「ハッピーバースデー」
 五年間、かかされたことのない、日付が変わると同時にかかってくる、バースデーコール。
 ここまで言えば、さぞや仲のいいカップルのように聞こえるだろう。けれど、かけてくるのが五年前に別れた恋人からで、しかもそのバースデーコールの相手が自分ではなく、家族宛だとしたなら、それはとても複雑な電話になるだろう。
 享はふうとひとつため息をつくと、その相手にぼそっと漏らした。
「…毎回言うが、相手を確認してからそういうことは言えよ」
『あれ?』
 享の苦言に相手の気まずそうな、それでいて楽しそうな声が零れた。
 その耳障りのいい声に、この声が好きでつきあい始めたようなものだったなと、享は思った。
 電話の相手である、伊倉俊明は享が自分の性癖を自覚してから、最初に付き合った相手だった。
 そして、享が同性しか愛せないことを最初に見破られた相手だった。
「享、おまえ、男が好きなんだろ?」
 そう言われ、瞳の奥を覗かれたことを未だに忘れられない。そして、そのまま享は俊明のものになった。
 恋人として付き合っていると思っていたけれど、結局俊明にとって享はただの所有物でしかないということを享が悟って、別れたのだ。
 その俊明がこうして電話をかけてくるようになったのは別れてから数ヶ月がたったある日のことで、その時も第一声はこの『ハッピーバースデー』だった。
「…ちょっと待て、歩美に変わるから」
『んー、分かった』
 少しくらい、話をしようと言ってくれないだろうかと、瞬間思った切なさを無理矢理うち消して、享は電話の子機を掴むと、妹の歩美の部屋をノックした。
「…歩美」
「ん、なに、お兄ちゃん」
 顔を覗かせた妹に、享は電話を突きつける。
「俊明からだ。ハッピーバースデー、だと」
「あ、今年もかかってきたんだ。律儀だなあ、俊明さん」
「…そうだな」
 付き合っていた頃、一度も享との約束をまともに守ったことのなかった俊明。けれど、妹の歩美との約束だけは守っている。
 そう、このバースデーコールは享ではなく、妹の歩美宛なのだ。
 享と妹の歩美は両親を早くになくしているため、二人だけで肩を寄せ合って暮らしてきた。俊明とつきあい始めることで、自分の性癖と向かい合わなければならなくなった享は、妹の歩美に自分が同性しか好きになれないことを告白してあった。たった二人の家族である歩美には隠し事をしたくなかったのだ。
 けれど、その享の決死の告白は歩美にあっさりと知ってたよと受け入れられてしまった。
「だって、お兄ちゃんの部屋、アイドルのポスターとか全然ないんだもん。エロ本みたいなの、買ってるのも見たことないし。何となくそうだろうなあって思ってた」
 そして、付き合っている人がいるなら紹介しろと言われて、俊明と引き合わせたのだ。
 その後、享自身は俊明と別れたが、歩美は俊明と馬があったらしく、今もこうして連絡を取り合っているらしい。
「あ、俊明さん?うん、歩美ー。元気?…そう。あ、そうそう、まだ彼氏できないんだよ。…うん、そうなの」
 楽しげな歩美の声に享はふうとため息をひとつつくと、ドアを閉めて居間に戻った。
 早く眠らなければ明日の仕事に差し障ると思ってはいるものの、一度覚めた頭はそうもいかないらしい。
 覚醒しきった頭に享はため息をくり返した。
 お茶でも飲もうかと、冷蔵庫からペットボトルを取りだして、茶をグラスに注いだ。
「…いい加減にしないと…」
 もう別れて五年だ。なのに、最初の男が振り切れない。
 一夜限りの関係ならば結べるのに、それ以降の付き合いができない。享を気に入って、付き合ってほしいと真剣に申し込んでくれた人もいるのに、頷くことができなかった。
 俊明がまだ好きなのかと聞かれれば、そうではないと即答できる。そうできるように何度も自分の中で反芻もしたからだ。
