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「およしなさい。無抵抗の人間になんてことを」
穏やかな口調、けれど逆らうことをよしとしない強い言葉に享はゆっくりと首を向けた。
「…飯塚さん」
「やっぱり坂崎さんでしたか」
相手は飯塚だった。飯塚は穏やかな微笑を浮かべていたが、すっと俊明に目を向けると、きつく言い切った。
「この人はわたしの会社の大事な従業員です、まだ乱暴をしようというならこの腕、へし折りますよ」
「乱暴なんざして…、うあっ」
飯塚が俊明の腕をきつく握るのが分かった。俊明は低く唸るような声を上げて、享から手を離した。
「…飯塚さん」
「……」
飯塚は冷静な目で俊明を一瞥すると、享に視線を向けた。
「…もう、妹さんとのお食事は終わったんですか?」
「あ、はい」
これほど強い眼差しを持つ人だっただろうか。
きつい眼差しと心の奥まで見とおすような目の色に享はぼんやりと飯塚を見た。
「じゃあ、今からお暇でしたら、飲みにいきませんか?妹さんは先に帰したんですか?」
「あ、いや、友達とカラオケにいくと言って…」
飯塚は完全に俊明の存在を意識の外にやっている。ここまで俊明の存在を無視する人をはじめて享は見たと思った。
「じゃあ、行きましょう」
「あ、はい」
俊明から何とか逃れたかった享は飯塚の誘いに頷いた。だが、その享の手を俊明が掴んだ。
「享!」
「……」
だが、その手を享は思いきりよく振り払った。
「…もう、俺に構うな」
「……」
瞬間、なぜか俊明が傷ついたと思った。
いつものあの、俊明の自意識過剰ともいえるほどの自信家の目が暗く沈んで見えたのだ。
「…と…」
「行きましょう、坂崎さん」
享が思わず俊明を呼びかけたのを、飯塚が享の手を引いてとめた。
「あ…」
「向こうに車が止めてあるんですよ、行きましょう」
「…あ…」
俯いてしまった俊明が気にかかる。けれど、享は俊明よりも飯塚を選んで歩き出した。
「強引でしたね」
飯塚がそう言葉を紡いだのは、車を走らせてしばらく経ってからだった。
「…いえ…」
「そうですか?」
享がぼそりと呟いたのに、飯塚は運転席側の窓を開けると、タバコをくわえた。
「…タバコ、吸うんですね」
「…ええ。嫌いですか?」
「いえ…」
火の灯ったタバコに享は小さく息をした。タバコの香りが車中に漂ってくる。その匂いに俊明を消すことができると思った。
俊明はタバコを嫌い、吸わないどころか周りにも吸うなと強要する。そして、それを友人間だけではなく、偶然い合わせた他人にまで強要し、ケンカになることもしばしばあった。そのために享は出向く場所にかなり気をつかっていた。俊明が連れていってくれた場所でも禁煙であるかどうかをかなり気にしなければならなかった。
その俊明の前では嗅ぐことのできなかったタバコの香り。それを嗅ぐだけで俊明から離れられた気がした。
「なんだか、気が抜けてしまいました…」
「そうですか」
飯塚はタバコを中ほどまで吸ったところで、火を消した。
「…わたしの自宅に行ってもいいですか?」
「…え?」
驚いた享に飯塚は穏やかに微笑んだ。
「…家に帰りたくないと見えましたから。わたしの自宅で飲みませんか?そのまま、泊まっていかれてもいいですし。気遣う家族もわたしにはいない、一人暮らしの部屋ですから気楽ですよ」
「……」
確かに帰りたくないと思った。帰ればきっと歩美は俊明とどうしたんだと聞いてくるだろう。今日は俊明の名前を聞きたくなかったのだ。
「…そうですね」
享は小さく頷いた。
「飯塚さんがいいとおっしゃってくださるなら、お邪魔、したいです」
「…わたしが誘っているんですよ」
飯塚は享の言葉に苦笑すると、車を高速に乗せた。
やがて、車は郊外のマンションの駐車場へと滑りこんだ。
「どうぞ」
車をとめた飯塚はロックを外すと、享に降りるよう促した。
「あ、はい」
享は飯塚の言葉に車を降り、続いて降りた彼に従ってマンションへと入った。
「…いいマンションですね」
「ありがとうございます」
享の飾り気のない誉め言葉に飯塚はにっこり笑って頷いた。
「どうぞ」
「あ、はい」
飯塚に案内された部屋は八階の見晴らしのいい角部屋だった。
一人暮らしには広いと思える部屋に享はきょろきょろと見まわしながら、飯塚に促されるまま中に入った。
「広い、ですね」
「まあ、場所が場所ですからね。市内では無理な広さですけど、ここまで離れてしまうとこれくらいは何とかなりますよ」
「そうですか?…俺の部屋なんか市内からかなり距離ありますけど、2DKできゅうきゅうですよ」
