6
一度自宅に寄り、仕事に出向いた享は飯塚に何か言われるのではないかとびくびくしていたが、飯塚は別段変わりなく普段どおり享に接してくれた。
なまじ享よりも年齢を重ねているわけでもなく、まだ三〇才半ばだというのに自力で事務所を持っているだけはあるということか。プライベートを切り離せるだけの技量を彼はちゃんと持っている。
享はそんな飯塚の反応に安心して通常通り仕事をこなすことができた。
ただ、昨夜の飯塚の告白が嘘ではないことを示すように、彼は時折柔らかで優しい視線を享に投げかけてはくれていた。
いつもと同じ、けれど居心地のいいかすかな刺激に享は機嫌良く少しの残業をこなして帰宅した。
「ただいま」
鍵を開け、中に入る。すると、妹の歩美が飛び出してきた。
「あ、お兄ちゃん、お帰りー。ということで、わたし、ちょっと友達のとこに出かけてくるから、話して」
「え、話?…友達って、歩美っ」
「敦子んとこっ。また後で電話するしっ」
お帰り、行ってきますとはどういうことだと享が慌てて歩美の腕を掴もうとしたが、機敏な彼女はするりと享の手をすり抜けて出ていってしまった。
「…あいつ…」
いつからあんなふうになったのか。
あまりにも自分と性格の違う妹に、ふうとため息をついて、享は靴を脱ごうとして、玄関先に見慣れない靴が置いてあるのに気付いて眉を潜めた。
誰かいるのだろうか。そういえば話がどうとか歩美が言っていた。
かすかに期待がこみ上げる。もしやとその相手を想像して、享はその考えをうち消した。
そんなはずはなかったから。
あの男が享の部屋にまできて、何か話をしようなどと言うはずもないから。
そう思いつつ、享はリビングへと足を向けた。
「…よう、おかえり」
「……」
だが、そこに期待があった。
俊明が今朝みた姿のまま、ソファーに座っていた。
「…おまえ、どうして…」
「おまえの狭っくるしい部屋がどんなもんか、見に来ただけだよ」
「……」
働きだして五年目の享には精一杯の住居。確かに妹と二人で住むにしては手狭だとは思っていたが、これが限界だったのだから、仕方がないのだ。そんなことまで詰る材料に使う俊明に享は涙が零れそうになって必死で耐えた。
「…嫌味を言うためにきたのか。なら、満足するだけ言って、さっさと帰れ」
こんな性悪な男を今も好きだなんて本当に自分はどうかしている。享の触られたくない痛みにばかり触れてくる俊明。そんな男なのに、まだ好きだなんて。
「……」
だが、その享を前に俊明はさっきまでのにやにやと笑った嫌味な表情を、なぜか一瞬傷ついたものに変え、それからすっとそれを神妙なものに変えた。
「…やっぱり、嫌われてるよな」
「……」
今更ではないか。嫌ってほしくてあんなことを繰り返し言っていたのではないのか。
瞬間暴れたくなって、享は俊明を見た。
俊明は享の視線に目を合わせず、握りしめた手を見つめている。その俊明に享はため息をつくと、自室に戻ってコートをかけ、スーツからラフな格好に着替えた。
「…享」
もしかしたらその間に帰っているかも知れないと思っていたのだが、あの待たされることが嫌いだった男は享の着替えをそこで待っていた。
「…何、言いたいことがあるならさっさと言えよ」
もう、耐えられないと享が結論を急ぐと、俊明は何度か口を開いては閉じをくり返し、それからやっと言葉を発した。
「享、おまえを愛してる」
「……」
そんな、愛の言葉を。
「…なん、だって…」
だが、その言葉に享の何かが切れた。
――――愛してる?愛してる、だって?