 けれど、彼と付き合うことでできた傷がまだ膿んでいた。
 別れる原因になったのは俊明の浮気癖だった。
 享の性癖を見破り、そのまま享を自分のものにしたというのに、俊明は享だけのものではなかった。浮気現場にでくわしたこともあるし、浮気相手とおぼしき相手に別れを迫られたこともある。そのたびに享は悔しい想いを何度もした。
 俊明自身は独占欲が強く、享の付き合いを制限するのだが、自分自身は奔放であろうとする。アンバランスな関係だった。
 いつも不条理に泣くのは享で、俊明はそんなことをかまいもせずに自由に振る舞っていた。
 あの日も、そんな関係の延長にあったのだろう。
 その日、享は俊明に呼ばれて彼の家に向かった。一人暮らしの俊明の部屋の鍵を享は預かっていて、それを使って中に入ったのだ。
 そして、そこで見たのは女性を組み敷く俊明の姿だった。
 俊明が女性も相手できることは知っていた。彼自身からも聞かされていたし、食事の最中に以前付き合っていたという女性が声をかけてきたこともあるからだ。だが、こんなふうに突きつけられるとは思いもしなかった。
 所詮同性では籍も入れられず、子供を持つこともできない。俊明に女性の影がちらつくたびに、女性相手では勝ち目がないなと享は考えていたというのに、それを本当に目の前に突きつけられた。
 享が入ってきたことに、女性は驚き、慌てて乱れた服を整えようとしたが、出ていく気配はなかった。おまえが出ていけという顔を女性にされて、慌てて享は外に飛び出したのだ。
 あの時、俊明が追ってきてくれていたなら、話は違っていたかも知れない。だが、俊明は追ってきてもくれず、翌日、享が呼び出してやっと話ができたという状況だった。
「昨日のあれはいったい何?」
 震えを必死で隠して、享が言えば、なぜか俊明は嬉しそうな顔で享の顔を覗き込んだ。
「え、なに、享が嫉妬してくれてんの?なあ、それって嫉妬、だよな」
 胸が裂かれそうに痛いというのに、俊明はへらへらと笑って享の顔を覗き込んできて、享はなんだかいたたまれなくなってしまった。
 哀しくて悔しくて、絶望だけを抱えて、昨日部屋で泣いたというのに、俊明はなんとも思っていなかったということか。
 享はもうこれが限界だとその時思ったのだ。
 こんなことが何度もこの後にあったとするなら、間違いなく自分は壊れてしまうと思ったのだ。だから、最後の勇気を振り絞ったのだ。
「もう、別れよう。俺、もうおまえと付き合えない」
 今まで言えなかった言葉をようやく口にして、享は立ち去ろうとした。俊明もきっとそんな享をあっさり解放すると思っていたのだが。
「なんでだよ」
 立ち上がろうとした享の腕を俊明がきつく掴んで離してくれない。じっと享を見る目は熱すぎて、思わず享は目を反らした。
「おまえ、俺のモノだろ?勝手なこと言うなよ」
「……」
 ――――モノ。
 結局最後の最後まで所有物でしかなかったらしい。
 享は俊明の腕を必死で解くと、逃げるように俊明の前から去った。
 その後、部屋が手狭になったから、とか、ちょうど大学卒業、就職ということで職場に近いところに越したいから、と理由をつけて、貯金のほとんどを使って今の部屋に移ったのだ。
 前の部屋は俊明が知っていたから、彼の知らない場所に移りたかったのだ。
 だが、それも言い訳。別れを切り出して、引っ越すまでに一ヶ月はあったというのに、俊明からは何も連絡がなかった。けれど、それを引っ越したから連絡先を知らない、という理由をつけてしまいたかったのだ。
 そうやって、俊明の存在を無理にでも自分の中から追い出そうと必死になって、やっとのことで薄れてきたなと思ったある日、今日のような電話がかかってきたのだ。
「ハッピーバースデー」
 最初、何のことか分からなかった。
