいなくなったら誰もいなくなってしまうと縋りつく腕を戯れに振りほどいたり、救い上げたりするのは面白かった。
こうしておけば享は自分の手元からけしていなくなりはできないと思っては喜んだ。
ただ、その喜びは長くは続かなかった。
享は俊明の手元を離れ、俊明は自分の罪を知った。
そして、再会できて、もう一度付き合いを再開することができるようになった今は別の方法で享を手放さなくて済む方法はないかと模索し始めたのだ。
その上で行き着いたのは享が俊明のそばが一番楽だと、安心できると思ってくれるようにすればいいということだった。
他の誰かに話せば当たり前のことだろうと呆れられるだろう。
けれど、俊明にはそんな当たり前のことも分からなかったのだ。
情けない話だが、どうしようもない。
そして今、俊明は享が安心して心を預けられるような男になるのだと、仕事に打ち込んでいた。
だが、それにしても昨日のことが気にかかる。
あの後、何度電話しても話し中で、結局享と話をすることはできなかった。
朝方、留守電を聞いた享から、謝りのメールが入っていた。
友人から電話があって、切るに切れなかったのだと。
釈然としない理由だけれど、信じるしかなかった。
下手に疑って享を傷つけるようなことにだけはしたくなかった。
嫉妬深いのはよくよく知っている。
享の雇い主である飯塚の存在はいつまでも気にかかる。
最近はないようだが、それでも飯塚は享を特別扱いしているのはよく分かる。
時々、待ち合わせ場所に一緒にくることもあって、それも腹立たしい。
けれど、あまり嫉妬しすぎると享が不安がるのを知っているから、できるだけ控えている。
以前、それで一度泣かせてしまったのだ。
俊明が嫉妬から飯塚を悪し様に言ったのに、享がたしなめたのだ。
自分の雇い主だし、世話にもなっているのだと、あまり悪く言わないでほしいと。
その享に思わず俊明はどう世話になっているのだと、ひどく怒鳴ったことがある。
「…ごめん」
あの時、享はそう言って、涙を零した。
悲しそうに涙を零して、俊明が嫉妬するのは全て自分のせいだと言ったのだ。
「俺が悪いんだ…」
享は俊明と離れている間の5年、特定の相手を作らずに、その場限りの付き合いを重ねていたという。
そのことを享は俊明と再会し、交際を復活させた今、ひどく恥じていた。
節操のない自分のせいで、俊明が自分を信用できなくて、嫉妬してしまうのだろうと、そう思っていた。
あの時、またやりすぎたと思ったのだ。
全部俊明のせいなのに。
綺麗なままの享を手に入れるなら、そのまま好きだと思いを告げればよかった。
好きなのだと、側にいてほしいのだと、そういえばよかったのに、方法を間違えた。
おかげで、享は俊明と別れた後、自分を痛めつけるようなことをしてしまったのだ。
今だって信じられない、享が始めてあった人間に体を預けることができたなんて。
だが、それは本当だったと享自身からも、妹の歩美からも聞いている。
もう二度とそんなことはさせないと、俊明は誓っていた。
もしも、自分と別れるようなことになっても、享には誰かに大事にしてもらいたいと思ったのだ。
――――別れる想像なんて、するだけで暴れたくなるけれど。
それでもそう思っていた。
「こんにちはー」
車を路上に置いて、見知った店に顔を出す。
すると、奥から店主が顔を出してくれた。
「ああ、伊倉くん」
にこにこと笑ってくれる、穏やかな店主は俊明が働き始めたばかりのころからのお得意様だ。
洋菓子専門のパティスリーであるこの店には飛び込みで入った。
店は可愛いのに、どこか殺風景に見えたのに、花をおきませんかと話して、生花のアレンジメントを置いてもらうようになった。
小さな契約だったけれど、契約を結べたときには嬉しかった。
それに、この店には随分と助けられた。
「どうですか?花は」
「ああ。いいものを持ってきてもらっているよ。造花も考えたけど、やっぱり生花がいいね。アレンジメントも随分と考えてもらっているし」
「そうですか」
「ああ」
そう言って、彼は俊明を見てしみじみと言った。
「君もいい顔をするようになった。…恋人は大事にしてる?」
「ええ」
好きだったのに、ひどい方法で傷つけてしまったのだと享のことを彼に話したことがある。
そのときに店主はそうかと言って、可愛らしいショートケーキをお土産に持たせてくれた。
ケーキを泣きながら食べたのはあの時が初めてだった。
「大事にしようと思ったから、こちらに寄ったんです。シブースト、いただけますか?」
「ああ、いいよ。いくつ?」
「えっと、3つで」
享の家に持っていこう。
歩美もいるだろうから、歩美の分と、享と自分の分。
「……」
ああ、そうかと一瞬閃いた。
そうだ、享との同居も歩美も一緒にきてもらったら、可能なんじゃないだろうか。
歩美のことは俊明自身、自分の妹のように思っている。
歩美も俊明によく懐いてくれているのだ。
それなら十分可能だろう。
いい考えだと思って、享はパティシエからケーキを受け取った。
「じゃあ、また顔を出しますので、また何かありましたら遠慮なく」
「ああ、お願いするよ」
「じゃあ」
俊明は頭をひとつさげると、店の外にでた。
そして、ケーキを助手席において、車を出そうと思った時、不意に通りの向こうにある、小さなコーヒーショップに目がいった。
「…あれ…」
あれは喜美ではないだろうか。
喜美が窓際に座っているのが見える。
誰かと向かい合って話しているようだが、店の前に立っている女性の姿で見えない。
そして、喜美の手がすっと伸び、それから女性が退いた瞬間、相手が見えた。
「…享」
喜美に肩に手を置かれ、享はゆっくりと両手で顔を覆った。
かすかに震えて見える享。
「…泣いて、いるのか?」
喜美に肩に手を置かれ、泣いている享。
その姿に俊明は何も考えられなくなってしまった。