6
伊織はバーでピアノを奏でながら、自分をじっと見る視線にどこか落ち着かなく、それでいて安心できた。
あの日から、律は伊織になんでも話すようになった。
日本に帰ってきたのもビザの申請が主な目的だと言った。これまでも何度かビザの申請のために日本へ帰ってきていたのだが、ほとんどトンボ帰りに近い格好でドイツに戻っていたのだという。だが、今回は少し長く滞在したくて、無理を言って一人で戻ってきたのだといった。マネージャーの話を伊織がした時に律が表情を曇らせたのは、その滞在期間の長さにマネージャーがひどく怒り、半ば喧嘩して日本にきたからだった。そのマネージャーというのが律の母親だというのに、伊織は驚いたけれど。
伊織の知る律の母はおっとりとして優しくて、そんなマネージャー稼業などできそうにもないように見えたのだが、そう律に言えば、独身時代にはあるタレント事務所でマネージャー業を実際にやっていた人なのだと聞かされて、さらに驚かされた。
人は見かけによらないんだなと伊織が惚けていえば、律は苦笑した。
その母とも日本にいる間、以前伊織も通っていた教室に通うということで、今は1ヶ月の滞在を許してもらえているのだといっていた。
そして、律は伊織が大学に行っている間、その教室でずっとレッスンを受けており、伊織がバイトに出かける時間になると帰ってきて、一緒にバイト先のバーに向かうという毎日を過ごしていた。
今日も律はバーで伊織のピアノをじっと聞いている。
「……」
その律の姿に全神経が緊張しているのが分かる。律はいつも伊織のピアノを真剣に聞いていた。一音一音聞き逃すわけにはいかないと、律は必死で伊織の音を拾う。
忘れていた緊張感だけれど、心地よかった。
あの時、当たり前に感じていたものだ。律に聞いて欲しくて、感じて欲しくて、一生懸命に弾いていた。
だから、律がいると緊張したけれど、いない時よりもずっと巧く弾けている気がしていた。
ピアノは聞く人に想いを伝える道具なのだと、あの頃から伊織は理解していた。
「…疲れた…」
ぼんやり呟いて、伊織がカウンターに戻ると、律が理恵子の真似をするようにおしぼりを渡してくれた。
「サンキュー」
「…いや。大丈夫か?」
律の目に心配そうな色が宿るのに、伊織はふっと笑った。
「体力ないからな、どうしても続けては弾けない。…それにおまえが睨み付けてるし」
「…睨み付けてなんか…」
「睨み付けてるよ。…ねえ、藤堂さん」
話を振れば、藤堂は困った顔をして笑った。
「確かに店の客の誰よりも律くんが伊織くんのピアノを聞いていると思いますけどね」
「…俺は伊織のピアノが一番好きだから…」
律は藤堂の言葉に俯いて、照れくさそうにそういって伊織を見た。
「相変わらず伊織のピアノは心地いい」
「…そっか」
「そうだ。俺にいつもないものを気づかせてくれる」
そんなに大層なものではないと伊織が気恥ずかしく俯くと、律は微笑んでピアノへと向かった。
「…あ…」
ため息、だ。
穏やかに優しいメロディーライン。伊織が好きな曲で携帯の着メロにもしている。その曲を律は優雅に弾き始めた。
「…ふ…」
「藤堂さん?」
不意に聞こえた藤堂の笑い声に伊織が目を向けると、藤堂は口元に手をやって、くすくすと笑っていた。
「ああ、失礼。しかし、律くんのピアノはとても雄弁ですね。CDで聞くとそうは思わないのですけど、ここで聞く彼のピアノはとても雄弁にいろんなことを語っている。…ため息がこんなにも嬉しげに聞こえたのは初めてですよ」
「え…?」
「…律くんは言葉の少ない人のようですが、ピアノでとても語ってくださるんでしょうね。いいピアノです」
「…そうですか」
伊織は言われて、藤堂の作ってくれた賄いのサンドウィッチを食べながら、律の音に耳を澄ませた。
確かに律のピアノは彼の気分でかなり音に差が出る。さすがに発表会の時は違ったが、伊織や公哉に聞かせる時に弾くピアノにはかなり感情が含まれていた。
ピアノを聞けば今律が何を考えているのか、伊織には分かってしまうことが多かった。
「今日は早めにあがっていいですよ」
ぼんやりと律のピアノに耳を澄ませていた伊織に、藤堂が不意に告げた。
「あ、いいんですか?」
