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だが、その伊織に角田の言葉が冷水を浴びせた。
がたんと椅子をならして体を強ばらせた伊織は思わず律を睨み付けた。
「…律、それ…」
「…あ、いや、違う、俺は…」
伊織の険しい声とは裏腹に律の言葉は濁って聞こえない。
言いよどむ律にまただという想いがこみ上げた。
また、最後なのか。約束を交わしても、結局伊織に律は何も言ってはくれない。
「お母様が心配してたわよ。律がちゃんと手続きを一人でできるのかって。一緒にいくっていったのに、結局一人で行ってしまったからって。書類で分からないことがあったらちゃんと相談なさいね」
「…はい」
角田はにこにこと、律に話しかけ、その角田に律は伊織を気にしながらも、答えているのがなんだかいたたまれなくなってきて、伊織は椅子から立ち上がり、ピアノの前に座ると、思いつくままにピアノを弾き始めた。
いらいらする。約束しても裏切られる。律自身から何でも話すと約束しておきながら、結局こんな大事なことを言ってはくれなかった。
永住、となれば本気でドイツを拠点にするのだろう。
今と大して何も変わらない気もする。日本人なのに、日本には帰らず、留学したドイツを拠点に活動していた律。
何も変わらない。そう、何も変わらないのに。
まるで細い糸のように繋がっていた律との関係が本当に切れてしまうのだと、強く感じた。
「…伊織、ピアノが泣いてる」
「……」
公哉が伊織の後ろでそう囁いたけれど、構わず伊織は弾き続けた。
やがて、角田が懇親会の終了を口にするまで伊織はピアノの前から離れなかった。
「…本当に大丈夫なの?」
おかげで半端でなく痛んでしまった指をぎゅっと握っている伊織に、玄関先まで見送りにきた角田が心配そうな顔をした。
「大丈夫です」
「そう?あんなに長く弾いているから。止めればよかったのだけれど、心地よくて止めることを忘れてしまっていたのよ。本当にごめんなさい」
「…そういっていただけたら、痛めたかいもあります」
「もう、伊織は…」
彼女の方がよほど痛そうに顔をしかめ、角田は心配そうに伊織を見つめた。
「律は明日もくるのよね」
「はい、明日も伺います」
「じゃあ、待っているわ」
律が明日の来訪も約束すれば、角田はホッとしたように笑った。
「律だけじゃなくて、公哉も伊織もまた時間があいたら遊びにきてちょうだい。今月末には発表会もあるの。その時には律も弾いてくれると言ってくれているしね」
この間、律が言っていたのは今月末のことだったのか。
伊織はあまり行きたくないなと思いつつも、角田に無用の心配をかけるのがいやで、軽く頷いた。
「じゃあ、行こう、律、伊織」
公哉は殊更伊織を気遣って、伊織の隣に立つと、二人を促して角田邸を後にした。
「…律、さっきの永住の話、本当なのか?」
駅まで帰る道すがら、不意に公哉が律に問いかけた。
「俺は…」
「…いいじゃないか」
だが、答えようとした律に伊織はその言葉を遮って口を開いた。
「律は自分で自分のことを決める。俺…俺たちに何かいう必要を感じてないってことだろ」
「伊織」
「だから、それでいいじゃないか」
そう思うしかないのだと、伊織は公哉の言葉を押さえて首を振った。
「…俺はそれでいいと思うから」
「伊織」
痛む指をぎゅっと掴みながら、伊織は首を振り、それから二人に微笑みかけた。
「俺、理恵子と約束があるから、このまま行くよ。…じゃあな」
「あ、おい、伊織」
走り去りながら、律の呼び止める声がないことにショックを受けている自分がばからしくて、少し泣けた。
言い訳らしい言い訳をしない律。
『誰よりも一番最初におまえのことを話してくれるなら、聞くよ』
伊織の言葉に頷いておきながら、律は結局口を閉ざした。
怒るよりも悲しくて、律にとっての自分は伊織にとっての律ほど重要ではなかったのだと思い知った。
「…もう、やだよ、俺…」
伊織はぽつんと呟くと、早く理恵子に会いたいと、待ち合わせの駅へと足を進めた。
角田の家の最寄り駅から、待ち合わせの駅は同じ沿線上にある。電車に乗ってしまえばすぐの距離だというのに、気はひどく急いていた。
「…まだ、来てないかな…」
約束した時間より1時間も早い。きっとまだ来ていないと思ったけれど、律と一緒にいるよりは理恵子を待っている方がいいと、駅につくと、伊織は券売機の側に立ってぼんやりと改札を眺めていた。
「…伊織!」
そこに、約束よりも早く理恵子がやってきた。
一瞬嬉しそうな顔をしたが、やがてひどく悲しそうな顔をして伊織へと駆け寄った。
「何か、あったの?」
「……」
理恵子の優しい声に伊織は思わず彼女に抱きついた。
「…なんか、疲れた…」
「……」
本当にそれしかなかった。
何かが胸の奥でくすぶっているのに、表に出す方法を失ってしまっていて、どうしていいのか分からなかった。心が疲弊してたまらなくて、足下から崩れ落ちそうだった。
「…伊織」
「…うん」
「今日ね、家族も旅行でいなくて、明日にしか帰ってこないの。だから、帰りを気にしなくていいんだけど、どこかに泊まる?一晩くらい、話、聞くよ?」
「……」
優しい理恵子。
彼女といれば本当に誰よりも幸せになれるだろう。
なのに、いつもどこかで律を引きずっている。
「…うん、行こう」
「分かった」
理恵子は頷くと、駅前からタクシーに乗って、あるホテルへと向かった。
「ここね、社員割引がきくんだよ」
ホテルにつくと、理恵子は社員証をカウンターで見せて、ツインの部屋を取ってくれた。
