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「五年か?おまえ、五年たっても変わらないんだなあ。勤めに出てるって聞いて、想像したままの姿だ。そのリーマン丸出しのリクルートに、趣味の悪いネクタイ。まんまだな」

「……」

 最初は笑えていた言葉も別れようと思った頃には笑えなくなっていた。

 軽口も過ぎれば刺になると、思わないのだろうか。

「お兄ちゃん」

 享の様子がおかしいことに歩美が気付いて恐る恐る声をかけた。

 その歩美に享は微笑んだ。彼女に心配をかけても仕方のないことだ。

 きっと、俊明を歩美が呼んだのだろう。昨日の電話でそういう流れになってしまったのだ。ここで享が嫌な顔をし続けていれば、歩美が気まずい思いをする。

「…注文、しよう?食べたいもの、決まったなら、ウェイター、呼んで」

「あ、うん」

 享のいつもと変わらない笑顔に歩美は安心したのか、タイミングよく近づいてきたウェイターに注文をした。

「…あ、っと俊明さんは?」

「俺はBでいいよ」

「ん、じゃあ、Bコースも」

 歩美が注文するのを享はじっと見つめていたが、その享を俊明が見ているのに気づいて身を硬くした。

 射すような視線はあまり俊明から感じたものではない。いつも飄々としていて、何に対しても当然という顔をしていた。独占欲も嫉妬も自分一人のものにして、それを享が感じてみせると、せせら笑うような顔をした。

 享に人間らしい反応をまるで期待していないというかのような俊明の対応はいつも享を傷つけてばかりいた。

「…あ、歩美、これ、プレゼントだから」

 考えていても仕方がないと、享はカバンの中から綺麗にラッピングされた小さな紙袋を取り出した。

「え、うわあ、ありがとう」

「いや…」

 歩美はその紙袋を受け取って、嬉しそうに笑った。その顔に享はやっとほっとしたように肩の力を抜いた。

「開けていい?」

「ああ。どうぞ」

 元々歩美が好きなブランドの化粧品だ、気に入りこそすれ、嫌われることはないだろうと、享は歩美の手元をじっと見ていた。

「あ、うわ、これ、新作だよね」

「ああ、それでいいんだろう?」

「うん!」

 思っていたとおりの歩美の反応。喜んでくれている妹の微笑に享は水を一口飲んだ。

「享にしてはいいチョイスじゃん」

 その歩美の手元を俊明も見て、笑う。だが、その言葉に享はかすかに緊張した。

 いつもこの後の言葉に享は傷つけられていたからだ。

 そして、その緊張はやはり真実を示していた。

「けど、相変わらず無難さを抜けられないんだよな。なんかその辺、相変わらずつまんねーの」

「……」

 俊明の言葉は相も変わらず的確で鋭く、痛い。享はまた膿み始める傷に唇を噛んだ。

「…俺は…」

「俊明さん」

 享が何か口答えをしようと必死で口を開くのに、横から歩美が俊明を呼んだ。

「あのねえ、お兄ちゃんにそんなふうにつっかかるんだったら帰ってよー」

 むすっと頬を膨らませて、いかにも怒っているという顔を作った歩美に俊明はおかしそうに笑った。

「あはは、ごめん、歩美ちゃん。けどさ、享のやつ、全然変わってないから、ついさー」

「ついでもよくないの」

 歩美がむすっとしたまま、俊明の腕をつくのを、享は黙ってみていた。

 やがて、料理が持ってこられる。いい匂いのする、それなりに美味い料理だったはずなのだが、あまり喉を通らなかった。

「ホント、歩美ちゃん、可愛くなったなあ」

「可愛い、じゃなくって、綺麗、でしょ」

「あはは、そっかそっか」

 歩美の甘えた口調と声、それを甘やかす俊明の掠れた声。

 端から見ればどんな構図に見えているのだろうと、享は思って沈んだ。

 兄の欲目以上に歩美は可愛い。どうしてもずれてしまう享と違って、歩美は身につけているものの趣味もよく、顔立ちもいい。大きな目と人好きのする柔らかな笑顔が印象的な少女だった。

 そして、俊明はといえば、先ほどから店内の女性の目をかすかに引いているところを見れば一目瞭然だろう。身のこなしは雑で荒っぽいのだが、それがひどく似合う。掠れた声がとても色っぽくも聞こえる。

 そんな二人に気後れするのは当然だろう。

 享は何もかも平凡すぎるくらい平凡だと自分を評価していたから。

「…お兄ちゃん、お腹、空いてないの?」

 皿があまり減っていない享に歩美が心配そうに声をかけた。その歩美に享は薄く笑って首を振る。

「…ああ、出がけに会社で少しお菓子をつまんだりしていたから…」

 まるっきり嘘だが、そうでも言わなければ歩美が納得しない。歩美は享の嘘に騙されたようで、そうと呟いて自分の料理を片づけ始めた。その姿にほっとしていると、くっくと押し殺した笑いが聞こえた。

「おまえ、本当に間が悪いよな。今日、食事に行くことくらい、分かっていただろ。その辺、やっぱだっせぇ」

「……」

 俊明の相変わらずの物言い。乱暴に傷を抉られて、享は苦しげに息をついた。たまらなく苦しい。どうしてここにいるだと怒鳴って、追い払いたい気持ちにもなる。けれど、歩美がここに呼んだのだから、それもできない。今日は歩美の誕生日なのだから、彼女の気持ちを大事にしてやりたかった。

 それに、こんなことは前から言われ慣れていたではないか。誰が目の前にいても、俊明は享の欠点をあげつらい、それをひどく詰って責めていたのだから。けれど、5年経って、その苦行に享が耐えられなくなっていたらしい。

