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 幸也は必死で走っていた。

 父の話を聞いて、最初に幸也がしたのは家を飛び出すことだった。

 頭の中にあるのは罵詈雑言ばかりだ。

 あの男と、罵りたくなる。

 訳が分からない、混乱ばかりしてくる。

 けれど、一番強いのはどうしてという疑問。

 どうして、そんなことをしたのか、そして、言ったのか。

 いらぬ期待が胸の中に押し寄せる。

 こんな状況で、もしかしたらと期待してしまうのも仕方ないと思う。

 期待をするなという方が無理な話だ。

 幸也は上がる息も構わず、ここ数日で通い慣れたマンションの前に着くと、やっと覚えたオートロックを解除して、中に入り、最上階まで直通のエレベーターで上がった。

 そう、ここはカインのマンションだった。

 幸也の父の話に出てきたのは克己ではなく、カインだったのだ。

 克己じゃないのかと、言った幸也に父はああと頷いた。

「お前のクラスメートだと名乗ったよ。お前が出ていった次の日、酔っぱらって寝ているオレをチャイムで起こして、偉そうなオレにお前と同い年とは思えないくらい冷静な言葉で話してくれた」

 父の元に現われたその男は幸也を自宅に引き取っているということ、昨日の夜、倒れているところを拾って帰ったのだと言ったと。

「責められるのなら、抵抗できた。けれど、彼は仕方がないと言うんだよ。お前がオレに暴行を受けていても、それは仕方がないだろうと。そういうこともあるのだと、理解できると。あまりにも淡々としているから、余計に自分のやっていたことを思い知らされた。幸也は大丈夫かと聞けば、大丈夫だという。今日も朝から朝食を作っていたと言っていた。…そのことで気づいたよ、お前がどんなことがあっても、飯だけは作っていたこと。あいつもそうだったからな」

 母は前日にどんなに父に殴られても、蹴られても、食事の用意だけはしていた。いつか、父が立ち直ってくれることを願って、食事だけは不自由させなかったのだ。

 その母に倣っただけなのだ。

 食事を作って、朝父にそれを食べさせる、その時に昨晩のことを謝ってくれないだろうかと、そう願って作るのだ。

「その後、お前のバイト先につれていかれて、それから知り合いだっていう男に会わされて。その男、カウンセラーだったんだよ、後で聞かされた。…どうしてここまでするんだって聞いたんだ」

 そうしたら、こう答えたと。

「眠りながら泣く、そんな泣き方はもうさせたくない」

 初めてあの部屋に泊まった時、眠っている幸也の頬に感じた、優しい指の感触、それから。

『もう、泣くな』

 あれは夢ではなかったのか。

 そうなのか、なあ。

 ――――カイン。

「よし」

 幸也は鍵を返していなくてよかったと、そう思って、部屋の前に立っていた。

 表札なんて、無粋なものはない。大きな部屋、ここに彼はたった一人で住んでいる。

 孤独は幸也だって知っている。だが、カインほどの孤独はないだろう。

 生まれることを望まれず、人に疎まれ続けたカイン。宅間や八千代がいても、あの男は孤独だっただろう。

 だが、分かることが一つだけある。

 カインを産んだ人だけはカインが産まれることを本当に望んでいたのだということを。

「……」

 そっと大きな音を立てないように注意してドアを開ける。

 そして、慎重に中へと足を踏み入れた。

「…っ…」

 ドアを閉める時にだけ、少し音が立った。その音にびくりと身を竦めたが、中から誰かが飛び出してくることはなかったから、幸也は安心してカインがいるであろう場所へと向かった。

「……」

 カインは幸也がいた時と変わらず、リビングのソファーにこちらに背を向けて座っていた。

 癖のない髪の柔らかさを幸也は知っている。こちらに見えたカインの小さな頭に思った。

 どうか、拒まれないように、それだけを願って、近づいた。

 その時、何かがカインの側にいるのを感じた。

「……!」

 みゃあという可愛らしい声は猫のものだ。

 カインは猫を抱いているのだ。

 その姿にもしかしてと、幸也は思った。

 また、期待してしまう。

 猫、そう、猫と言えば。

『なあ、猫、飼ってやってくれないか?』

「あ…」

 思い出していた幸也の前にカインの手から離れて、猫が飛び出してきた。

 雨に濡れていたせいで、薄汚れていたが、そう、こういう茶虎の猫だった。

「待て、コウヤ!」

 その猫に向かって、カインが慌てて声をかけた。

 そして、振り向いた瞬間、幸也がそこにいるのに気づいて、驚いてその青みがかった目を見開いた。

「…コウヤ、ね」

 あの日のことを覚えていたのか、懐くように幸也にまとわりついてきた猫を抱き上げて、カインに近づいた。

「お前、こいつ、拾ってたんだな」

「…そんなこと…」

 カインは彼らしくなく、言い淀んだ。

 そのらしくない様子が嬉しい。動揺を自分が与えているのかと思うと、自分ばかりではないのだと、心地よかった。

 幸也はずっとカインに振り回され続けている、だから、少しくらいは振り回されてもらいたい。

「あんなふうに言ったくせにさ」

『そんなこと、オレに何の関係がある』

 冷たく言い放った言葉。なのに、この男は幸也が立ち去った後に、この猫を連れ戻ったのだ。

 冷たくなろうとしてなりきれない、そういう男なのだ。

「確かにお前はオレを拾ったくらいだもんな、こいつも拾うんだろうな。…で、オレがいる間、照れくさくて、こいつ、どっかに預けてたってところかな。宅間さんとこか?オレが帰ったから、連れ戻したってとこかよ」