 俊明自身の誕生日はまだだったし、第一俊明が越して変更した自宅の電話番号をなぜ知っているのだと思った。
 結局、その日が歩美の誕生日で、享と別れても歩美とは連絡を取っていた俊明が、自宅の電話番号を歩美から教えられていただけだったのだ。
 歩美を責めたい気持ちはあったが、交友関係にまで口を出してはいけないと、自身の痛みを堪えて黙認した。
 それに俊明からの電話は普段、歩美の携帯か、享のいない時間帯にかかってきているらしく、滅多に享がその電話を取ることがなかったからだ。
 そう、あの十二時きっかりにかかってくる電話以外、今まで享がその電話に出たことはなかった。
「…お兄ちゃん」
 物思いに耽っていると、歩美がひょこっと顔を出した。
「…あ、電話、終わったのか?」
「うん。ごめんね、起こしたんじゃない?」
 歩美の気遣いに享は首を振った。
「いや、大丈夫。…それよりおまえも明日、大学早いんだろう、早く寝ろよ」
「うん、寝るよ」
 そう応えながら、歩美は冷蔵庫から享と同じようにペットボトルを取りだした。
「お兄ちゃんさ」
「ん?」
「もう、誰かと付き合うこと、しないの?」
「……」
 相変わらず直球だなと、性格が享とは全く逆の歩美のはっきりした口調に、思わず享は苦笑いした。
「…しない、とは言わないよ。やっぱり人並みに恋愛はしたいから。ただ、俺の場合、そう簡単に相手が見つかるわけでもないからな」
「…ふーん、そっか。大変だねー」
「まあな」
 同性が恋愛対象、そのくせゲイの集まる店やパーティーに顔を出すことにどうしても後込みしてしまう享に、なかなか相手が見つかりづらいのは本当の話だった。
 まして、一夜だけではなく、付き合っていくとなればなかなか出会える話でもない。
 享はそこまで考えて、グラスの茶を飲み干した。
「…ああ、そうだ、おまえ、誕生日だろ、何か欲しいものとかあるなら買ってやるけど」
「あ、ならさ」
 歩美は嬉しそうに笑ってあのねと、テーブルに置きっぱなしにしておいた雑誌を開いて、その記事を見せた。
 その記事に書かれていたのは、つい最近できたばかりのイタリアンの店だった。洒落た内装と、美味そうな料理が載せられている。
「ここ、このお店につれてってよ。プレゼントはいいから、御飯、奢って」
「……」
 生活費の全部を享が見ているのだから、奢っても何もないのだが、歩美は目をきらきらさせて享の返事を待っている。
 その歩美がやはり可愛くて、享は苦笑いを零しながら、こくんと頷いた。
「分かった。じゃあ、明日は歩美のために奮発しよう」
「やった!」
 歩美は享の返事に飛び上がらんばかりに悦ぶと、ぎゅっとその首に飛びついた。
「ありがとうー、じゃあ、明日は精一杯おしゃれしてね。歩美のエスコート、してよ」
「ああ、分かった」
 もう二十才になろうというのに、こんな甘えたがりでいいのだろうかと思ったが、これでも外に出ればしっかりしているのだ。うちで兄にだけ見せる甘えだというなら、それもいいだろう。
 その歩美を可愛く思いながら、享は先ほどの電話を忘れようと思った。
 これでまた一年、あの男の声を聞くこともなくなる。歩美とは変わらず連絡をとり続けるのだろうけれど、その間に享が入ることはないのだから。
「じゃあ、寝るぞ」
「うん、わたしも寝るね」
 享はグラスを洗って食器乾燥機の中に放り込むと、歩美におやすみと言って、自室に戻った。
 ベッドに横になって、目を閉じる。
「ハッピーバースデー」
 楽しげで、嬉しそうな声。
 また一年、あの声が聞けないのだと、どこかで苦く思いながら、享は目を閉じた。
 夢の中でさえ、聞こえる声に耳を塞ぎながら。











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