懇親会のあるその日曜は朝からよく晴れていた。

 伊織は律と共に公哉と教室の最寄り駅で待ち合わせて、その足で懇親会の会場であるピアノ教室へと向かった。

「…うわ、変わらないなあ」

 久しぶりに訪れた角田の自宅でもある教室に、公哉がしみじみと言った。それは伊織も同じで、相変わらず大きな家だと思った。

「もう、懇親会は始まってるから、早く中へ入ろう」

 公哉が寝坊してきたおかげで約束の時間を1時間も遅れている。3時からと言われていたというのに、もう4時だ。一応遅れる旨は連絡済みだが、それでもここでぐずぐずしてさらに遅れてるわけにもいかない。

 律に促され、伊織と公哉は中に入った。

「遅くなりました。桐原です」

 インターフォンを押し、律がそう告げると、勢いよくドアが開いた。

「まあまあ、伊織に公哉、久しぶりね!」

 幾分頭に白いものが混じり始めているようだが、角田は伊織の記憶のままだった。ふっくらとした優しげな容貌、笑うと目がなくなってしまうところもあの頃のままだ。

「ご無沙汰しておりました、先生」

「まあ、伊織、背が随分伸びたのねえ、もうおちびちゃんじゃないのね」

「……」

 教室をやめた当時、高校生にもなろうというのに伊織は160程しか身長がなかった。今は随分伸びて175センチある。角田が思いだしていうのに、伊織は苦笑した。

「公哉は相変わらず綺麗な顔をして。女の子を泣かせているんじゃないでしょうね」

「泣かされてばかりですよ、先生。俺に泣かされてくれるお人好しの女の子はいないようです」

「まあまあ、相変わらずね」

 角田の目が本当になくなっていく。伊織と公哉が角田の相変わらずの様子に笑い合っていると、律が先を促した。

「先生、早く中に入れてもらえませんか」

「ああ、そうだったわ。ごめんなさいね。玄関先で。奥でわたしの可愛い生徒たちがあなたがたを待っているのよ。あなたたちは角田教室のトロワだったから」

 角田は3人を促して、この屋敷の中で一番広い部屋へと誘った。

「皆さん、お待ちかねの人たちですよー」

 ドアを開けると、そこに子供から大人まで勢揃いしていた。

 うわあという声に伊織が驚いていると、角田が微笑んで3人を生徒達に紹介した。

「こちらが桐原律さん。皆さんもご存知のように、プロのピアニスト。とても強いピアノを弾く人よ。それからこちらが忠野公哉さん。今はピアノをやめてしまったけれど、とても甘いピアノを弾いてくれた人。それから」