「ええ。雨が降っていますからね、客足が鈍っていますから、店も早じまいする予定なんです」
「ああ、そうですね」
そういえば、夕方から雨が降ってきていた。その雨も今はひどい降りになっているようで、さっきから入店してくる客の話題は雨のことばかりだ。
「じゃあ、桐原が弾き終わったら帰る用意をします」
「そうしてください」
伊織の言葉に藤堂は余り物だけれどと、料理をタッパーに詰めて伊織に渡してくれた。
「いつもすみません」
「いえ、伊織くんのピアノのおかげでお客様が増えていますから、こんなことで礼を言わないでください。時給を上げて差し上げてないんですから」
「そんな…」
この店でピアノを弾く、その行為で救われているところがある。指が曲がってしまったことでピアノの道を絶たれたと感じていた伊織にこの店は弾く場所を与えてくれた。
別にピアニストになりたいと強く思っていたわけでもないのに、ピアノを他人に聞かせる場所を与えられたことは伊織にはとても気持ちの休まる想いがした。弾きたかったのだなと、ピアノの前に座って改めて思った。
「…あ、終わったようですね」
最後の一小節を弾き終わった律に藤堂が目を向けた。その藤堂に伊織はカバンを掴んで、律に近づいた。
「桐原」
「…伊織?」
ピアノについたまま、驚いて見上げてくる律に伊織は帰るぞと告げた。
「藤堂さんが今日は早じまいだから、もう帰っていいって」
「そうなのか」
途端、律の顔に嬉しそうな表情が浮かんだ。
こうして律が見せる子供の好意は伊織を喜ばせて、そして悲しませる。
嬉しいと思いながらも、一度裏切られたと思った悲しみは癒えない。何もかもを素直に信じられなくなってしまった疑い深い自分の心を伊織は今も抱えていた。
伊織は律とともに藤堂と市倉に挨拶をして、常連たちに声をかけながら店の外に出た。
「…よく降ってるなあ」
藤堂が言っていたとおり、雨脚がかなり強い。人々が傘をさしながら、足早に走っていく姿に伊織も急ごうと律を見た。
「早く帰って、これ、食べよう」
「ああ、そうだな」
雨の中、律と二人で傘をさして歩いていると、昔に戻った気がする。
けれど、傘を差している律の腕はあの頃よりもずいぶん太くなっているし、背も高くなっている。それは伊織にも言えることであの頃よりも成長して変わってしまっている。
それでも変わらないものはあるけれど。
「…伊織」
「何、どうした」
ようやく部屋について、中に入ると、タッパーのふたを開け料理をテーブルの上に置きながらなかなか入ってこない律に玄関の方を覗き見た。
「早く中入れよ」
「…ん…」
なぜか玄関に立ったままの律に伊織が苦笑していると、律は躊躇いながら中に入ってきた。
「どうしたんだよ」
「あの、今度角田先生のところで懇親会があるんだけど」
「ああ、まだやってるんだ」
角田先生のところというのは伊織も通っていた、例のピアノ教室のことだ。成長してから知ったのだが、その先生自身が多少は名の知れたピアニストで、某音楽大学の講師もやっているという高名な人だったという。
確かにこの天才ピアニストが子供の頃からだけでなく、今も世話になっているのだから、それだけの腕を持っていても当たり前なのだろうけれど。
その角田の教室では年に何度かピアノ教室の現役の生徒やもう通わなくなった元生徒を集めて、懇親会といってお茶会のようなものをしている。近況を報告し合ったり、生徒同士の交流を図ろうというものだ。
もしやと思って律を見た。
「もしかして、それに誘われてるのか?」
「……」
律は伊織の言葉にこくんと頷いた。やはりなと思いつつ、伊織は冷蔵庫からビールをもってくると、律とテーブルを挟んだ向かい側に座った。
「なんか懐かしいなあ。まだやってるのか、あれ」
「ああ。角田先生にたまには顔を出さないかっていわれて」
「そう。行ってくればいいじゃん」
「……」
軽く言った伊織に律は迷いを表情に浮かべながら、口を開いた。
「…おまえや公哉も連れてこいって、先生が言うんだ」
「…俺と公哉?」
オウム替えしにきいた伊織に律は首を縦に振った。
「伊織のところに世話になっていることや公哉と会っていることを俺の母親が喋ってしまったらしくて、先生がぜひ一緒に連れてこいっていうんだよ。伊織も公哉も教室を辞めてから全然顔を出してくれないから、一度会いたいって」
