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 まだ間に合うと、その時伊織は思っていた。

 時間は3時だと、公哉から聞いて知っている。

 俺は見送りに行くけど、と言われた時、半ば意地になっていかないと答えてしまった。そのことをひどく後悔していた。

 けれど、まだこの時間なら間に合うはずなのだ。

 今日は律がドイツへと旅立つ日。

 自分にだけ告げてもらえなかったこと。

 皆知っていたのに、伊織だけ教えてもらえなかった。

 その律に裏切られたと思っていたが、それでも最後に一目律の姿を伊織は見たかった。

 もう会えないことを伊織は悟っていた。

 律のピアノはもうアマの域を超えている。留学して、向こうでさらにレッスンを受ければ世界に通用するピアニストになるのは目に見えて明らかだった。

 嬉しいはずの律の成功。輝かしい未来だけれど、その分、律が遠ざかることが悲しくて寂しかった。

 今のままなら桐原律という少年は伊織の友達というだけでおさまって、手が届かないと嘆く必要はない。

 本当は言わずにいてくれたことで助かった気もしていたのだ。

 けれど、一番でいたいという想いもあったのだ。

 伊織はぐずぐずしていても仕方がないと、財布をパンツのポケットにねじ込むと、自宅を出た。

 時間は1時半だ。ここから駅まで走っていけば空港で律の姿をほんの少しでも見ることができるはずなのだ。

 伊織は駅へと走りながら、律のことを思い出していた。

 小学生になったばかりの時に律に出会った。ピアノの思い出はそのまま律との思い出になる。

 ピアノしか知らなかった律に子供らしい遊びを教えたのは伊織だ。鬼ごっこすらしたことがないと言った律を鬼ごっこに誘い、それから秘密基地を作ったりもした。

 律はあの秘密基地を覚えているだろうか。

 空き地の片隅に段ボールと粗大ゴミから拾った傘で作った小さな小屋。雨が降っても大丈夫なようにと、どこで拾ったのか覚えていないが、大きなビニルシートをその上にかぶせて、二人で潜り込んだ。公哉も知らなかった場所で、二人だけの秘密だと言って笑った。

 あんな小さな頃から伊織は律を特別に感じていたのだ。

 綺麗で凛としていた律。ピアノを弾く姿にいつも見とれていた。

 本当に好きだった。

 友達百人と律一人だとしたらどっちを取るんだと、以前公哉に意地悪く問われたけれど、即答で律と答えて呆れられた。

 本当にそんなばからしい例えにも即答で答えられるほどに伊織は律に夢中だったのだ。

 一種の刷り込み、律の後を伊織はついて歩いていた。

 律にもそれは言えるらしく、公哉が律と伊織をさして刷り込みコンビだとよく笑っていた。

 公哉が中学を卒業すると同時に教室を辞めてしまい、そのためによけいに伊織は律にべったりになってしまった。

 だが、それも今日で終わりだ。

 伊織は足を速めて、必死で駅へと走った。

 もし叶うなら、せめて一瞬でも顔を合わせて、いってらっしゃいと、おめでとう、がんばれと言いたいと思った。

 そうすれば、あの日言った言葉も取り返しがつくかもしれないと、そう思ったのだ。

 だが。

「…え…」

 日頃、飛び出しの事故が多いと、気をつけなければいけないと強く思っていたというのに、その時の伊織は律へと意識が向いてしまっており、全く意識が向いていなかった。

 そう、見通しの悪い角から道へと飛び出した瞬間、そこにちょうど軽自動車がさしかかっていて。

「…ッ…!」

 瞬間、飛んだ、と思った時、伊織は目を覚ました。

「あ…」

 夢だった。

 だが、感じた恐怖はあの時と全く同じで、ばくばくと心臓の鳴る音に伊織は胸を押さえた。

「…はあはあ…」

 何度も息を吸い込み、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。

「…なんでこんな夢…」

 伊織は呟きながら、ベッドから起きあがった。

 そして、そのまま寝室を出て、キッチンへと水を飲みに行った。

「……」

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、水を口に含んだ。

「…あ、そうか…」

 不意に目に飛び込んできたカレンダーに今日が何日なのかを知って、伊織は夢の理由を悟った。

 律がゲストで出るといった発表会の日だった。

 あの日、伊織に言った通り、伊織が帰ると律はおらず、律の荷物もすべて持ち出されていた。渡しておいた鍵だけはそこになく、一瞬小さな希望を抱いたが、翌日、伊織がバーに行くと、藤堂に律から預かったと鍵を渡されてその希望も消えた。

 もう会うこともないのだろうかと思うと、ひどく切なくて。

 思わず律がいた部屋を見つめて、目を細めた。

 忘れられない人、誰よりも大切な人だけれど、もう手も届かない。

「…発表会、どうしよう…」

 行きたいとも思う。けれど、行けば何かが終わってしまいそうで足が竦んだ。

「…律…」

 あのキスはどんな意味があったのだろう。

 きついキスに目眩がした。けれど、心地よくもあった。

 思わず唇に指をやった時、玄関のチャイムが不意になった。

「…え、あ…」

 一瞬で我に返って、伊織は自分のやろうとしていたことに驚いて指を離して、慌てて玄関に向かった。

「はい、どちら」

「よう、伊織」

 公哉だった。肩に大きな花束を担いで、少しすました顔をして立っていた。

「おまえ、それ…」

「似合うだろ。まるで王子様だな、俺」

 ふんと鼻を鳴らして公哉はずかずかと部屋の中に入ってきた。

「発表会、聞きに行くんだろ?」

「……」

 思わず黙り込んでしまった伊織に公哉はふうとため息をついた。

「もう向こうには正輝さんや理恵子さんが行ってる。後はおまえだけだ」

「…理恵子や藤堂さんも?」

 なぜあの二人がと驚いた伊織に公哉は頷いた。

「律が呼んでくれって言ったからな。聞いてもらいたい音があるってさ」

「…律が」

「そう、律が。俺やおまえだけじゃなくて、あの二人にもな。律なりの感謝の気持ちなのかもしれないけど。俺としたら律のあまり聞かないわがままだし、叶えてやりたくて誘ったんだよ。二人とも気持ちよく招待に応じてくれたよ」