 角田はいきなり伊織の腕を引いて生徒を見た。

「緒方伊織さん。技巧ではなく想いでピアノを弾いた人。元気と勇気と安らぎをくれた人よ。わたしは彼のピアノがとても好きだったわ」

「…先生」

 思わず胸が熱くなった。いつもは痛むだけの指がじわっと温もりを発している。

「さあ、皆さん、素敵なゲストが来ました。何か聞きたいことがあったら話しかけましょうね」

 角田は3人を椅子に案内すると、そう声をかけた。途端、生徒たちが律へと向かっていく。

 プロとして活動している律の話を彼等はずっと聞きたくて仕方がなかったのだろう。ピアノを多少でも弾いていればその先にプロという希望は必ず浮かんでくる。

「……」

 お茶をもらいながら、伊織は部屋の隅に置かれたピアノに目をやった。

 日頃、この部屋はピアノ教室として使われている。懇親会の時はああしてピアノを奥に移動させていたなと思い出して、伊織はふっと立ち上がってピアノの元へと歩いた。

「…ベーゼンドルファー」

 ドイツの名工がひとつひとつ丁寧に作り上げる芸術品のようなピアノ。柔らかで重厚な、甘い響きはこのピアノでなければ出せない。

 伊織はピアノの鍵盤に指を添えて、微笑んだ。

 使い込まれたピアノ。できるだけいい音を聞かせてやりたいと、たかがピアノ教室で子供に弾かせるには贅沢なこの代物を角田は生徒たちに触らせていたのだ。

 伊織もこのピアノでピアノを知り、学び、奏でるということの楽しさを知った。

 もう一度このピアノを弾きたいと、強く思った。

「伊織」

「…先生」

 そこに角田がやってきた。

「わたし、とても嬉しいのよ」

「……」

 角田は穏やかな微笑みを向けて、伊織を見た。

「あなたがまたピアノを弾いていると聞いて、とても嬉しいの。あの時、指を2本失ったからもう弾けないと言って悲しい目をしていたあなたをわたしは今も忘れていないの。公哉がピアノとは別の道を選んで巣立っていって、律がドイツへと留学して、わたしの可愛いトロワはあなただけしかいなくなったのに、そのあなたは一番残酷な方法でピアノから離れることになってしまった。…そのあなたがまた弾いているということがわたしにはとても嬉しいの」

「…先生…」

 角田の言葉に伊織は微笑んだ。

「…ただのバーのピアノ弾き、ですけどね、しかもバイトで。けれど、結構楽しくやってます」

「ええ、それが一番。確かにあなたのピアノはコンサートで聞くよりも、疲れた時に癒される場所で聞きたいピアノだったわ」

「ありがとうございます」

 伊織は角田に礼を言うと、ピアノの前に座った。

「何かリクエストがあれば弾きますよ。結構なんでも弾けますから」

「…バガニーニによる大練習曲集、ラ・カンパネラ、なんていかがかしら」

「…結構です、弾きましょう」

 角田の言葉に伊織は指を鍵盤に滑らせた。

 晴れているおかげで湿気が少なく、いつもは違和感のある右手も調子がいい。

 指先から音楽が零れていく。

 この場所で伊織は弾いていた。角田の優しい眼差しと律の気配を感じながら、のびのびと弾いていた。

 伊織の音が感情を示すのは当たり前なのだ。いつも伊織は角田と律に向かって弾いていたから。

 それもいつからか、律にだけ届けと弾かれるようになったけれど。

 けれど、今指先から零れている音は自分へと注がれていた。

「…ふう」

 最後まで弾き終えて、伊織が手をピアノから離した途端、大きな握手が響いた。

「…え、あ…」

 角田はもちろん、律に夢中になっていた生徒たちまで手を叩いていた。

 その中に律や公哉はもちろんいる。伊織の目が律の姿を見たところで思わず動きを止めてしまった。

「…律…」

 その律を伊織はくいと指で呼んだ。

「今度はおまえが弾けよ。世界の音でも聞かせろ」

「……」

 伊織の言葉に律は黙ってピアノに近づくと、やがて優雅にピアノを弾き始めた。

「…アイネ・クライネ・ナハトムジーク」

 ごくごくポピュラーな曲だけに奏者の腕の差がはっきりと出る。

 律は伊織とは全く違う、律だけの音を奏で始めた。

 その音に伊織は目を細める。

 ここでいつもこうして二人、音だけを聞いていた。

 言葉はなくてもお互いのピアノだけあれば、何を思っているのか、よく分かったから。

 今もそれは変わらなくて。

 こんなにもピアノが悲しく泣くことを、今まで伊織は知らずにいた。

「…素晴らしいわ」

 律のピアノが終わった瞬間、角田は目を細めて律を見た。

「本当によく成長したこと。あなたのピアノは素晴らしいわ」

「…伊織のおかげです」

 角田の言葉に律はぽつんと言って、伊織を見た。

「伊織が俺をいつも次に進めてくれる。…伊織がいるから、前を見ていられるんです」

「……」

 何を言いたいのか。

 律の言葉が告白に繋がりそうで、伊織は目を伏せた。

「日本に戻ってからずっとうちに通ってくれてはいたけれど、ここまでの成長をあなたは見せてくれていなかったから、どうなのかしらと思っていたけれど、確かにあの桐原律の演奏ね」