「……」
律の言葉に伊織は右手の指を無意識にさすった。
角田はこの指のことを知っている。折れてしまった手を見せに、教室に行ったことがあるからだ。なぜこんなことになったのかと理由を尋ねてはこなかったが、ただその指に悲しい顔をしていた。
あの時に教室を辞めると伝えて、それから確かに足を向けたことはなかった。何度か懇親会や発表会の誘いを受けたのだが、結局一度も顔を出していない。
どうしようかと考え込んだ伊織に律はごめんと呟いた。
「おまえの気持ちなんて何も考えずに、ただ先生に聞いてきてほしいと言われて、おまえを困らせてしまった。おまえが今まで教室に行かなかったことの理由とか考えればよかった」
「…あ、いや、別にいやってわけじゃないから…」
律のぼそぼそとした悔やむ言葉に伊織は首を振った。
思っていたことだが、律はあの時と違ってかなり伊織に気を遣っている。伊織が傷つくことのないようにと、必死で言葉を選び、顔色を伺うような行動をする。
確かにそうし向けたのは伊織なのかも知れない。だが、ここまでされると腹が立ってくるのは自分勝手なことだろうか。
律は彼の弾くピアノと同じく、本来は気性の激しい、かなり強引な性格のはずだ。その律が伊織の顔色をうかがい、真綿でくるむように大切に扱っている。
嬉しい反面、なぜか歯痒くて苛立たしく、悲しかった。
「…それ、いつ」
けれど、できるだけそんな感情を見せることなく、淡々と伊織は律に尋ねた。
「あ、今度の日曜日」
「…特に予定ないな…」
理恵子は今週末から会社の研修で大阪に行っている。研修自体は金曜で終わりだが、土日に某アトラクションテーマパークに行くのだと、帰ってくるのは月曜だと言っていた。だから、理恵子と出かけるという予定もなく、今度の土日は暇だった。
「理恵子さんは?」
「あ、いないんだよ。研修旅行」
案の定、理恵子との予定を聞いてきた律にそう答えると、律は少し嬉しそうな顔をした。
「何、理恵子がいない方が嬉しいのか?」
その態度に伊織が苦笑混じりに問うと、律は慌てて首を振った。
「あ、いや、理恵子さんはいい人だと思うけど、そういうのではなくて…」
慌てて弁明する律に伊織はくすりと笑った。
なんだかおかしな優越感を感じてしまっている。
あの律が伊織の恋人を気にしている。理恵子に殊更優しく振る舞う伊織を律がひどく悲しい目で見ているのは分かっていた。
あの頃の呪縛にまだ囚われているのは何も伊織一人ではないということだ。
あの頃は本当に女の子といるよりも律と一緒にいることの方が伊織には重要だった。初恋と公哉は言ったけれど、そんな半端なものではないような気が伊織にはしていた。
あの時の伊織には律が世界の中心だったから。
「…日曜、だな。予定開けておく。公哉も明日には店に顔を出すだろうから、誘えばいいし」
律の弁解を遮って、伊織が答えると、律は至極嬉しそうな顔をして、テーブルに置かれたビールを掴んで、一気に飲み干した。
「お、おい」
いくらなんでもと、伊織が慌てると、あははと律は笑って、一気飲みしたせいで早く回った酔いに赤い顔をして、伊織を見た。
「知ってるか、伊織。ここにきて初めて日曜に伊織と一緒にいられるんだ、俺」
「……」
律がここにやってきて半月が過ぎている。確かに土日は社会人の理恵子も自由に出歩けるから、伊織はいつも理恵子と遊びに出ていた。それは律がくる前から変わらないことだったから、そう言われてもぴんとはこなかった。
「いつも伊織は最優先が理恵子さんで、俺はずっと後だから、平日だって店に行かないと伊織に相手をしてもらえない。それだって、大学の友達がいたら、俺に構わずそっちにいってしまう。…俺が悪いんだけど、でも寂しかった」
「…律」
思わず呼んだ伊織に律はどこか寂しそうに笑った。
「…律って、呼んでくれるのも時々だし。…桐原、なんて伊織に呼ばれること、予想もしてなかった」
律の眼差しが伊織を捕らえる。
怖いとは思わなかった。
日本人らしくなく、律はいつも人の顔を真っ正面から睨み付けているような少年だったから、伊織は慣れていた。
