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 翌日、享はいつもどおり、会社での業務をこなしていた。従業員は享を含めてたった5人の会計事務所で、その事務所で享は会計士としての仕事以外に事務処理のすべてを引き受けていた。

「坂崎さん」

「あ、はい」

 呼ばれて顔を上げる。享の視線の前に事務所の社長である、飯塚が目に入る。

「今日、お暇ですか?」

 従業員である享にも丁寧な言葉で話す飯塚は、おっとりとした雰囲気で、見かけどおり優しい人だ。小さな事務所でもあり、あまり給料は高くはないが、この飯塚の人柄に惹かれて就職を決めた。彼の個人事務所のようなところもあるから、かなり融通が聞くところもいい。

「今日、ですか」

 残業でも言われるのだろうかと、享が身構えた瞬間、飯塚が困った顔をした。

「あの、仕事ではないんですけどね」

「…あ、そうなんですか」

 じゃあなんだろうと思っていると、飯塚はひょいと享にチケットをかざした。

「舞台のチケットがね、余っているんですけど、今日一緒にいかがかと思いまして」

「…あ…」

 飯塚が見せたチケットは享が以前からみたいと思っていた舞台のものだ。思わず気持ちが動いたが、約束を思い出して、享は飯塚に申し訳なさそうに首を振った。

「すみません、今日は妹の誕生日で、食事を一緒にする約束をしているんです」

「ああ、そうなんですか」

「飯塚さん、タイミング悪かったですね」

 残念そうな飯塚に同僚の安田が笑う。その安田に飯塚がそうですねと笑い返した。

「妹さんがお相手では勝ち目がありませんね、また今度余裕を持ってお誘いすることにしましょう。それでどちらにお食事に?」

「妹のリクエストでできたばかりのレストランに。やはりああいう流行のところがいいようですね」

「そうなんですか。けれど、本当に仲がいいんですね、妹さんと」

 穏やかに言われ、享は微笑んで頷いた。

 両親がなくなってから、享にとって歩美は何より優先しなければならないものになってきた。

 つまらなくないかと友人に言われたりもしたが、歩美がいるということが享には何よりの支えだったから、苦でも何でもなかった。

「じゃあ、そろそろあがらせていただいてもいいですか?約束があるので」

「ええ、どうぞ」

 定時とされている六時を五分ほど過ぎている。いつもは六時三十分くらいにあがっているのだが、今日は食事の約束を七時にしているために早めに出たかった。

 その享の気持ちが分かったのか、飯塚は軽く首を縦に振った。

「お疲れ様でした」

「あ、はい、じゃあ、お先に失礼します」

 事務所にいた飯塚と安田に送られて、享は外に出た。

 外は少し肌寒く、享はあわててコートの前を合わせた。

「さてと…」

 プレゼントはいらないと歩美は言っていたが、そういうわけにはいかないだろう。何かアクセサリーか化粧品でも買ってやろうかと思いつつ、事務所近くのデパートに入った。

 適当に物色すること、三十分。歩美が好んで手にしている化粧品の新作というルージュを手に入れて、享は慌てて待ち合わせの店に向かった。

「歩美」

「あ、お兄ちゃん」

 レストランの前で歩美はぼんやりと立っていたが、享の姿を見つけると、嬉しそうに微笑んで手を上げた。

「待ったか?」

「ううん、そうでもない。さ、入ろう」

「ああ」

 歩美に手を引かれ、享は店の中に入った。店の中は上々の繁盛振りだった。雑誌に掲載されたことで来客が増えたのだろう。皆、ああいうメディアには乗せられやすいものなんだなと、乗せられた人間の中に自分も入っていることを自覚しつつも享はそんなことを考えていた。

「あの、予約しておいた坂崎ですけど」

「…はい、どうぞ、こちらへ」

 二人に気付いてやってきたウェイターに歩美が言うと、彼はこちらへと先に立って案内した。

 店の中央の席、4人掛けのテーブルに案内される。

「予約、しておいたんだな」

 席につき、店員が去ったのを見て、享が言うと、歩美は少し呆れた顔をした。

「当たり前じゃない。こういうお店は予約しておかないと、だめなんだから」

「…そうなのか」

 こういった洒落た店にくることがほとんどない享。歩美の呆れた顔に困った顔をした。

 そういえばと思う。

 俊明と付き合っていた頃はこういった洒落た店によく連れてきてもらっていた。

 あの男はこういう情報に聡く、ファッションも出かける場所も洒落ていた。

 その度に享は気後ればかりしていて。

『おまえはほんっとーにだっせーな』

 笑って言われる言葉に笑い返していたものの、胸の奥でゆっくりとそんな言葉が傷を作って膿んでいっていた。

「うんと、どうしよう、食事」

「そうだな…」

 ウェイターが置いていったメニューを広げて見る。どうしても金額に目がいってしまうのは仕方がないだろう。とはいえ、思っていたよりも安い価格に内心享はほっとして、歩美を見た。

「好きなもの、頼めよ」

「うん。えっと、じゃあ、このレディースコースっていうのにしようっと」

「じゃあ、俺はAコースにでも…」

「おまえはBのがいいんじゃないのか?」

 不意に降ってきた言葉に享は瞬間、凍った。

「あ、遅かったねー。仕事?」

「ああ、帰り間際に呼び止められてさ、俺もついてねーよなあ」

 聞きなれた声、もう随分聞いていなかったけれど、それでも耳から離れてくれなかった声。昨日久しぶりに聞いて、まだ胸が痛むのを感じて苦しかった。

「はい、歩美ちゃん、プレゼント」

「あ、ありがとう」

 ひょいと享の目の前を花束が横切った。真紅の薔薇を基調にした、豪華だが可憐に見える花束だった。

「享のやつじゃあ、こういう洒落たプレゼントもできねーだろうからな。俺が代わりに」

「あはは、でもお兄ちゃんもちゃんとプレゼント、用意してくれてるもの」

「……」

 歩美の声にようやく顔を上げた。その視線の中に自然と見たくなかった男の顔まで目に入った。

「…よう、久しぶりだな、享」

「……」

 変わってはいなかった。にやっと人の悪い笑みも、その切れ長の目も、軽薄そうに薄い唇も。

 享が焦がれたままの姿で俊明がそこにいた。











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