「…ありがとうございます」

 律は伊織から視線を外して角田を見た。

「このピアノでずっと成長してきたから、またここで弾けて嬉しい。…伊織と公哉の前で弾くのが一番好きだから、俺」

「そうね。確かにあなたたちのピアノはお互いに聞かせるものだったわ」

 角田はそういうと、公哉を見た。

「公哉、今度はあなたが聞かせて。何でもいいわ、弾いてちょうだい」

「…えー」

 いつの間にという早さで、女子高生らしい生徒たちの中央に座ってプチハーレムを築いていた公哉に角田が声をかけると、彼は至極いやな顔をしてみせた。

「ピアノを弾けっていうの、言わないって約束だったじゃないですか」

「わたしはそんな約束をしていないわ。ほら、早く、公哉」

「…俺、もう全然ピアノにさわってないっていうのに」

 渋る公哉を角田が手を引っ張ってピアノの前に連れていく。途端、公哉は律を睨み付けた。

「おまえさあ、俺やだって言ってただろ」

「確かにな。先生にも一応おまえにピアノを弾けとは言わないでくれって頼んだけど、それを聞いてくれるかどうかは先生の問題だからな」

「…うわ、卑怯もん、おまえもいうようになったなあ」

 公哉はやだやだとぶつぶつ言いながら、ピアノの前に座った。

「えっと、本当に全然弾いていないから、下手でも文句を言わないこと、先生もおまえらも」

 公哉は角田と生徒たちを交互に見て、それから鍵盤に手を伸ばした。

 ピアノに全くさわっていなかったというのはあながち嘘ではなかったようだ。公哉は練習曲である「エリーゼのために」を弾きながら、ひどく険しい顔をして鍵盤を睨み付けている。以前なら、気取って弾いていたのに、今はその余裕がないらしい。

「うおっと、終わったー」

 しかも曲を弾き終わった途端、そんな声を漏らして見せた。

「…たく、こういうのは律と伊織だけにしてくださいよ。俺はもうだめなんですから」

「けれど、とても素敵だったわよ」

 汗をかいてしまったと、公哉が文句を言うと、角田はコロコロと笑いながら、公哉の肩を叩いた。

 角田がはしゃいでいるのが伝わってくる。こんなことなら遠慮せずにもっとこういう場にくればよかったと伊織は今更後悔をして、不意に隣に立つ律を見つめた。

 けれど、ここにきても律はいない。そのことを自覚させられるのがいやで、足が遠のいていたのも事実だ。

 世界のすべてだった人を失ったことはあの頃の伊織には身を裂かれるように辛いことだった。

 伊織はもう一度ピアノの前に座ると、即興で流行の曲を弾き始めた。

 何か話すのも辛い気がして、ただピアノにだけ語りかけるように。

 すると、その伊織の隣に律は椅子を引っ張ってくると、いつかのバーでやったように連弾を始めた。

「…律」

「…いやか?」

 驚いた伊織に律は不安そうな顔をして、一瞬手を止めた。

 その律の様子に背にしている生徒たちの視線が浴びせられる。

「…続けて」

 期待してみている子供たちの希望を伊織が潰すわけにはいかない。伊織は軽く首を振って、律にぎこちなく微笑んだ。

「…ん、ありがとう」

 律はどこか諦めたような笑いを浮かべて、もう一度指を鍵盤に滑らせた。

 甘い旋律が聞こえ始める。確かに今弾いているのはラブソングだけれど、ここまで甘い気がしたことはなかった。

 ああ、そうか。

 甘いのは旋律ではなくて、律の感情だ。

 律はピアノに甘やかな感情をのせて、音を奏でているのだ。

 甘くて優しいピアノが聞こえてくる。伊織はその音に包まれて目を細めた。

そして、曲が終わろうとした瞬間、律がまた違う曲をかぶせて続けて弾き始めた。

「律」

「……」

 伊織の呼びかけに律は構わずピアノを弾き続ける。その行為に伊織は苦笑して続けて弾いた。

 楽しいから終わらせたくないのだと律の横顔が言っている。

 律にとっても伊織にとっても、公哉にとってだって、ピアノは習うものであり、また遊び道具だった。公哉が伊織と律の後ろに回ってきて、その椅子の背に手をかけ、指先をのぞいている、そう、いつもこうして遊んでいたから。

