覚えているはずがなかった。
 けれど、ほんの少しの期待をこめて、呟いた。
 すると律は言葉を返すことなく、ピアノへと向かうと、すっと手を鍵盤にかざした。
「…あ…」
 独特のスタイルがあると、思う。
 ピアニストとしての風格、これがプロなのだと、ピアノの前に座った律を引きつけられるように見つめて、伊織は息を飲んだ。
 手を鍵盤にかざし、しばし考えるように目を伏せた律は、やがてそっと目を開くと同時にその指を鍵盤の上に滑らせた。
「…あ…」
 ―――――月光。
 初めて教室にいったあの日、律が弾いていたのはこの曲だ。
 あの時も実は先生と揉めていたという。
 発表会で弾く課題曲は本当は違うものだというのに、どうしてもこれがいいといって聞かず、一人で練習していたのだという。
 あんな小さな頃から、我の強さははっきりと表面に出ていたらしい。
 流れるようなメロディー、けれどこれは桐原律にしか出せない音だ。
 彼が天才と呼ばれるゆえんはその正確さにもあるが、他のピアニストたちには出せない音を出すという。鍵盤を叩く指の強さの強弱が他のピアニストよりもずっと繊細で、その繊細さを強調するかのように曲の速さも独特だった。
 律は音楽を吸収し、そして自分の色をつけて外に出す。
 ピアノという道具を手にして、彼は自分だけの音を奏でる。
 桐原律というピアニストはピアノそのものなのだ。
「……」
 やがて、曲が終わった。
 とたん、あちこちから拍手が響いた。
 あのピアニストが桐原律だと知らずとも、その腕の妙は分かるのだ。
 まして、ここにいる客はCDの音に我慢できずに生音を求めてここにきている耳の肥えたものばかりだ。
「素晴らしかったですよ」
 席に戻ってきた律を労うように、藤堂が律のグラスに酒を注いだ。
「伊織くんのピアノとは全く違うピアノだ。さすがは世界を知る人だということでしょうか。けれど、こういうバー向きではないですね。皆、ピアノに気が向きすぎて、酒を飲んでくれない」
 そう言って、藤堂は伊織を見た。
「うちには伊織くんのような、明日への活力と、その日の労いをくれるピアノが向きです」
「藤堂さん」
 気を遣ってくれているのだろうかと、伊織が苦笑すると、そうですねと律が口を開いた。
「…俺も先生によく言われました。公哉の優しさと、伊織のいたわりの音をもっと感じなさいと。俺の音はいつも攻撃的で、俺しか表さないから…」
 ぽつんと呟いて、律はそっとグラスを両手で抱えるように持った。
「俺はいつも失敗する、傷つけたくないと思ってしたことがもっと傷つけていて、本当は自分が傷つきたくなかったせいなんだと、いつも後になって思う。俺の優しさもいたわりもいつも自分勝手で、少しも他人のことを考えていない。当たり前のことなんて少しもないのに、音だけで伝わるなんて、あり得ないのに、いつも願ってしまう」
 律はぽつりと呟いて、小さくため息をついた。
 その姿に皆が黙り込んだ時、理恵子がいきなり立ち上がった。
「わたし、帰るよ、伊織」
「え、どうして」
 慌てる伊織に理恵子はにっこり笑った。
「駅まで送って、伊織。藤堂さん、ちょっとだけ伊織借りますね」
「どうぞ」
 藤堂から許可をもらうと、呆気にとられている公哉と律を置いて、理恵子は伊織の腕を引っ張って店の外に出た。
「理恵子、どうしたの」
「…助けてあげて」
「…え…?」
 見ると、理恵子はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「おまえ…」
 慌てて伊織がハンカチを差し出すと、それをとって理恵子は涙を拭った。
「…あの律って人、すごくつらそうなのよ。きっとすごくすごくつらいことがあったと思うの。ねえ、伊織、ちゃんと律さんに話をしてあげて」
「…理恵子…」
 公哉と同じ事をいう。
 理恵子は何を見てそう思ったのか、涙を流しながら伊織をじっとすがるように見た。
「今、伊織のところにいる人って、あの人なんでしょ。…あの人、すごくつらいことがあったように見えるの。ねえ、伊織、伊織なら分かると思うの。助けてあげられないの?」
「……」
 理恵子の言葉に伊織は下を向いた。
 理恵子のいうことが本当なら、助けてやりたいと思った。
 けれど、けれど。
「…あいつが話したら、聞くよ」
 いつも問いかけるのは伊織だった。
 律の言葉は伊織の言葉の後で、少しも彼の感情は見えなくて。
 それでも心は伊織を向いてくれていると思っていたから、気にしなかった。
