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「お世話になりました」

 翌日目覚めると、享はそう飯塚に挨拶して、彼の部屋を後にした。

「一緒に出勤すればいいのに」

 飯塚はそう言ってくれたが、一度自宅に戻りたかった享は飯塚の申し出を辞退して、早朝に彼の部屋を出た。

「…寒いな…」

 朝の冷気がコートを着ていても冷たく突き刺さってくる。頬が痛いほど寒いのに、享は手に息を吹きかけた。

「享」

 その時だった。幾分強張ってはいるが、耳障りのいい掠れた声が享を呼んだ。

「…俊明」

 俊明だった。いつからそこにいたのか、俊明は享の前に立っていた。

「なんで、おまえ、ここに…」

「あの男んとこ、泊まったのかよ」

「……」

 体を重ねはしなかったが、泊まったことには変わりない。俊明の責める口調に思わず享は後ろめたくなってしまい、思わず口ごもった。

「…あいつがおまえの新しい男か」

「…違う」

 けれど、今の言葉には反論しなければならなかった。確かに飯塚は享に好意をもって接してはくれているが、雇い主と従業員という立場を越えてはいない。

「そんなんじゃない」

「じゃあ、なんで一晩も出てこないんだよ」

 吐き捨てるような俊明の言葉。その言葉に享は驚いて俊明を見た。

「一晩って、おまえ…」

「……っ」

 失言をしたと俊明は眉間に皺を寄せ、視線を下に流した。その俊明の様子に享は彼がここで一晩、部屋から出てこない享を思いながら夜を明かしたことを知った。

 この寒空の下、コートの前をかきあわせて、彼は何を思ってマンションを見上げていたのだろう。

「…俊明、おまえ…」

「だって、おまえは俺のじゃねぇか。それにな、あんな男がおまえみたいなだっせーの、相手になんかすっかよ。そんな物好き俺くらいだ。どうせ、遊ばれてんだからさ、あんなの放って俺んとこ戻れよ。俺くらいなんだから、おまえみたいなださくってみっとめねーの、相手にしてくれんのはよ」

「……」

 俊明の辛辣な言葉が胸に突き刺さる。いつもこんなひどい言葉で詰られていた。そして、享が哀しくて悔しくて涙をのむのを、毎回俊明はせせら笑ってみるのだ。

「…もう、いい」

 けれど、もう我慢できなかった。あの頃はそれでも我慢していたのだ。慣れというものもあったのだろう。毎度ひどい言葉を投げかけられ、ひどい扱いを受けていれば自然と慣れる。だが、もうそんな生活を捨てて五年も経っている。五年の間に平穏な生活を手に入れた享には俊明のひどい言葉を受け入れることができなくなっていた。

「我慢してくれる必要はないから。俺、もう誰かと付き合うこと、考えてないから。確かに俺みたいなみっともないやつ、相手にする人が可哀想だから。だから、俊明も俺に構わなくていいよ。平気、俺は歩美が成長していくのを見ているのが幸せなんだ」

「そ、そんなの」

 俊明の声がわずかに震えていた。その震えを都合良くとってしまいそうな自分を享は必死で戒める。この程度の演技を俊明ができないはずがないから。

「歩美ちゃんだっていずれは結婚するんだ。結婚して、他の男のものになる。おまえなんかいらなくなるんだぞ、おまえがそうやって見ているのが鬱陶しくなるに決まってる」

「…そうだな」

 なら、そうなったらなったでいいと、俊明の言葉に享は思った。歩美も享の存在を鬱陶しいと感じるようになったなら、その時は静かに消えればいいのだ。遠くで思う分には構わないだろうから。

「そうなったらなったでいい。俺はもう誰かに何かを欲しがることをやめたんだ。俺には分不相応だということをおまえがよく教えてくれたからな、ちゃんと学んだよ、俊明」

「……」

 その享の言葉に俊明はなぜか呆然と目を見開いた。目の奥に後悔という色を見つけて、今度は享が驚く番だった。

 どうしてそんな目をするのだろう。

 胸の中に期待がこみ上げてくる。もしかしたらと何度も思った言葉が胸にこみ上げて。

「享、俺は…」

「……」

 だが、延ばされた手を反射的に享は振り払ってしまった。

 傷つけられると、そう思ったのだ。

「……」

 これ以上傷つけられたら、間違いなく心が壊れる。享は慌てて走り出すと、ちょうど通りかかったタクシーを止め、慌てて乗り込んだ。

「…享!」

 俊明の自分を呼ぶ声が聞こえたけれど、享は耳を両手で塞ぎ、身を縮めた。

 もう、期待をするのも、傷つくのも嫌だった。

 嫌いと何度も復唱した想いが嘘だということをもう自覚したくなかったから。

 どんな相手が目の前に現れても、どんなに甘い言葉を囁かれても享の心が動かなかった理由は簡単なところにあった。

 あの辛辣で優しさのかけらもない男を享はまだ愛していたのだ。











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