 楽しいと、心の底から感情がわいてくる。

「……」

 だが、右手に痺れが走ってきて、伊織は一瞬顔をゆがめた。調子に乗りすぎたかもしれないと、この曲が終わったら演奏をやめようと思っていた時、不意に演奏が途切れた。

「…え…?」

 驚いて律を見ると、律は伊織の右手を取って、小さくごめんと呟いた。

「調子に乗りすぎた。手、冷やした方がいい」

「……」

 分かったということか。

 確かに痛みが出れば音が鈍る。だが、痛いなと思ってから1小節もなかったはずだ。

「…伊織のピアノは俺の理想だから、音が変わればすぐ分かる。…あっちに戻ろう」

「……」

 律は伊織の手を掴んだまま、テーブルへと移動させた。

「…先生、アイスノン、ありますか?」

「冷蔵庫にあるわ」

「お借りします」

 伊織を椅子に座らせると、律は角田にそう尋ねて、キッチンへと消えた。

「本当に律は伊織が好きなのね」

「…先生」

 律の背中を見送って、どこか楽しそうに言った角田に伊織が困った顔をすると、本当よと角田は笑った。

「もうずいぶん前だけれど、一度律に言われたのよ。伊織のピアノがとてもとても好きだって、あんなふうにどうしたら弾けるんだって。伊織みたいに元気になれるピアノが弾きたいって、けど弾けないって」

 角田は伊織に紅茶をいれながら、懐かしそうに目を細めた。

「律は誰が聞いても天才って言われるピアニストだから、自分とは違うピアノを弾く伊織がうらやましくて仕方がなかったみたい。律はね、ピアノは正確であればいいと思っていたのよ。楽譜通りに弾けばいいんだって。確かにミスをするよりはその方がいいのだけれど、それでは人が弾く意味がないの。その差を律は分からなかったのだけれど、伊織や公哉と知り合って、あの子の中に律だけの音が生まれたの」

「……」

 確かに出会ったばかりの時の律のピアノはただ巧いだけだった。正確に奏でる音でしかなくて、それは本当にただ上手としか言えず、何も訴えるものはなかった。

 その律の音が少しずつ変わってきたのはいつからか。

 伊織は近くでいつもそれを感じていたけれど、その成長を自分たちとの出会いからだとは思えなかった。

「律にとっての伊織って、刷り込みの親みたいな感じだもんなあ」

 考え込んだ伊織に公哉がぼそっと呟いた。これ美味いねと誰彼なく、クッキーを褒めながら、伊織の顔をのぞき込んだ。

「伊織が喜ぶのを見て、律は喜んでた。伊織が悲しむのを見て、律は悲しんでた。律が感情ってのを理解するのに、伊織はすごくいい見本だったみたいだし。伊織は感情が豊かですごく生きてるにおいがするからさ。俺や律のピアノは真似できても伊織のピアノは真似できなかった。伊織のピアノは伊織の感情を元にしてる」

 そして、知ってたかと公哉はかすかに苦笑した。

「俺がピアノをやめて、親父の会社を継ぐのを目標にしたの、律のピアノよりも伊織のピアノで俺の先を悟ったからだってこと」

「…公哉」

 初耳だった。

 公哉が高校に上がると同時にピアノを辞めると言った時、なぜだと尋ねた伊織に公哉は経営者の方が向きだからとピアノへの執着をかけらも見せずに笑って、たくさんあったピアノの楽譜を伊織や律にあげて、あっさりとピアノ自体も手放してしまった。