 あの日、皆と同じ立場で留学を告げられるまでは。
「…伊織がそれを言うの?」
「…え?」
 思い出して、顔を伏せた伊織に理恵子はハンカチを握りしめた手で伊織の胸を叩いた。驚く伊織に理恵子は怒った顔で少ししゃくりあげながら強く言った。
「伊織だって、何もわたしに言わないじゃない。伊織のその指、どうして痛いのか、どうしてそうなったのか、話してくれないじゃない。心の中で何を考えているのか、それも話してくれないじゃないのっ。好きっていうのもわたしで、伊織はその後俺もっていうだけ。…ねえ!」
「………!」
 理恵子の影にその時の自分の姿が重なった。
「もって、何っ?ねえ、どうして伊織の言葉をくれないの。わたしは伊織の何なの!」
『律にとって、俺って何なんだよ!』
 伊織は理恵子の言葉にあのころの自分の言葉を重ねて体を強ばらせた。
「…ごめ…、理恵子…」
 残酷なことをしていた。
 言葉をもらえないつらさを伊織も知っていたくせに、どうして同じことができたのだろう。
 伊織が言葉をなくして俯けば、理恵子が囁くように言った。
「…今度からちゃんと伊織の言葉をくれたらいい。けどね、あの律さんって人、伊織から問いかけられるの、待ってる気がする。それまで自分は何も言っちゃいけないんだって、そういうふうに考えている気がする。…あの人のピアノはすごく切ない」
「…理恵子…」
 理恵子の言葉に彼女の肩をそっと抱くと、伊織は行こうと駅へと足を向けた。
「…あいつと、話をしてみるよ。それで許してくれる?」
「うん」
「今度から俺も理恵子から聞かれる前に言う。それから、理恵子が好きだよ」
「…うん、わたしも好き」
 も、の部分に力を込めて、理恵子は微笑んだ。
 とても幸せそうに肯定の言葉を口にした理恵子に伊織も微笑んだ。
 その理恵子を駅まで送ると、伊織は店へと足を向けた。
 理恵子にはああいったものの、律と話をするというのはかなり伊織には苦痛だった。
 律と話すということは過去の日を呼び覚まさなければいけない。
 伊織は気が重いと思いつつ、店のドアを開けた。
「…おかえりなさい」
 ドアを開けると、藤堂が微笑みで迎えてくれた。
 その藤堂にただいまと笑い返すと、伊織は律の隣にたった。
「…律」
「…伊織」
 呼び捨てで名を呼べば、律の顔が嬉しそうにとろける。その顔に伊織は口を開いた。
「何かリクエストはないか、さっきの礼に弾いてやるよ。俺でよければ」
 伊織の言葉に律はさあと顔を紅潮させて、ならと、子供のようにはしゃいだ声を上げた。
「連弾、してくれないか。伊織ともう一度、連弾したい」
「……」
 あの頃、よくやった遊びだ。伊織は分かったと頷くと、律とピアノの前に座った。
「曲は?」
「何でもいい。…流行のでもいい」
 伊織が尋ねれば、律はそう答え、ならばと伊織は流行のバラードを弾き始めた。やがて、その音に律がついてきて、弾き始める。
 客たちが喜んでいるのが空気で分かる。
 そう、いつもこうやって遊んでいた。
 律の音に伊織があわせ、伊織の音に律が合わせた。そこに言葉はなくて、ただピアノさえあればすべてが通じた。
 けれど、やはり言葉は必要だったと伊織は思った。
 でなければ、あんな寂しい思いをすることもなかった。
「伊織、これは分かるか?」
 一曲終わったと思うと、律が違う曲を弾き始める。それに伊織が追いかけるということを繰り返して、ピアノの音は途切れない。
 手がしびれてきたなと思ったが、律が実に楽しそうで、その顔を曇らせたくないと不意に思って、伊織は何度も律に付き合った。
 それこそ、閉店しようとした藤堂に声をかけられるまで引き続けていたのだから、公哉があきれた顔をしたのも無理がない。
「まったくー、二人して遊んでんじゃないっての」
「まあ、なかなか聞けない貴重な演奏を聴けて、わたしは嬉しかったですよ」
 賄いを食べる暇もなく弾いていた伊織に藤堂はもって帰れるようにと、賄いを折りにしながら、公哉を宥めてくれた。
 公哉がぶつぶついうのに、律と二人でぺこぺこと謝っていると、どこかであの頃に戻ったような気がした。
 あの時も二人だけで通じ合っていて、公哉に仲間はずれにするなとよく怒られた。
 本当に通じ合っていたのだろう。
 だから、言葉がなくても、黙っていても許されると、誤解したのだろうか、律は。
 言葉の少ない律の中から、確かに伊織は律の気持ちを見つけるのがうまかったけれど、それでも言葉は欲しかった。