どこか心地よく、その視線を受けていた伊織。今もくすぐったい想いをしながらも、どこか落ち着いていた。
「伊織、俺、ビザの手続きのために帰ってきたって、言ったよな、最初」
「ああ」
強い目に見つめられて、動けない伊織に律は酔いを感じさせる甘い声音で囁いた。
「それはただの言い訳なんだよ」
「……」
最初から感じていたこと。
言われなくても分かっていたことだ。
ただそれだけが理由ではないことを。
今更だと伊織が思う前で、律はどこか嬉しそうに笑いながら言った。
「俺はおまえに逢いたかった。ただそれだけなんだ。伊織」
律の手がすっと伸びて、伊織の右手を取った。
「…おまえが好きなんだ、今も昔も変わらず。おまえだけ、おまえしかいらない」
「…ッ…」
5年前、あの思い合っていたと感じていた日々の中でさえ、言葉にしてもらえなかった律の気持ち。
好きだと、視線が訴え、その口が囁く。
あの頃の熱さは歳を重ねた分だけ、穏やかな暖かみをました気がする。
ただ、飢えているかのように、律の目が伊織をじっと見ていて、伊織はたまらず下を向いた。
「俺は…」
不意に理恵子の顔が思い浮かんだ。
伊織と優しく笑う、理恵子の顔。
できすぎた始まりだったけれど、理恵子との関係はとても暖かくて優しかった。
伊織のピアノは元気になれると理恵子が笑ってくれたおかげで救われたこともある。
凍りかけていた伊織の心を溶かしてくれたのは理恵子だった。
「…理恵子は優しい女なんだ」
「……」
不意に口をついたのはそんな言葉。
「俺の指を労ってくれる。…雨が降ったり、寒かったりすると痛むから、不器用なのに手袋を編んでくれた。指のところだけ少し厚めにしてくれたから、売ってるものよりずっと不格好なんだけど、不格好なだけ理恵子の優しさが見えてすごく嬉しかった。俺のピアノは元気になれるんだって、言ってくれる。俺自身を大事にしてくれる。…理恵子に言われたんだ」
『5年後を想像して、その時に二人で一緒にいるのを想像してほしいなあと思ったの』
理恵子からのプロポーズだろう、あれは。
けれど、その言葉に理恵子との5年後を伊織は容易に想像できた。きっと5年経てば結婚しているか、結婚前提で話をしているだろう。そして、笑う理恵子の隣で笑っている自分を伊織は想像できていた。
けれど、律は。
「5年後を想像して、理恵子と一緒にいる姿を思い浮かべてほしいって。…俺は簡単にその姿を思い浮かべるんだ。普通に自然に。…けどな、律」
ふっと顔を上げると、表情をなくした律がそこにいた。
呆然として、伊織を見ている律に伊織は瞬間胸が痛んだが、言わなければと口を開いた。
「俺にはおまえとの5年後が想像できない。想像できるとしたら、また放っておかれて悲しんでる俺なんだよ」
「…俺は…」
律は首を振って、それから伊織をきつく見つめた。
「伊織が好きなんだ。伊織のことだけ考えて、ずっとドイツで耐えてた。一人が嫌で、悲しくて、やっぱり伊織が一番好きだって、何度も思った。ピアノも伊織がいなきゃ意味がないのに、俺は…」
「遅かったんだよ、律」
『一番好き』
もっと早く聞かされていたなら、きっと踊るほど喜んだことだろう。
少しだけ疼いた心を無視して、宥めるように伊織が口にした言葉に、律はカッと目をむくと、伊織の腕をそのまま引っ張って、テーブル越しに抱き締めた。
「…遅くないッ!」
「律!」
「…俺のじゃないか、伊織は!」
「…ッ…」
この我の強さ。
我が儘だと言われるくらいの気性の強さと自我を押し通す強さ。律の目に伊織を射すくめるほどの強さが宿って、食い尽くそうとしている。
「律!」
だが、その律の強さを受け入れるわけにはいかなかった。
そのまま抱き締めてこようとする律に伊織は激しく怒鳴った。
「おまえは俺が一番じゃなかっただろっ」
「そんなことは…」
何を言うんだと、視線をきつくした律に伊織は怒鳴りつけた。
「ならなんで留学のことを言わなかった!その他大勢で、ひとくくりにされて、俺が喜ぶと思うのかよ。公哉だって、知ってたっていうじゃないか!俺だけ聞かされてなかった、そのことがどんなに俺は辛かったか。あんなに傍にいたのに、おまえは何も言わないで…」
「伊織、それは…」