「……お前は」

 カインが苦々しげに言うのに、幸也は猫を抱いたまま、カインの隣に座った。

「ありがとう、一宮」

 そして、猫をカインの膝に戻しながら言った。

「猫、拾ってくれて。それから、親父に話をしてくれて。…オレのこと、拾ってくれてさ」

「…橘」

「お前に呼ばれるの、やっぱ嬉しいな」

 カインの目が幸也を見る。その目にいい知れない感情が込められているのが、泣きそうなほど嬉しかった。

 この男がやっぱり好きだ。

 ――――期待を。

もしかしたら無駄かも知れないと、そう分かっている期待をしてしまうほどに。

「もっと、呼んでくれよ。…なあ、オレも呼ぶから、一宮」

「…カイン、だ」

 カインの口からそう声が零れた。

 甘えたような、切な響き。

 驚いて幸也がカインを見ると、カインは幸也をじっと見ていた。

 潤んだ目の中に、自分の姿が見えた。

「…カイン」

 そう、幸也が呼ぶと、カインは小さく微笑んだ。

 きっと、本当はこんな顔でいつも笑っていたいのだと、幸也は思った。

 この男の中の悲しみはそのまま優しさに繋がる。

 ひどい言葉も冷たい言葉も、そのままその先に気遣いや優しさが見えだした。

『でも、一宮くんは優しいし、橘くんに合うと思うよ』

 克己の言葉が思い出される。

 克己の目は確かだったのだ。

「…克己がさ、あんたがオレに合うっていうんだ。…あんたにも言ったみたいだけど、オレもそうならいいなって、思うよ」

そして、そっとカインの頬に触れた。

「あんたは優しい。あんたのお母さんがあんたを産んだ理由が分かる。あんたは母親に望まれて生まれた、優しい子なんだ」

「……」

 カインの綺麗に澄んだ目から涙が零れた。

「だから、あんたがオレに合うならいいなって思うよ。オレはあんたが好きなんだ。もう、出ていけなんて言うなよ。せめて、八千代さんが戻ってくるまでここにおいてくれよ…」

「……」

 カインの手が自分の頬に触れた幸也の手に重ねられる。

 体温の低いカインだが、今は暖かい。

 そうしているうちに、ゆっくりとカインの身体が幸也へと倒れてきた。

「…望んでも、いいのか?」

「……」

「父に疎まれ、母を殺したオレがお前を望んでもいいのか?」

「…お前は誰も殺してないよ。お前は望まれてここにいるんだろ、ならお前が何かを望んでもいいんじゃないのか?」

 カインの手が幸也の胸元に伸びると、まるで縋るようにぎゅっと幸也の服を掴んだ。

「お前が、欲しかった!」

 カインの声が幸也の心を掴む。

「最初は山瀬の話を聞いて、やかましい男もいるものだと思った。だが、あいつは聞きたくもないのに、お前の家庭環境を話す。父親から虐待を受けている、その上母は出ていっていないと。だが、それでも笑う、強い男だと。けれど、オレほどではないけれど、居場所のない男だから、誰かが居場所を作ってやってほしいと」

 その瞬間、克己の優しさを知る。

 幸也の話をどこか淡々と聞いていた克己。だから、幸也も平気な顔で父から受けていることを話せたのだ。だが、そうではなかったのだ。幸也の痛みを分かっていて、だからこそ幸也がせめて話だけでもできるようにと黙って聞いてくれていたのだ。

 そして、克己は幸也よりも先にカインを見つけた。

「オレならなれると言う。オレなら、お前の居場所にも、お前を居場所にすることもできると。だから、余計にオレはお前が怖かった」

「カイン」

 驚く幸也にカインは訴えた。

「お前に関われば、オレが期待するのが分かったからだ。期待して、裏切られるのはなれている、けれど」

 ――――お前にだけは。

 声にならない声が聞こえる。

 幸也はカインの身体をぎゅっと抱きしめた。

「オレがお前を欲しいんだから、だから大丈夫だから、カイン。…好きだ、オレを受け入れろよ」

「…お前」

「…名前、呼んでみな?そしたら、大丈夫だから。…カイン、オレはここにいる」

「……」

 カインの薄い唇が戦慄く。

 その様子をじっと幸也は見つめていた。

「…幸也」

「…うん」

 まるで奇跡。

 幸也はカインが自分の名を呼んだのに、小さく頷いた。

「ここに、いろ」

「いるよ」

 そして、泣きながら笑った。

 その幸也の顔にカインもつられたようにほっとした笑みを浮かべ、それから幸也の唇を柔らかく塞いだ。

 もう、苦しくはなかった。











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2008.10.18

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