 ――――誰よりも一番おまえのことを何でも知りたいと、いつも思っていたんだ、律。
「はい、これを。公哉くんと律くんの分もありますから、もって帰ってください。それから今日の公哉くんと律くんのお会計は素晴らしい演奏のお礼にわたしが奢らせていただきますね」
「うわ、ありがとう、正輝さん!」
 公哉が諸手をあげて喜ぶ横で、律も包みを受け取って頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
「いいえ。またおいでくださいね」
「…できれば、来たいです」
 律は少し寂しそうに答えて、頷いた。その横で伊織も包みを受け取りながら、じゃあと藤堂に頭を下げた。
 伊織のバイトは終電の時間までと決まっている。伊織本人は店から歩いて帰られるのだが、伊織のピアノが途切れた時が終電が出る頃なのだと、客に知らせるためにそうしているのだ。無粋でない、知らせ方でしょうと、以前藤堂が笑っていたことを思い出す。
「じゃあ、俺はこっちな」
 三人揃って藤堂に礼を言い、店の外に出ると、電車で帰る公哉はご機嫌で手を振って駅へと歩いていった。
 足下がどこか踊っているのに、酔っぱらっているなと伊織は苦笑した。
「あーあー、公哉、飲み過ぎだ」
「…ああ、結構飲んでたから」
 伊織の言葉に律が頷く。その律に伊織はこっちだと自宅へと足を向けた。
「あのバイトは長いのか?」
 不意に律が問いかけてきたのに、伊織は珍しいなと思いながら頷いた。
 こんなふうに伊織のことで律が尋ねることはあの頃はほとんどなかった。とはいえ、聞かれる前に話してしまっていたことは分かっていたが。
「長いっていうか、大学に入った頃からだよ。大学の側にノクターンがあるだろ。…ちょっとあった日にな、あの店にふらっと入ったのがきっかけで雇ってもらったんだ」
 大学に入ってすぐのことだった。
 伊織は気まぐれであの店に酒を飲みに入り、不意に有線で流れてきた律のピアノに思わず泣いてしまったことがあった。
 藤堂はそんな酔客に何も言わず、カウンターの一番奥に伊織を座らせ、泣きやむまで放っておいてくれた。
 それから、伊織は藤堂を慕って店に通うようになり、事故が原因で断念したけれど、ピアニストになりたいという夢を持っていたのだと話すようになった。
 そしてある日、言われたのだ。ピアニストとして店でピアノを弾いてみないかと。
「ピアノなんかもう二度と弾かないって思ってたけど、あそこでなら弾ける」
「…そうか…」
 律の目が嬉しそうに細められて、伊織を見つめた。
「聞きたいことがたくさん、あるのだけど、聞いてもいいか、伊織」
「…え?」
 そして、そんなことを言う。
 驚く伊織に律は俯いて、少し顔を赤らめながら、どこか照れくさそうに言葉を選びながら言った。
「俺はたくさん、伊織に聞きたいことがあるんだ。俺自身も話したいことがたくさんある。…許して、もらえるだろうか」
「……」
 律の目がまるでそのために日本に帰ってきたのだと、言いたげに伊織に訴えかけてくる。
 その目に伊織はいいのだろうかと、思った。
 もう一度、期待していいのだろうかと、心が躍るのを必死で諫めながら律を見た。
 どこかで理恵子の聞いてあげてと言った言葉が後押しする。
 この想いは理恵子への裏切りになるかもしれない。
 けれど、そう思いたい。
 思って、期待したいと強く思った。
「…律」
「…うん」
 成長して、あの頃よりもずっと大人びているのに、律は出会った頃とまったく同じ目で伊織を見つめて微笑んでくれた。
「おまえの言葉で、おまえの中の真実を話してくれるなら聞く。誰よりも一番おまえのことを話してくれるなら、聞くよ」
『律くん、ドイツにいくんだってね』
 他の誰かからもう二度と律の話を聞きたくない。
 我が儘だと言われても律のことを一番知っていたいと、知っていると思いたいと心が飢えているから、その飢えを癒したかった。
「…分かった」
 その伊織の飢えに律は静かに頷いた。
「おまえは話さなくてもいいから、俺のことを聞いていて」
「…律」
 呼べば、律は伊織をじっと見つめて笑った。
 伊織と、その口が動くのを伊織は見ていた。
 あの時、飢えて凍った心が再び動こうとしていた。











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2007.6.2

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