先ほどまでの勢いを失って、ただ首を振る律に伊織は手を払いのけると、体勢を戻した。
「…もう、いやなんだよ。頼むから、俺をそっとしておいてくれ。やっと理恵子みたいな女に会えたんだ。そっとしてくれよ…」
「…伊織…」
ぽつんと律は伊織を呼んで俯いた。
「…日曜日は来る、よな?」
「…ああ、行く」
確認かと伊織が頷くと、律は伊織の手を掴んでいた手を見つめながら言った。
「俺、先生から発表会のゲストに呼ばれてる。それもできたら聞きに来て欲しいんだ。…もう伊織を困らせないようにするから、お願いだ」
伊織は律の静かな言葉にふうとため息をついて頷いた。その伊織の様子に律がホッとしたように見えたのに、伊織は目を伏せた。
全てをなかったことにする弱さを許してほしいと、誰とも思わず懺悔した。
「…おまえは酔ってたんだ」
そして、その弱さで言った。
「だから、酔って思ってもいなかったことを言った。…それでいいよな」
「…伊織…」
残酷な言葉だと思った。
律の口から出た告白もすべてなかったことにして、伊織は言葉を塞いだ。
伊織はそれでもそう言い含めて、再び痛み出した右手の指をさすりながら、立ち上がった。
「…片づけ、しておいてくれるか。俺、もう寝るから。じゃあな」
「……」
表情をなくしてしまった律はやがて俯いてしまい、今の表情はもう伊織から見えない。
下を向いた律に伊織は立ち上がり、自室に戻った。
そして、ポケットから携帯を取り出すと、慣れた手つきで短縮番号を押した。
「…もしもし、理恵子?」
数度のコールでかかった。相手は研修先の理恵子だ。
『伊織、どうしたの?』
声が普通でないことが分かったのだろう。心配そうな彼女の声に、伊織は涙を零した。
「…律の言葉、もう聞くのいやだ、俺…」
『伊織…』
律の声に理恵子は優しく囁いた。
『日曜日の夜には帰るから。ね、そうしたら会おう?いつもの駅で待ち合わせしよう。…伊織、ごめんね、一人にして』
「…理恵子」
『大好きよ、伊織。大丈夫、大丈夫だから』
「…ん…」
理恵子を冷やかす声が電話の向こうで聞こえる。きっと会社の人間がいるところで理恵子は電話をとってくれたのだ。そして、伊織の心を癒すように、惜しみない言葉をくれている。
「理恵子、好き。だから、早く帰ってきて」
『分かってる。明日も早いんでしょう?ゆっくり休んで』
「…ん、おやすみ…」
理恵子の優しい声を聞いて、伊織はそのままベッドに倒れ込んで目を閉じた。
一番好きだと律が言った。その言葉が今は刃になっている。
なら、どうして。
何度も思う言葉。
ならばどうして留学が決まった際、一番に教えてくれなかったのだろう。
公哉に知らなかったのかと驚かれた、その時の気持ちが分かるだろうか。
公哉も知らなければ、まだ納得できたかも知れない。けれど、教室をやめて律との接点が伊織よりもずっと薄くなった公哉でさえ、律の留学話を知っていたと知った時に伊織の心は凍り付いた。
裏切られたと思ってはいけなかったのだろうか。
あの時、律にとっても伊織にとってもお互いが何よりも誰よりも一番近くて一番大切で、一番に理解してもらいたい人だったはずではないのか。
指が痛んで仕方がない。
雨の湿気が指を痛ませる。
けれど、それよりもずっと心が痛かった。
その痛み全てがこの指の痛みにすり替わってくれた方がどれほどよかったかと思えた。
「…もう、嫌だ…」
もしかしたら律は伊織を裏切った気はないのかも知れないと、今更に思った。
だから、今更一番好きだなどとあの時言ってほしかった言葉を今更に口にするのだ。
どうせ、またドイツへと旅だってしまって、伊織の前からいなくなるというのに。
自分は後悔を残すことなく旅立つために、伊織に言ったのかも知れない。
きっとそうだと思って、律はぎゅうっと身を縮めた。
「…律…」
胸の痛みが5年前と少しも変わらない痛みであることを無視して、律は目を閉じた。
もう、何もかもを投げ捨ててしまいたかった。
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2007.6.10
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