「おまえ、あれだけ浮気して、俺のこと無茶苦茶詰って、いたぶって、それで愛してるだって?冗談言うなよ、新手の嫌がらせかっ。何を今更…っ」
付き合っている間、一度も聞くことができなかった言葉だった。
享には強要するのに、自分は言わない。享が必死で好きだ、愛していると縋れば、その言葉をせせら笑っていたではないか。
なのに、今更そんなことを言い出すなんて。
「けど」
だが、その享に俊明は声を荒げもせず、冷静に言った。
「あの頃から今もずっと、おまえが好きなんだ、愛してるんだ」
「…な…」
ぼろっと涙が零れた。
なんだかひどく悔しかった。
どうして今、なんだろう。
どうして今、こんなことをこの男は言って、享の心を今更乱すのだろう。
あの時、必死で封じた想いがこみ上げてくる。
「…なんなんだよ、も…わかんない、…おまえ…なんで…」
俊明は涙を必死で押さえようと、両手で顔を覆った。その享に俊明の冷静な声が降ってくる。
「…俺はおまえに愛されている自信がなかった」
それは初めて聞く俊明の独白だった。
「俺はおまえが男しかだめだっていうの、結構知り合ってすぐに気付いた。俺自身がバイだってこともあるんだろうけど、独特の雰囲気でな、分かったんだ。俺、本当はおまえに一目惚れしてたんだよ。…知り合い方、変だと思わなかったか?だって、俺とおまえ、大学も違ったんだぜ、なのに俺はおまえと知り合えた」
「……」
確かにおかしいとは思っていた。俊明と知り合ったのは享がよく行っていた喫茶店でだ。大学の友達とつるんで話しているところに、その友達の友達という触れ込みで俊明が割り込んできたのだ。
「本当はあの中に友達なんかいなかったんだ。知り合い程度しかな。けど、それでも俺はおまえと知り合いたくて、おまえが男しかだめっての分かってたから、それならうまくすればって思って、無理矢理入り込んだんだ。…本当に一目惚れだったんだよ。偶然あの喫茶店で見かけたおまえに、一目で惚れた」
「……」
不格好で趣味が悪く、スタイルもひどい。
そう享に言い続けていたのは俊明の方だ。
その享に俊明が一目惚れした、だって?
「嘘だ、…嘘だ、そんなの…、だって、おまえ…」
享が必死で否定するのを、俊明は首を振って言った。
「本当なんだ。本当に一目惚れしたんだよ。だって、おまえ、背がもうちょい欲しいってだけで、スタイルよかったから。顔だって、そのでかい目がすごく印象的で、どっかのアイドルみたいに可愛かったから。今は社会に出て、ちょっと甘みが抜けて、もっとよくなってるし。ただ、絶望的にセンスは悪かったし、格好はひどかったけどな」
そこまでいって、俊明はふうとため息をついた。
「だから、今だって思ったんだ。おまえは自分がゲイだったの、隠してるみたいだったし、これはそれを知ってるって言えば、簡単に手に入るんじゃないかって。それで、本当におまえは簡単に俺のものになって、何も知らない体、あっさり俺に投げ出してきて。…だから、怖かった」
「…俊明」
まだ涙は流れているけれど、享はゆっくりと顔を上げた。その享の顔に俊明はホッとしたように笑った。
「俺だから、じゃなくて、好奇心で俺とそうなったんじゃないかってな。おまえは好きって言ってくれたけど、本当に怖かったんだ。いつおまえを他のやつに取られるか知れないって。だから、俺は卑怯な方法をとった。おまえに始終だせぇだの、格好悪いだの、ずっと言い続けていれば、おまえは自分がそうなんだって思いこんで、誰かと積極的に知り合おうとはしないだろうって。…おまえの性格はよく分かってたからさ。ずっと、見てたから」
ずっと、というところで、俊明の顔が切なく歪んだ。
その顔に愛の言葉が嘘ではないのではと享は思った。
この顔は本当に誰かを思ってしかできない顔だ。
「そうやって、おまえを閉じこめた。けど、やっぱり俺は不安で、おまえを嫉妬させたくて、浮気ばっかりした。おまえ相手でなきゃ、本当は触るのも嫌なのにさ、おまえが本当に俺を好きなのか、確認したくて浮気ばっかりして。けど、おまえ、あんまり嫉妬してくれなかっただろ。俺はおまえが誰かと話すのさえ嫉妬するのに。だから、こうなったらっておまえに女とやってるとこ見せて。…やっと嫉妬してくれたのを見て、有頂天になった。別れようとまで言い出すくらい、おまえが怒ってるのが嬉しくて、その後のことなんか想像もしなくて…」
俊明はそこまでいって、享を見た。その顔に享はようやくまともに言葉を発した。