「…本当に伊織は疲れてるんだね」
「そうか?」
「うん、目の下にくまができてる」
理恵子は部屋に向かう間、ずっと伊織の手を離さなかった。
その手のぬくもりに心が少しずつ癒えてくる気がする。
律のものとは違う、小さくて柔らかい理恵子の優しい手。律の手はもっと大きくて力強く、理恵子とは違い、伊織から何かを奪い去る手だった。
それでもあの手を望んでいたのに。
「お風呂、ゆっくり入っていらっしゃいよ。これ、お土産に買ってきたんだけど、使って」
部屋に入ると、理恵子は伊織の手に入浴剤を握らせると、風呂へと押しやった。
その理恵子の優しさに感謝して、伊織は言われるまま風呂を張りながら、服を脱ぎ、風呂に入った。
「…ふう…」
狭いユニットバスだったが、理恵子の優しさを感じて、とても心地よかった。
理恵子は本当に優しい。伊織に何も聞かず、包み込んでくれる。
彼女だけ見ていればいい。
そうすれば、傷つくこともないのだ。
なのに、伊織の心はどこかで律を求めている。
過去の亡霊と公哉は言ったけれど、過去になんて全くなっていない。伊織にとって、律は今も昔も『今』でしかなくて、どれほど時が流れていても律を過去になんてできそうになかった。
「…初恋…」
確かにそうだけれど、そんなに甘いものではない気がする。
公哉が律を伊織の元に連れてきた理由。それはその初恋を綺麗に終わらせるためだったと言っていた。
親友のお節介だけれど、確かに話せる場所を作ってもらえたのだから、話しておしまいにしてしまえばいいのだ、本当に。
それでも、そうしないのはたぶん。
「…俺って…」
これではいけない。
あんなにも優しく包み込んでくれている理恵子を裏切ることにもなるから。
なのに、律を振り切ることもできなくて。
残酷なことをしている。
告白してきた律に、告白をなかったことにしてしまった。
自分なら耐えられないと思う。だめならだめと、言ってほしいと思うのが当然なのに、そのことを伊織は口にもせず、代わりに律の口を塞いだ。
「……」
目を閉じて、伊織は律の顔を思い出した。
笑った顔があまり思い出せず、思い出そうとすると、どうしても昔の顔になってしまう。日本に帰ってきてから、律はずっと伊織の前では苦悶しか見せていなかった。
「……」
伊織は風呂から出ると、備え付けのバスローブを着て、外に出た。
風呂につかっていても、ただ律のことばかり思い浮かんで、よけいに自分を苦しめてしまっていた。
「…理恵子」
「…あ、伊織」
理恵子は携帯電話をいじっていたようだが、伊織の姿を見つけると、携帯を手放し、髪が濡れたままの伊織に苦笑した。
「風邪、ひくわよ、こんなんじゃ」
「ん、ごめん」
理恵子は伊織をベッドに座らせると、タオルで優しく髪の水気を拭った。
その手つきにほうっと伊織はため息をついた。
「疲れてるね、本当に」
「…ん、そうだな。…旅行、楽しかった?」
確かに疲れているけれど、理恵子の手のおかげで癒えてきている。
目を閉じながら、伊織は理恵子に問いかけた。
「楽しかったよー。同期でね、えっと三浦さんって分かる?彼女と一緒に行ったけど、楽しかった。研修はすっごくしんどかったけど、昨日と今日と、ずっと遊んで発散したよ」
「そう。大阪の男にくっついていったりしてない?」
「してないよ、伊織ほどかっこいい子、いなかったし」
「いたら、くっついていったのかよ」
伊織がくすくすと笑って言えば、理恵子はそんなことあるわけないでしょと笑った。
「伊織に会いたくて、予定より早く帰ってきたのに。そしたら、こんな顔、してるし」
「…うん…」
確かに久しぶりに会う彼氏としてはこんな元気のない顔を見せるものではないだろう。伊織が口ごもると、理恵子は微笑んだ。
「わたしの前でしんどいってところ、見せるのはいくらでも見せていいの。けれどね、本当にしんどいなら、少しは休んで。伊織は頑張りすぎる気がする。…もっと楽に考えていいのよ」
そう、囁いて、理恵子は伊織を後ろから抱きしめた。
「わたしは伊織の味方だから。いつだって伊織の味方でいること忘れないで。ね、分かってて」
「…理恵子…」
理恵子の優しい声にぽつんと涙と共に言葉が零れた。
「…言ってくれないんだ…」
言ってほしかった。
そう、言ってほしかったんだ、本当は。
律に永住の話が出ているならその話を伊織にしてほしかった。
あの時のように、律のことが知らないところで進んでいることがすごく悲しかったのだ。
律のことを一番知っているのは自分だと、思いたかったのだ。
「…俺の気持ちは通じない…」
「伊織…」
理恵子の手が伊織の髪を滑る。
甘く優しく撫でられて、伊織は理恵子の腕に縋って泣いた。
子供じみた独占欲だけれど、過去に満たされなかった想いが今もまだ伊織を苛んでいる。
怖くて、悲しくて、暗闇に取り残されている想いに囚われたままだ。
初恋と公哉が言った、この想いはそんな甘い響きを放って、伊織をがんじがらめにしてしまっている。
「わたしといればいい」
その伊織に理恵子は囁いた。
「わたしは伊織を傷つけないよ。だから、わたしのことだけ考えておいて。わたしは伊織の味方だから」
「……」
甘い囁きが伊織の中に染みてくる。
理恵子の優しい腕と言葉に包まれて、伊織は救いを求めて目を閉じ、体の強ばりを解いた。
ただ、ひどく寂しかった。
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2007.7.8
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