「…坂崎さんは妹さんも一緒ですからね」
飯塚はいい訳のようにそんなことを言って、キッチンから酒を持ってきた。
「どうぞ、座って。ええっと、ビールと日本酒、どっちがいいですか?」
「あ、ビールで」
そう飲める方ではない享はとりあえずとそう言って、飯塚からグラスを受け取った。
「じゃあ、わたしもそうしましょう」
飯塚は享にビールを注ぐと、自分のグラスにも注いだ。
「じゃあ、乾杯」
「…乾杯」
飯塚は享の正面に座ると、グラスを掲げた。その仕草に慌てて享もグラスを上げた。
飯塚は一口でグラスの半分を開けると、享を見てにっこりと笑った。
「さっきの男は坂崎さんの知り合いですか?」
「…あ、はい…」
聞かれることは覚悟していた。享はグラスを握り締めて頷いた。
「普通の関係には見えなかったのですけど。…言いたくなければいいのですよ、言わなくても」
「……」
飯塚の変わらない穏やかな口調に享は話したいと思った。
誰かに聞いてもらいたくて仕方がなかったのだ。
本当は誰かに聞いてもらって泣きたかった。
「…以前、付き合っていた人です」
「…男性、でしたよね、さっきの人」
飯塚の言葉が胸に刺さる。女性を恋愛対象にする、普通一般の男性からすれば異常なことだろう。
気を思わず許して口にしたが、相手が自分の雇用主だということを今更思い出して、享はぎくりとした。
これでもし性癖を理由に首でもいわれたらと、ふっと背筋が凍った。
「ああ、緊張しないでください。わたしはそれでどうこう言える立場ではありませんから」
享が考えたことを飯塚は悟ったのだろう。困った顔をして、享に言葉をかけた。
「実はわたしも男性しか恋愛対象にできないんですよ」
「…え…」
思わず驚いて飯塚を見ると、彼はいつもの穏やかな笑顔で享を見ていた。
「坂崎さんを見ていて、もしやそうかなと思っていたんです。さっきのやりとりでやっぱりって思ったんですけどね。…だから、何を言われても驚きませんし、わたしにとっては当たり前の世界ですから」
「…飯塚さん」
享が思わず吹き出すように笑ったのに、飯塚は笑みを深めた。
なんだか、一気にホッとしてしまった。
「…俺、いつも考えが浅いんで、なんかやばかったかなって思って…」
「そうでしょうか。坂崎さんはきちんと考えて行動している、他人を傷つけることを気にするとても優しい人ですよ」
飯塚はそう言って、ビールを飲み干すと、もうひとつ持ってきていたグラスに日本酒を注いだ。
「さっきの人とは別れたって本当ですか?」
「…ええ」
飯塚の問いに享はビールがぬるくなることもかまわずにグラスを抱え込んでうなずいた。
「…好き、だったんですけどね。けど、あいつ、浮気癖がすごくて、そのくせ独占欲とかもすごくて、なんか疲れて、別れてしまったんですよ。…俺が男しか好きになれないってことを最初に見破った相手だったから、それからずるずるいってしまったのがまずかったんでしょうけど…」
「…坂崎さん」
飯塚はグラスを持ったまま、享の隣に移動してきた。
「今もあの男性のこと、好きですか?」
「…いえ」
あっさりと答えた。答えられるようになったからだ。
そう、何度も心の中で、口で言い募った言葉だからだ。
『もう、俊明を好きではない』
「…けれど、引きずってはいますよね」
「…そうですね」
敏い人だなと享は苦笑して、飯塚に頷いた。
「確かに最初に付き合った人ですから。…長く、とは言いませんけど、深い付き合いだったとは思います」
「そうでしょうね」
飯塚は微笑をたたえたまま、享の髪を撫でた。
「正直なところを言わせていただきますね。…わたしは坂崎さんに惹かれています」
「…え…」
驚く享に飯塚はやっぱりと困った顔をした。
「気付いてなかったですよね。あの、今日のお誘いも前から考えていたことなんですよ。そのほかにも色々お誘いしていたんですけど、やっぱり意識してなかったんですね」
「…あ、そう、なんですか」
飯塚のことをいい上司だとしか思っていなかった享には寝耳に水だった。どう返事していいのか分からなくて、享がぼんやりと飯塚を見ていると、彼は困った顔のまま、髪をかきあげた。
「あなたは自分のことをわかっていない。わたしにしたら、あなたの気持ちよりも、さっきの彼の気持ちの方が分かりやすいですよ」
「…え、あの、それは…」
飯塚は柔らかく微笑むと、享の顔を覗き込んだ。
「あなたは自分の容貌のことをどう思っていますか?」
「…え…」
飯塚の言葉に享は俊明の言葉を思い出す。
『そのリーマン丸出しのリクルートに、趣味の悪いネクタイ。まんまだな』