「…そう、だな。確かに間抜けだ…」

 ぽつんと呟いて、享は入らないと思いながら、それでも料理を口に運んだ。

 享が食べ始めると、俊明は攻撃対象がなくなったことに退屈したのか、自分も食べながら、今度は歩美と話し始めた。

 胸が痛む、食べる端から吐きたくなる。その衝動を抑えながら、必死で享は食べ物を口に押し込めた。

「ごちそうさまー」

 まさに享にとっては苦行と思えた食事がようやく終わった。歩美が嬉しそうにそういって、お腹いっぱいだと享に笑顔を向けるのに、享はそれに頷きを返した。

「じゃあ、帰ろうか」

「うん」

 享が促して席を立つ。テーブルに挿してあった伝票を掴んで、足早に店のレジへと向かった。

「合計で一六八〇〇円になります」

「はい」

 俊明がいたせいで、痛い出費になったが、享はそれをすべて現金で支払った。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「いや、よかったな」

「うん」

 店の外に出ると、嬉しそうに歩美が言って笑いかけられる。その笑顔に享も肩の力を抜いた。その享にさてと、と歩美が言う。

「わたし、これから友達のとこに行くから」

「え?」

 驚く享に歩美は軽く頷いた。

「んっとね、今日、カラオケに誘われてたの。お兄ちゃんとご飯した後に行くっていっておいたから、もう行くね」

「え、あ、歩美っ」

 もう遅いのだからと止めようとしたが、そんな兄の性格を重々承知している歩美は颯爽と車道へと駆け寄ると、そこにタイミングよくきたタクシーに乗り込んで行ってしまった。

「あいつ…」

 たまに本当に血が繋がっているのだろうかと、思いたくなるほど、歩美は奔放だ。享はそんな妹の一面に憧れさえ持っていたから、止めるに止められず、苦笑を浮かべたまま見送った。

「おー、相変わらずだな、享のお姫様は」

「……」

 その享の背に掠れた声がかかる。思わず緊張した享に俊明は後ろから抱きすくめるように抱きついてきて、享の胸ポケットに一万円札を突っ込んだ。

「おい、これっ」

「さっきの食事代ー」

「…けど」

 あの店の料理はコースでもかなり手頃で、一人一万もしなかった。多すぎると、享が返そうとするのを俊明は押し止めた。

「いいんだよ、歩美ちゃんの飯代だ。まともなプレゼントを用意できていなかったからさ」

「…あ、あれは俺が…」

 享自身が歩美の誕生日だからと奢ったものだ。それを俊明に出されては元も子もない。

 享が必死で言うのに、俊明は軽く笑った。

「相変わらず真面目だなあ。面白みのねぇやつ。ありがとうってもらっときゃいいじゃん、何意地になってんだよ。おまえ、可笑しすぎー」

「…っ…」

 確かに真面目すぎて面白くないと言われている。真面目が取り柄なんて、今時はやりもしない。けれど、元々の性分なのだ。それを今更詰ってどうしたいのだろう。

 享が黙り込むと、俊明はにやっと笑いながら、享の肩を抱き寄せた。

「なあ、どうせこの後暇なんだろ?ちょっと付き合えよ」

「……」

 どうしてこうもこの男は図々しいのだろう。

 こうやって誘って、また享を傷つけて、どこがどう楽しいのだろうか。

 いつも俊明といると傷ついてばかりだった。苦しくて痛くて、辛くて、いつも一人で泣いていた。

 責めることができたらよかったのだけれど、この恋愛に関しては享よりも上手の男は享の非難など簡単にかわしてなかったことにされた。最後には抱き寄せられ、キスを受け、この腕に強く抱かれれば、享の口からはもう俊明を欲する言葉しかでなかった。

 いつもいつも苦しかった。好きだと思えば思うほど、辛かった。

「…おまえとは別れたはずだ」

「…はあ?」

 享がそれでも絞り出すように言うと、俊明は呆れた声を上げた。

「何、それ。俺、そんなのいいって言ってねぇぞ。勝手に決めてんじゃねぇよ。別れる?ハッ、馬鹿いってんじゃねぇよ。おまえが俺と別れるって?」

 享は呆れたような口調の中に不意に怒りを滲ませた。

「…おまえが俺と別れられるはずねぇんだよ、だっておまえ、俺が好きだろ?俺しかいらないって言ってたじゃないか。それを俺と別れるなんて、そんな冗談、笑えねぇって。おまえ、冗談もだっせぇぞ」

「…冗談なんかじゃない」

 俊明の顔を見ながら、享は遠いなと思った。

 焦がれていた分、彼の言葉はいつも痛かった。

 まして、俊明は享を抱きはしても、一度も好きだと言ったことはなかった。

 抱かれている間、その体の相性だけ褒められることはあったなと享は不意に思いだして寂しくなった。

 結局その程度だったのだ。

「それに、俺はおまえを好きでもなんでもない」

「…は…」

 俊明の驚いた顔、というのを初めて見たと思った。意地悪く、いつも細められている目が丸く開くのをぼんやり見ながら、享は俊明にくり返した。

「あの頃はどうだったか知らないが、俺はおまえのことを今じゃ好きとか嫌いとか、そういう目でも見られない。おまえはもう俺にとってはいない人間なんだよ」

「…嘘だろ」

 享の言葉に俊明の見開かれていた目がやがて剣呑と細められた。

 殴られるかも知れないなと、享はぼんやり思って俊明を見た。

「…享、おまえ…」

「……」

 胸ぐらを掴まれた。ああ、殴られると思った瞬間、その俊明の腕を誰かが掴んだ。











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