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俊明はマンションに戻ると、上着をソファーの背に投げ、それからキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、そのまま口をつけた。
喜美の店で食事をとっている間、その後も享は様子がおかしかった。
いつまでもおどおどとしていて、どこか上の空。
俊明が何を話しかけても一向に頭に入っていないらしく、生返事しか返してこなかった。
その上、さりげなく部屋に誘った俊明に今日は疲れているからと、滅多に言わない断りの言葉を口にして、背を向けてしまった。
おかげで送ることもできず、俊明はすっかり肩すかしを食らってしまった。
本来ならばここに享がいて、今頃は久し振りの逢瀬を楽しんでいたはずなのだ。
年末に近づくにつれ、享の勤める経理事務所は忙しさが増し、今日は本当に久しぶりに会えたのだ。
どれほど今日の逢瀬を俊明が楽しみにしていたか、きっと享は知らない。
ようやく、再び手に入れることのできた愛しい人への想いは決して尽きることがない。
それこそ、本当は同居したいのだ。
こうして、別々の場所に帰宅しているのすら、もう我慢できなくなっている。
享にはまだ学生の妹がいて、彼女を養育しなければいけない義務がある。
そんなことはわかっている。
だから言い出せずにいるのだが、本当は妹を放って一緒に暮らしてほしいと言いたいのだ。
ただ、その妹が俊明の元に享が戻るきっかけを作ってくれた恩人でもあることで、言えずにいたし、そんなことを口にして享に軽蔑されることが怖くて言えなかった。
嫌われたくはなかった。
もう二度と享に背中を向けられるようなことにはなりたくなかった。
今俊明の傍に享がいること自体が奇跡のような事実だから、その奇跡を自分で壊すようなことはできなかったのだ。
臆病になったものだと思うが、元々そういう性質だったのだろう。
でなければ、5年前、あんな卑怯な手で享を独占しようなんて思わなかったと思う。
性癖のせいもあるが、享の消極的でおとなしい性格を利用して、ひどく追い詰めた。そして、俊明の言葉を絶対だと思うしかない状況にまで追い詰めたのだ。
今思えば、あんな関係は長続きしなかっただろう。
どこかできっと破綻する。
事実、破綻してしまい、享を俊明は永遠に失うはめになりかかった。
もうあんなことにはなりたくない。
享を手放さないためなら何だってする。
俊明の隣が居心地のいい場所だと享に思ってもらうためなら、本当になんでもする気でいたのだ。
「…はあ」
本当に気弱になってしまったものだ。
恋人に夢中だなんて、以前なら笑ったのに。
今では自分がそうなってしまっている。
それでもこの状況をどこかで好ましくも思っていた。
子供じみた独占欲と意地で、享を苦しめていた自分は俊明も好きではなかったのだから。
今のどこか怯えたぐらいがちょうどいい。
これなら享を苦しめることもないのだから。
俊明はそう思うと、ソファーに放り投げた上着を取ると、そのポケットから携帯を取り出した。
そろそろ享も家に帰っているだろう。
そう思って、携帯を鳴らした。
この携帯も享と再会してから買ったもの。
仕事用にもう一台持っているが、プライベートではこれだけ、しかもこの携帯の短縮に入っているのは限られた番号だけだ。
メモリー1は享の番号が入っていた。
「……」
その享の番号を呼び出して、電話をかけた。
「…あれ」
だが、携帯はずっと話し中のコールを鳴らしたまま、一向にかからない。
「…どうしたんだ?」
時間はもう0時を指そうとしている。
享にも付き合いがあるのはわかっているが、それでもこんな夜中に、しかも俊明と会った後に電話をしているなんておかしい。
俊明は享と会った後、必ず家に帰ったころを見計らって電話をかけるようにしている。
無事を確かめるためと、おやすみを言うためだ。
その俊明の習慣を享はよく知っているはずなのに、電話をしている。
「……」
なんだか、嫌な予感がする。
そして、そんな予感ほど外れないことを俊明はよく知っていた。