18
幸也はスーパーの袋を下げて、すっかり慣れた調子で高級マンションの玄関をくぐった。
最初はこの玄関も慣れなかったし、ましてそこから直通のエレベーターに乗るなんて、そのたびにおどおどとしたものだ。
だが、今では慣れたもので、何も考えずに乗り込むことができる。
今、幸也の父はカウンセリングに通っている。週に何度かのカウンセリングだが、行くたびにどこか荷物を降ろしてきたような、すっきりとした顔になっていく。子供の頃、よく見ていた父の顔に近づいてきているような気がする。
母とも、先日、母の誕生日を祝うという名目で、久しぶりに三人で会った。
その時、初めて二人が本当には別れていないことを聞かされた。母は離婚届をおいて出て行ったのだが、父はそれを役所に出すことなく、持っていたのだという。
そのことを父はどこか恥ずかしそうに言い、母の様子を伺っていた。母もその父に穏やかに笑って見せていたから、まんざらでもないのだろう。
二人が元に戻ってくれるなら、それに越したことはない。そして、その日もそう遠くはないだろう。
そして、幸也は自宅に戻った。
それから、ここへは通ってきているのだ。
「ただいまー」
幸也はそう声をかけて中に入った。
すっかり通いなれたカインのマンション。
そこへ、幸也は八千代が全快するまでという当初の約束どおり、家事をしに通っていた。
あの高額なバイト代を幸也は最初、返すと言った。だが、カインはいらないと受け取らなかった。
せめて半分はと幸也は言い張ったが、そうすると、カインが黙って切なげに幸也を見るものだから、何も言えなくなった。
あの男は最近、自分の顔が使えるものと覚えたらしい。厄介なと思ったが、それくらいしぶとい方がいいと思った。
カインとはいろんな話をしている。
生まれてからのこと、会社を興した時のこと、そして、幸也に声をかけられた時、あんなふうになぜすげなくしたのかということも。
克己に話を聞き、幸也を気に留めるようになったカイン。そのうち、克己の話があながち彼の妄想ではないことが分かってきたのだという。
幸也はカインが求めているもの、そのものだったのだと。
「理屈ではない。ただ、お前を見て、そう悟った。お前に近づけば、確実にオレはお前をほしいと思うと。だが、思って報われるならいい、だが、そうでなかった時、オレにはこれ以上何かに耐えることはできないと知っていたから。だから、係わり合いになりたくなかった」
だが、惹かれる気持ちは止められず、幸也が拾ってくれと頼んだ猫を幸也がいなくなったのを見計らって拾って、あまつさえ、幸也の名をつけて飼ってみたり、マンションに帰る時には一目だけでも幸也を見れるようにと、必ず幸也の家の前を通るようにしていたのだという。
あの不遜な男の中身がまるで乙女のようだったなんてと、幸也は驚く反面おかしくもなったが、言わずに受け入れた。
嬉しかったのは本当だから。
幸也だって、カインの存在を知った時から惹かれていたのだろうから。
だから、拒まれたことが悔しかったのだ。
『でも、一宮くんは優しいし、橘くんに合うと思うよ』
不意に克己の声が響いた。
その通りかも知れない。
一緒にいることがこれほどしっくりくる相手もいないだろうから。
いつか、近いうちに克己には話したいと思った。
今の二人の関係を。
それから、カインを守ってきた、宅間と八千代にも。
笑顔で話せば分かってくれると、知っていた。
「カイン」
リビングに入ると、カインはソファーの上で猫を腹に乗せて眠っていた。
「こら、こんなとこで寝てると風邪引くぞ」
相変わらずカインの仕事は忙しい。学校にもあまり来られていない。
だから、ここにいる間だけはカインが安らげたらと幸也は思っていた。
「…幸也」
カインが呼ぶ、まだ慣れないその呼び名に幸也は頬を染めた。
「ほら、起きろ、カイン」
「……」
照れくさくて、少し偉そうに言うと、カインはその柳眉をあげて、幸也を見た。
「偉そうだな、召使いのくせに」
「…バーカ」
幸也は手に持っていた袋を床に降ろして、カインの顔を覗き込んだ。
「そう言うなら、様つけろ、オレはお前の召使い様だ、バーカ」
「……」
幸也の減らず口にカインはくっくと笑った。
「…分かった、召使い様」
「よろしい」
幸也は少しだけ気取ってそう言い、カインの唇にキスを落とした。
その幸也のキスをカインは最近見せるようになった微笑で受け止めた。
――――あの日、拾ったもの、拾われたもの。
それはきっとこの恋だったのかも知れない。
『手始めにベッドのメイキングを頼むぞ、橘』
『へいへい、分かりました、ご主人様』
君がここにいる、それが全てで、それが始まり。
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2008.10.18
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