律が伊織に告白した次の日、伊織は律が自分を避けると思った。だが、律はそれまでと同じ顔をして、同じ行動を取ってみせた。

 伊織が言った通り、なかったことにしたということなのか。けれど、それはそれでどこかショックを感じている自分に伊織は人のことを言えないなと思って自嘲した。

 今日もいつもと同じくバーでピアノを弾いていると、公哉が顔を出した。

「えー、面倒くさいなあ」

 懇親会の話をすると、案の定公哉は本当に面倒だと顔をしかめた。

「もうピアノに何年もさわってないんだよ。弾けって言われないとは思うけど、今どうしてるんだーとか言われたらやだなあ、俺」

「…それはお互い様だろ」

 伊織だって同じこと。今はここでピアノを弾いているが、もうピアノにはここ以外で触れることはない。

 マンションにピアノを置いてはあるが、騒音を気にしてあまり弾いていない。

「なあ、一度顔出してみよう。俺も一人じゃ行きにくいし」

「律が行くからいいじゃないか」

「……」

 思わず公哉の言葉に伊織は口ごもった。

 だから言っているというのに。

 律と二人で行くのだけは避けたい。あの告白を律がないことにしてしまっても、一度聞いてしまった伊織には忘れられるものではない。

 ましてあのピアノ教室は伊織にとって律との思い出の一番大きな背景なのだ。

「な、行こうぜ」

「うーん」

 公哉が唸っているのに、律が横から公哉の肩を叩いた。

「…公哉、俺と二人だけじゃ伊織が退屈だから行ってくれ。先生も公哉の顔が見たいって、楽しみにしているんだ」

「…ピアノ、弾けなんて言わないって言うならいいけどさ」

 ぼそっと呟いて公哉はグラスに口を付けると、ちらりと律を見た。

「律、行ってやるからさ、あれ、弾いてよ。主よ、人の望みの喜びよ、だっけ」

「分かった」

 律は公哉の言葉に頷くと、休憩している伊織の代わりにピアノへと歩み寄った。そして、ピアノを奏で出す。

「伊織」

 その律の姿を伺いながら、公哉が伊織に囁きかけた。

「何?」

「…なんか、あったか?」

「…え…?」

 驚く伊織に公哉が怪訝そうな顔をした。

「何もないのか?…律の目が普通じゃないからさ、何かあったのかと思ったんだけど」

 言われて、ピアノを弾く律を見た。

 伊織にはかわりないように見える。

 あんな告白をしておきながら、律の態度はいつもとどこもかわりないと思っていたのだが。

「さっき、おまえがピアノ弾いてるのを、すごい目で見てるから、とうとう何かやったのかと思ってさ」

「…あいつ、ビザの手続きが本当の目的じゃないって…」

「……」

 伊織が呟くと、公哉はふうんと呟いた。

「おまえに会うのが目的、とでも言ったんだろ、あいつ。で、おまえを好きでした、とか?まあ、そんなことだろうと思ったけどさ。で、すっきりできたのか、おまえ」

「…え?」

 公哉の言葉に伊織は首を傾げた。

「え、っと、何が?」

「…だから、言っただろ、初恋はちゃんと終わらせろって。で、俺も昔は好きでしたよーとかなんとか言って、終わった話にしたんじゃないの?」

「……」

 言われて、伊織は口ごもった。

 確かに遅かったとは言った。だが、恋を口にはできなかっった。

 思わず下を向いた伊織に公哉は剣呑な目を向けた。

「おまえね、結構残酷なことするんだな」

「……」

「…まあ、伊織が臆病なのは前から知ってたけどさ、けどあんまりじゃない、それ。俺、律にも理恵子さんにも同情する。一所懸命な人に向かって、おまえはすごく不誠実だ」

「…公哉…」

 公哉の言葉が胸に刺さる。

 そうだ、そうすればよかったのだ。

 律の告白にあの時言ってくれればよかったのにと告げればよかった。

 そうすれば、律との関係はすっきりと終わったことになる。

 律は伊織に失恋したことで、ドイツに帰る時も何の憂いもなくなるだろう。

 なのに、伊織がしたことはただ律を傷つける言葉を投げつけただけで。

「…俺…」

「…俺、帰るわ。懇親会には出るから、律にもそう言っておいて」

「公哉」

 立ち上がった公哉に伊織は思わず名を呼んだ。その伊織に公哉は苦笑して、伊織の肩を叩いた。

「きついこと言った。おまえのしんどさ、分かってるつもりなんだけどな、でも俺、律も友達だし、理恵子さんも友達だと思ってるんだよ。…指、そんなになってもおまえ、一所懸命だったもんな。だからさ、俺はおまえも大事だから、ちゃんと色々終わらせて、先を見て欲しいんだ」

「……」

 公哉の優しさに伊織は唇を噛んだ。

 公哉の言うとおりだと思う。

 けれど、過去のことにするには指が痛みを発して伊織をあの時に簡単に引き吊り戻してしまう。

 律が世界の中心で、彼だけが必要だった伊織。

 あの時置いていかれたという想いはまだ伊織の中で消えていない。

「それと、伊織。律がなんでおまえにだけドイツ行き、言わなかったのか、悪い感情を抜きにしてそいつも少し想像してみな。そうしたら少しはおまえの中の律への恨みっていうのが消えると思うよ」

「……」

 公哉はそれだけ言うと、じゃあなと言って帰っていった。

「…公哉、帰ったのか?」

 ピアノを弾き終えた律が公哉が出ていくのを見て、伊織の隣に座りながら尋ねた。

「…ああ。懇親会には出るって言ってた」

「そう。先生が喜ぶよ」

 律は伊織の言葉に少しだけ笑みを浮かべた。

 綺麗な顔だなとその横顔に思う。

 律のCDジャケットが彼のアップばかりなのも頷ける。この顔は表に出さなければ損だ。整いすぎた感はあるけれど、見ている分にはとても心地よい。

 そう、見ているだけにしていればよかったのかも知れない。

 あの時も見ているだけにしておけば、こんなにもお互いに傷つくことも傷つけることもなかった。

 それこそ、ドイツ留学の話を一番最後に聞いたとしても、おめでとうと言えたはずなのに。

 近づきすぎて、色々多くを望みすぎてしまった。

「…伊織くん、こちら、リクエストです」

 そこに藤堂がリクエストをもってやってきた。

「あ、はい」

 見て、思わず笑ってしまう。

 恋人同士がよくリクエストしてくる曲だ。

「弾いてきます」

 伊織は誰彼ともなく言うと、ピアノへと歩いていった。

 ―――――LOVIN’YOU。

 甘い旋律が心を震わせる。

 あの時、5年前にもし伊織の中にずっとあった感情を律に告げていたなら、何か変わったのだろうか。

 それこそこんな甘い曲を律のためにだけ弾くことができたのか。

 公哉の残した言葉が伊織の中で甘い毒になろうとしている。

 期待してはいけない、などと何を思ってなのか、そんなふうに思ってさえいて。

 ただ、ピアノを弾くその指先に律の視線を感じて、どこかで伊織は心地よくさえ感じてしまっていた。











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2007.6.16

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