「……」

 公哉の言葉に伊織は俯いた。

 その伊織に公哉は目を細めた。

「…律がもうおまえには完全に嫌われただろうって言ってたよ。元々嫌われていたけど、もっと嫌われたって、悲しい顔で言ってた。…何をしたのか、とか、何があったのか、なんて聞かないけど、伊織、もう少し律をまともに見てやってくれないか」

「…まともって…」

 ちゃんと見ていたと言おうとして、伊織は失敗した。

 見ていたといえるのだろうかと思ったからだ。傷つけられた過去ばかり気にして、律の今を見ようとはしなかった。

 少ない言葉と言葉以上に語るピアノをもっと聞いて律を知るべきだったのか。

「…律もおまえも不器用だからなあ。で、なんで律がおまえにドイツ行き、言わないでいたのか、考えたか?」

「……」

 考えたが、悪いことしか思いつかなくて、思考を止めた。

 そのことを伊織が言えば、公哉ははあと大きくため息をついた。

「まったく、おまえってなんでそうなんだろうなあ」

「…え…?」

「とにかく、演奏会、行こうぜ。律がそれだけはおまえにきてほしいって言ってたから、俺は友達としておまえを演奏会に連れていかないといけないんだよ」

「…おまえ、俺の友達だろ」

「ばーか、律の友達でもあるんだよ」

 公哉がふんと鼻息も荒く言い切るのに、伊織はくすりと笑って立ち上がった。

 公哉の目が真剣みをおびえている。こんな目をした公哉を振り切ることはできない。まして公哉のことだから、マンションの下にタクシーを待たせているはずだ。

「どうせ、下にタクシー待たせてるんだろ」

「よく分かってるじゃない」

 にやっと笑う公哉に伊織は待っててくれと告げて、準備を始めた。

 洗面台で顔を洗いながら、意識が覚醒していく。

 公哉がきてくれたのは少しだけありがたかった。

 一人ではとてもじゃないがいけなかった。

 まして、あの夢を見た後だ。

 あの夢はただの夢ではなくて、実際律が留学するその朝に起こったこと。

 伊織に一目会いたいと見送りに行こうとして、焦るあまりに事故にあった。

 伊織は軽自動車に跳ね上げられたために気を失い、そのまま病院に搬送された。そこで、右手の人差し指と中指の複雑骨折、それから肋骨二本の損傷を診断された。

 さらに完治してなお、指の傷害は残り、ピアノの道は奪われてしまい。

 ――――律にも会えなかった。

 病院で目覚めた時はもう次の日で、伊織は病室のベッドで声を上げて泣いたことを覚えている。指が痛くて、胸が痛くて、それ以上にもう律に会えないのだという心の痛みに声も嗄れろと泣き続けた。

 悲しくて切ないだけの過去。

 伊織は公哉をリビングに待たせたまま、クローゼットの中からつい最近買ったばかりの服を取り出して身につけた。

 涼しげな浅黄の色を律は伊織に似合うとよく言ってくれていた。

「…公哉」

「ん、準備できたみたいだな。行くか」

 伊織が声をかけると、公哉は頷いて立ち上がった。

「…やっぱ伊織はそういう格好が生えるね」

「…そうか?」

 世辞なんて珍しいと伊織が笑うと、公哉は苦笑して首を振った。

「俺は俺の見目のよさをよく知ってるけど、おまえと律は全然分かってないんだからなあ。ま、いっけど」

 公哉は言うだけ言って、早く行こうと伊織を促した。

 マンションの一階に下りると、公哉が待たせておいたタクシーが止まっていた。

「じゃ、お願いします」

 二人揃って後部座席に座ると、公哉は行き先を告げて体を背にもたれさせた。

「…伊織」

「なんだ?」

「素直が一番だよ」

「……」

 公哉の言葉に伊織は俯く。その伊織に公哉は微笑んだ。

「俺はおまえたちに幸せになって欲しい。…俺にとってはおまえたちが一番で、他はどうでもいいんだ。フェミニスト気取ってはいるけどさ、本当は律が笑うなら、理恵子ちゃんが泣いてもいいって思ってる」

「公哉…」

 公哉の言葉に伊織は驚いて彼を見た。その目に公哉は悪戯っぽく笑った。

「知ってるか?俺の初恋は律なんだ、その次がおまえなんだよ、伊織。俺の一番優しくて甘いところにおまえたちの思い出があるんだ。だから、おまえたちには幸せであってほしい。誰が認めなくても俺は認めるから」

「…公哉…」

 伊織は公哉の言葉にぎゅっと膝の上で拳を作った。

 もう逃げないでおこう。

 この優しく強い、親友の言葉で動きだせると思うから。

 せめて、律のピアノを聞いて、あの日言えなかったおめでとうを今度は言って、律を送り出そうと思った。











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2007.7.22

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