「なら、なんであの後、連絡くれなかったんだ…」
「…連絡はした。けど、おまえ、携帯、着拒否してただろ?それで家に行ったんだ。そしたらそこで歩美ちゃんと鉢合わせして、すげー怒られた」
俊明は享が話しかけてくれたのが嬉しかったのか、少しだけ表情を和らげて、どこか困った口調で言った。
「享がおかしくなったって。泣いて泣いてどうしようもないって。俺はやりすぎだってさ。それで、おまえに連絡するなって言われたんだ。五年間、連絡するなって。それで五年たってもまだ俺がおまえを好きで、おまえが俺を許す気になってたらもう一度会わせてあげるって。ただ、その間に享が別に好きな人ができたら諦めろって、言われて」
「…歩美が」
そんなことがあったのか。
確かに歩美がどこかおかしかったのかは知っている。享の傷に触れないように、それでも俊明との傷が癒えているかどうかをやんわりと確認するような歩美の言動を思い出す。
『お兄ちゃんはもう平気よね』
子供だと思っていたけれど、歩美は成長していて、兄を気遣うことができるようになっていたのだ。
「すげー女だよ。ホント、おまえの妹でよかったって思ったよ、でなきゃ今頃おまえを獲られてた」
俊明はそう言って、髪を掻き上げた。
「五年経って、おまえがまだ誰とも付き合っていないって歩美ちゃんが判断して、それでやっと昨日、会わせてもらった。本当はもっと優しいこと、言いたかったんだ。けど、俺の口から出るのは前と全然変わりなくて、おまえはどんどん沈んでいくし、そのくせ、その顔は妙に色っぽくて、俺と離れている間、おまえは何人と寝たんだろうって想像するだけで嫉妬してさ。極めつけはあの男だろ?…思わず俺、おまえとあの男の後タクシーで追っかけて、マンションの外で黙って見てた。…ああ、やっぱりおまえはもう誰かのものなんだなあって。…すげー、やだった。俺が悪いんだけど、でも嫌だった」
俊明はじっと睨むように享を見た。
「…俺はおまえが好きだ。五年、ずっとおまえのことだけ思ってた。おまえのこと考えて、泣きそうになりながら、けどこれも仕方ないって思った。一番大事にしなきゃなんないやつのこと、傷つけたんだから、我慢しようって。もしおまえが好きなやつ、見つけたとしてもしょうがないって。俺が悪いんだからって。けどな、一番不安だったのは、歩美ちゃんに連絡するたびにおまえが長い付き合いをできずに一夜限りでおしまいにしてるってことを聞くことだ。綺麗で初で、どっか怖々抱かれてた享がそんなになってるなんて、どれだけ傷つけたんだろうって…」
「…俊明」
確かに俊明とのことが原因で恋愛ができずにいた。欲望を解消するためだけに体を重ねる行為はただ気持ちを疲弊させるだけで、自慰行為よりもひどかった。
「虫のいい話なのは分かってる、けど、俺はおまえが好きなんだ、もう一度、やり直したい」
俊明の言葉に享は目を閉じた。
昨夜の飯塚の言葉が思い出される。
『放っておけばあなたは自分しか知らない宝石でいてくれるから。惚れた男の我が儘、というところでしょう』
「俊明」
「……」
享が名を呼ぶと、俊明は神妙な顔を享に向けた。まるで裁判官の前の容疑者のようだ。
有罪か、無罪か。
――――好きか、嫌いか。
俊明は黙って享の言葉を待っていた。
享はその俊明に深呼吸をすると、ゆっくりとした口調で言った。
「明日、仕事帰りに服を買いにいくから付き合えよ」
「…は?」
だが、その俊明に享が告げた言葉は意外なものだったらしく、この男にしては珍しい間抜け面を晒していた。その顔に享は柔らかく微笑みながら言葉を繋ぐ。
「靴も欲しいし、この髪型も直したい。全部、おまえがちゃんとコーディネートしろよ」
「…享、それ…」
俊明の混乱した顔なんて、今まで一度も見られなかった。その顔を今見て思うのは、可愛いという恋情だ。
「で、ちゃんと格好良く、センスよく仕上がったら俺が五年間、ずっと思ってた、誰に抱かれても思ってた、おまえへの気持ち、言ってやるよ。…五年前から変わらない、おまえへの気持ちを」
「…享…」
これでは答えを言っているようではないかと、享は思いながら、そう告げた。
その享に俊明は見たこともない、子供のような掛け値なしの笑顔を向けた。
「…愛してる、享」
そして、五年前言ってはもらえなかった。けれどずっと変わらない、愛の言葉で享を包んだ。
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