10
次の日、伊織は会社に行く理恵子を見送って、そのままホテルにチェックアウト時間ぎりぎりまでいた。
その後、マンションに戻るべきだったのだが、律に会うのがいやで、大学にも行かず、町をぶらついて、その後頃合いを見てバーに顔を出した。
「ご苦労様、伊織くん」
「昨日はありがとうございました」
昨日、懇親会があるからとバイトを休ませてもらった。そのことに礼をいうと、藤堂は笑って首を振った。
「いいえ。また何かあれば休みを取ってくださいね。律くんが帰ってきているというのに、どこにもお連れしていないんでしょう。今度休んでどこか、案内したらどうですか?」
「…公哉が連れていきますよ」
律の名前に伊織は思わず俯いて、藤堂からのそれ以上の追求を逃れようと、手伝いますと市倉に声をかけて離れた。
昨日、理恵子と一緒にいることで癒えた心がまたうずき出す。
どうして言ってくれなかったのだろうと、また疑問が浮かんでくる。
どんなに伊織が律を気にしても、律は伊織を気にしてはくれていないのだ。
そう、この指のことだって、律は尋ねてはこないのだから。
「えっと、グラスは…」
「そっちの棚に置いて。…あ、開店はまだなんですが」
その時、ドアが勢いよく開いた。客が開店を待たずに入ってきたのかと思って、市倉は声を上げたが、やがてああと呟いた。
「君、伊織くんの…」
その言葉にはっと伊織がドアの方を見ると、そこに律が立っていた。
「…伊織…」
「……」
律の目は真っ赤に充血し、その表情もどこか憔悴している。
もしや帰ってこない伊織を一晩中待っていたということだろうか。
律は伊織の名を呼ぶと、そのままずかずかと中に入ってきて、ぐいと伊織の腕を掴んだ。
「…伊織…」
じっと伊織の目を見る律。その目に伊織は体が竦んで動かない。
「伊織くん、律くん」
そこに藤堂がやってくると、二人の肩を叩いた。
「奥の事務所でお話してらっしゃい。…律くん、食事はされましたか?」
「…あ、いえ…」
律の言葉に藤堂は分かりましたと答えて、市倉に冷蔵庫の中のサンドウィッチを出してもらい、律の手に渡した。
「さあ、どうぞ、こちらでごゆっくり」
藤堂は伊織と律のためにコーヒーを淹れてくれ、事務所へと二人を案内した。
「伊織くん、店の方はまだ時間がありますから、律くんとちゃんとお話しなさい」
「……」
藤堂の声は有無を言わせない強いもので、事務所に二人きりにして彼は出て行った。
「…昨日」
律は藤堂のいうままにソファーに座ると、伊織をじっと見て口を開いた。
「どこにいたんだ?」
「…理恵子と一緒だったよ」
律の問いに伊織はごまかすこともおかしいかと、正直に答えた。
「彼女だからな、普通だろ?」
「…俺は…」
その伊織に律は苦しそうに呟いた。
「ずっと待ってたんだ」
「…そう」
「おまえに話したいことがあったから」
「……」
永住の件だろう。
言い訳をしようとでもしたのだろうか。あの時と同じように、すべてが終わった後で、伊織への説明をもうどうにもできなくなってからしようとしたのか。
伊織はその律の言葉に首を振った。
「…いいよ」
もう、何も気にしてくれなくていいと、強く思った。
「もう、いいんだよ。気にしなくて。おまえは俺に何でも一番に話すって約束したけど、その約束って、結局すごく小さなものだったのだろうからさ」
「…伊織」
「もう、いいから。気にしなくても」
「……」
律の息を飲む声が聞こえた。
伊織はその律に目を向けず、手をつけていないコーヒーが気になったが、店に戻ろうと、腰を上げた。
だが、その伊織を律が引き留めた。
「伊織!」
「…やめ…」
ぎゅっと腕を掴まれて、伊織は律の腕の中に引き寄せられた。
「なにやって…」
「…伊織…」
「…離せよ…っ」
瞬間感じたのは恐怖だった。
理恵子の腕はただ優しかった。とても優しくて甘くて、伊織はあの腕の中で安心して眠れた。大丈夫だよと、伊織の寂しさを理恵子はそっと包み込んで癒してくれた。
なのに、律の腕はその力で伊織にただ恐怖だけを与えた。
「…離せってば…っ」
「どうして、おまえは…」
「…律…」
なんとか腕をほどこうと、突っ張ったが、どうにもならない。