 その潔さに言葉通りなのだとすべてを受け取っていたのだけれど、違ったということか。

「あー、そういう顔しない」

 公哉は慌てて伊織の髪に手をやって笑った。

「…え、あ…」

 顔、と言われて、伊織は一瞬我に返った。公哉の心情を想像してしまって、想いにとらわれていた。きっとショックを受けた顔をしていたのだろう

「別に悪いことじゃないんだ。俺ね、伊織のピアノ、好きなんだよ。律のピアノよりも好きだな。伊織のピアノはすごく色々癒してくれるから。…俺さー、もし結婚して子供ができたら、その子供にはおまえにピアノを教えてもらおうって思ってたんだ。そうしたらきっとすごく生き生きとした、感情豊かな可愛い子になるって思うから。俺には伊織のピアノが最高に聞こえる」

 そう呟いて、それから公哉は綺麗に微笑んだ。

「それで気づいたんだ。俺は弾くより、聞いてる方がいいなって。伊織みたいには弾けないから、俺は辞めようって。俺にとってのピアノってのは律よりも、伊織のピアノが基本なんだよ。伊織みたいに弾きたくて、けど弾けなかったから断念した。でも悪い気分じゃなかったなあ。おまえがもしプロになったら、一番のスポンサーになってやろうって思ったし」

「……」

 公哉の言葉に伊織は右手を強く掴んだ。

 友人の、親友とも呼べるほど親しい相手からの初めての言葉。嬉しくて、けれどその嬉しさ反面、故障してしまって、ピアニストとしての道を絶ってしまった自身への後悔が募った。

「…伊織」

 その伊織の手に公哉はそうっと自身の手を重ねて微笑んだ。

「…だからさ、ずっと弾いててくれよ。指が動きづらいのは分かるけど、でもやめないでほしいんだ」

「俺もそう思う」

 そこに律が戻ってきて、伊織にアイスノンを差し出した。

「冷やすとましになるんだろう?」

「あ、うん、ありがとう」

 律の手からアイスノンを受け取って、伊織はそっと指にそれを押し当てた。わずかに熱を持っていた指がゆっくりと熱を引いていく。

 公哉の言葉が、痛みがひくと同時に胸にしみてくる。母親に勧められて習いだしたピアノ、その後は律へと繋がるものとしてしか考えていなかった。けれど、公哉の言葉を聞いていると、そんなピアノでも人に影響を与えることができるのだと思った。

「公哉」

「ん、なに」

「ありがとうな」

「……」

 伊織の言葉に公哉は一瞬驚いて、それからどういたしましてと微笑んだ。

「礼を言うなら店に行った時に、多少は奢るとかしてくれよな」

「ばーか、藤堂さんがおまえには特別料金で出してるだろ。ったく、藤堂さんもおまえには甘いんだから」

「そりゃあ、このツラのおかげでしょ」

 しれっと言って、公哉はにっこりと側にいた少女に微笑みかけた。途端、少女が真っ赤になったのに、ほらと公哉は得意げに笑う。

 その顔に伊織が笑っていると、律もくすくすと笑っている。

 穏やかな律の顔。以前ならこんな顔も珍しくなかったのに、今では滅多に見られない顔になってしまっていた。

 俺が悪いのだろうかと、伊織は思う。

 あの告白に俺も好きだったとでも答えて、恋を過去のものとして精算していれば、律もこんな顔で毎日笑って、そしてドイツへと心おきなく旅立てたのだろう。

 そうしてやるのが律にとっても、伊織自身にとっても最良のはずなのだ。

 なのにできなかった。

 恨み、と公哉は言ったが、ただそれだけとは思えなかった。

 恨みではなく、これはもっと違うもの。

 律が伊織とのことをきちんと精算してしまえば、間違いなく伊織は律の過去になる。もう省みることのない、過去となって消えてしまう。

 そのことが辛くていやで。

 そう、伊織にとって、律は過去でも何でもなくて。

 だから。

「あ、そうそう」

 思考に陥りかけた伊織を不意に角田の声が引き戻す。

 途端、我に返った伊織はかあっと顔が熱くなった。

 何を今、考えていたんだ。

 今の思考はまるで今でも律のことを。

「ねえ、律、ドイツ永住の手続き、きちんとしているの?」











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2007.6.30

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