「…僕は趣味がよくないと、センスが悪いとそう言われていましたけど…。スタイルもよく、ないし…」
身長はきりよく一七〇センチで止まってしまった。最近では低い方に入ってしまう身長に、神経質な性格が災いして痩せぎすの体、自信がないためにどうしても猫背になってしまう。どこからどうみても不恰好極まりなくて、その上センスもよくなかった。
「それを誰に言われたんです?」
「…あ、さっきの男に…」
「そう…」
飯塚は享の言葉に小さく頷いた。
「けれど、そんなあなたの身なりを彼は直そうとはしなかったんですね。そんな不恰好なあなたを連れまわしておいて。ねえ、デートに行ったとき、洋服を買ってもらったりはしなかったですか?」
「…あ、いや、学生、でしたし…」
だが、確かに言われてみればおかしいなと享は思った。
俊明は学生ながら、親が花屋のチェーン店を展開している大きな企業の社長で、そのため、遊ぶ金に不自由していない、かなり金銭面では恵まれている男だった。
浮気相手に服を買ってやったということを聞いたこともある。けれど、享にはそういうプレゼントをしたことがなく、誕生日の時もただ食事を奢ってもらっただけで終わっていた。
「…確かにもらったこと、ないです」
「その上、あなたが洋服を買いに行く、という時にもついてきたことがない、と」
「あ、はい、その通りです」
どうして分かるのだと享が不思議そうに飯塚をうかがうと、彼はなんだか奇妙な表情をしていた。
「…ああ、やっぱり、わたしは彼の気持ちの方がよく分かります」
「…飯塚さん」
不思議そうな享の視線に飯塚はふうとため息をついた。
「あなたはきっと自分に向けられる視線ひとつひとつの意味も分かっていないのでしょうね。…確かにその鈍感さは責められるでしょう」
「…あの、俺…」
飯塚が答えを持っている。
享は瞬間思った。なぜ俊明があれほど執拗に享を詰り、そのくせ手元から離そうとしなかったのか、その理由を飯塚は知っていると。
「…たとえば」
飯塚はグラスをテーブルに置き、享を眺めながらぼそりと呟いた。
「あなたのその髪型。伸びすぎている前髪を切って、後ろももう少しラフに切りそろえて、ムースでセットしてみる。それからスーツを…そうですね、ヴァレンチあたりの細身のものにして、Yシャツも白ではなくてカラーものにかえる。そして、靴ももう少し洒落たものに変えて…。うん、なかなかよくなりそうですよ。坂崎さんは磨けば光るんです。ただ、あなたはそれを無頓着で知らないだけ。その上自分を過小評価する癖がついている。たぶん、性癖のせいではないかと思いますけどね」
「…飯塚さん」
飯塚のいうとおりの自分を想像してみようとして、享は失敗した。そんな格好を今までしたこともなかったから、想像できないのだ。戸惑っている享に飯塚は微笑した。
「まあ、そう身構えることはないですよ。あなたは今まで妹さんを守り、日々の暮らしを平穏無事に生きていくことにだけ意識が向きすぎて、自分自身に無頓着でありすぎた。そして、そんなあなたの性格に彼はつけ込んだんでしょう。放っておけばあなたは自分しか知らない宝石でいてくれるから。惚れた男の我が儘、というところでしょう。わたしだってそうなりかねない」
「……」
飯塚はそっと享の頬に手をやると、目を細めた。
「とにかく今日はこちらに泊まっていってください。ちゃんと客間もありますから、別に同衾しろとはいいませんからね。着替えもわたしのものでよければお使いください」
「あ、でも、俺は…」
別に飯塚に身の危険を感じたわけではない。ただ、そこまで迷惑をかけていいのだろうかという戸惑いが享にあって、言葉を濁した。
「…坂崎さん」
その享の戸惑いを飯塚はやんわりと押し止めた。
「あなたはもう少し他人に甘えることを知った方がいい。それから、嫌なことをされたら泣いて怒っていいんですよ。誰もそれを止める権利はありませんから。我慢しすぎてはいけません。ね、ほら、お風呂に入って、疲れをとっていらっしゃい」
「……」
ね、と優しく促されて、享はのろのろと立ち上がった。
「じゃあ、一晩、お世話になります」
「はい」
こくんと頷いてみせた飯塚に従って、享はバスルームに向かった。
その享には分からないようにと警戒しながら、飯塚は窓のブラインドの隙間から下を見下ろした。
「…本当に、不器用」
そこに飯塚は何を見つけたのか。彼は何も語らぬまま、ブラインドを元に戻し、享のために寝間着を用意しに部屋に向かった。
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