びくともしない律の腕に伊織はどうしたらいいのかと、パニックを起こしかけた。
「…俺が怖い、か…?」
がたがたとふるえ始めた伊織に律はそっと囁いた。
その声に伊織は律を見上げた。
「…律…」
「…けど、手放したくないんだ…」
「…っ…」
ぐっとさらに強く抱きしめられたと思うと、いきなり唇を奪われた。
「…ゃ…」
抵抗しようにも律の腕が伊織を抱きしめて離さない。
「…やめ…」
律は抵抗を続ける伊織に我慢できなくなったのか、伊織の頬を強く指で押して、無理矢理唇をねじ開けた。
「…ッ…!」
途端、入ってきたのは律の舌だった。
信じられないほどの巧みさで、律は伊織の口腔をまさぐり、舌を絡め取った。
「…ん…」
―――――怖い。
誰だろう、この男は。
律のことはよく分かっているつもりだった。
けれど、ここで、伊織を翻弄している律は伊織の知らない男で。
「…ッ…」
恐怖と絶望がこみ上げて、律は思わず涙をこぼした。
喉奥で嗚咽が漏れる。
こんな感情を律に抱いたことはなかった。
あの時、置いていかれた時ですら、ただ寂しくて悲しくて、自分という存在を否定されたようで辛かったけれど、今のように律が別人に思えたことはなかった。
怖いと、心の底から思った。
「…ぅ…っく…」
小さくこみ上げた嗚咽の声に、律の腕の力が不意にほどけた。
「…伊織…」
「……っく…」
律は声を漏らして泣き始めた伊織に驚いたように、そっと伊織を離した。
「…俺が、怖いのか…」
「……」
律の言葉に伊織は応えられず、ただ涙をこぼした。
5年の年月を強く感じたことは今ほどない。
この腕はあの時の少年のものではなく、今はもう5年たった青年のものだ。
「…ごめん、伊織…」
「…もう、いやだ…」
謝罪した律に思わず伊織は零した。
「…おまえに振り回されるの、もうやだ…」
押さえようとしても漏れてしまう嗚咽を零しながら、伊織は必死になって律を押しのけた。
「…あの時も、今も、いつも俺ばっかり振り回されて…、おまえのこと信じて、俺は馬鹿みたいに…」
「伊織…」
「…どうして今更俺の前に現れたんだよ…」
「……」
律の腕の拘束がほどけた。
その途端、伊織はその場にしゃがみ込んで、膝を抱えた。
「…伊織…」
「…もう、やだよ…」
いつも、伊織ばかりが振り回された。
伊織ばかりが律を気にして、けれど律は伊織を意識なんて全くしてなくて、いてもいなくても同じだと言わんばかりに振る舞って。
ピアノを捨てようとして捨てられなかった。この店でまた弾けるとなった時に、心は感動に躍った。
ピアノの先には律がいて、だから捨てたくても捨てられなかったのだと、思った。
伊織にとって、律は世界の中心だった。けれど、律にとって伊織は到底そうはなれなかったのだ。
「…俺のことはもう放っておいてくれよ…。もう部屋も出てけ…」
「……」
律は何か言おうとしていたようだが、やがて諦めたように呟いた。
「…分かった」
「…ッ…」
出ていけと言ったのは自分なのに、頷かれるとショックを受ける。
自分勝手だと思ったけれど、複雑な感情が伊織の中にあった。
「…荷物も今晩中に持って出る。ホテルに移るよ。おまえにも会わない」
だが、けど、と小さく律は呟いた。
「…公哉にもきてもらうから、角田ピアノ教室の発表会には来てくれ。…おまえに俺のピアノを聞いてほしいから」
そこまで言って、律はそっと伊織の前に足を折り、ひざまずいて告げた。
「…最後のお願いだから」
「……」
律はそれだけ告げると、伊織をその場に置いて出ていった。
「…う、ああああ」
ぱたんと音を立ててしまったドアに、伊織はたががはずれたように声を上げて泣き出した。
捨てられたと、律の腕を振り払ったのは伊織の方なのに、ただそれだけを強く思って。
「痛いよぅ…」
また痛み始めた右手を抱きかかえて、身を小さくすくめた。
「…律、…律…」
唇に残った律の感触が伊織をさらに苛んでいく。
開店準備が終わっても、まだ伊織はそこで泣き続けていた。
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2007.7.13
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