それから、どれほど時間が経ったのか。実を言えば、昨日ほとんど眠れなかった伊織は固いソファーにも関わらず、かなり熟睡していたらしく、体にかけられた毛布が誰の手によるものかなんて分からないくらいだった。
 どうせ藤堂だろうと、事務所から顔を出すと、カフェの営業は終わってしまっていて、藤堂は一人、バーの開店準備をしていた。
「藤堂さん」
「ああ、おはようございます、伊織くん。よく眠っておられましたね」
「あ、すみません」
 やはり毛布は藤堂がかけてくれたようだ。寝顔を見られたと思うと、少し気恥ずかしい。
「開店ですか」
「ええ、そろそろ準備をしないといけなくてね。今日は市倉くんがお休みなので、早めに始めないといけなくて」
「え、市倉さん、休みなんですか」
 市倉というのはバーを手伝っているバーテンだ。伊織よりも少し年上で、柔和な印象の人で伊織にとって兄貴分のような人だった。
「ええ。ご実家で法事があるとかで。今日はまだ週中ですから暇ですし、わたし一人でもなんとかなるので、休んでいただいたんですよ」
「じゃあ、俺、手伝います」
 大変ではないと藤堂はいうが、それでもいつも二人でこなしている作業を一人でとなると、実際は大変なはずだ。伊織が手伝うと、袖をまくったのに、藤堂は一瞬遠慮してみせたが、それでもやはり手があって助かったのか、あれやこれやと指示し始めた。
 その指示に動きながら、体を動かしている方が楽だなと思った。じっとしていると本当にろくな事を考えない。
 昨日、律の顔を久しぶりに見てから、昔の記憶ばかりが思い出される。
 子供の頃の記憶はそのまま律との思い出になって、その後の記憶の方が曖昧だ。
 律のことばかり考えていた子供時代。早く律に会いたいと、そんなことばかり考えて、転びそうになりながら慌てて学校から帰って教室に直行していたあの頃。
 律が笑うから笑えた。
 彼が世界の中心だったから、いきなり律がいなくなってしまった後の伊織は一人で立つことさえ忘れてしまった。
 初恋、なんて生やさしいものじゃない、伊織のこれはもっと深いものだ。
「じゃあ、ピアノの調子、見ますね」
「はい、よろしく」
 粗方の準備が終わったところで、伊織はピアノの前に座った。正確な調律はプロの調律師に任せてあるが、この店にあるグランドピアノは律の自宅にあるものとは別のもう一台の相棒だから、弾く前にいつも自分で多少の調律をしていた。
「…大丈夫そうだな」
 音に異常はない。調子はよさそうだと、伊織は深く椅子に座ると、手始めにと流行のポップスを弾き始めた。
「相変わらずいい音ね」
 その時、バーのドアが開いて、女性の声が聞こえた。
「…理恵子」
 目を向けると、理恵子が入ってきていて、指定席にしているカウンターの、一番ピアノに近い席に座った。
「こんばんは、伊織、マスター。マスター、わたしにキール、ください」
「かしこまりました」
 すっかり準備が整い、昼の顔から夜の顔へと変わった店の中で、藤堂は理恵子のためにカクテルを作り始めた。
「理恵子、リクエストは?」
「何でもいいわ。ただ、優しい曲にして」
「了解」
 理恵子の言葉に伊織はずっとヒットチャートにのっていた、某アイドルグループの曲を少しアレンジしながら弾き始めた。
「……」
 理恵子が目を細めて伊織を見つめているのが分かる。
 何か会社でいやなことでもあったのだろうか。
 理恵子はある設計事務所に事務員として勤めている。社会に出るといやなこともあるのよと、時々疲れた顔で笑っていた。彼女が優しい曲をとねだる時はそのいやなことがあった時だ。
 ピアノで彼女の心労が癒せるならと伊織は心を込めて弾いた。
 理恵子という女性には伊織が救われていたから、とても。だから、自分のできることがあるなら、その優しさに返してあげたいと思っていた。
「いらっしゃいませ」
 藤堂の声が響く。常連客が顔を出し始めたようだ。
 理恵子のためにと弾いていた曲が終わると、リクエストが入ってくる。ピアノで弾けるもので、知っているものならと伊織は結構なんでも引き受ける。とはいえ、たまに分からないものもあって、それが悔しくて実費でいろんな曲の楽譜を集めてしまった。おかげでレパートリーだけは異常に増えて、どこの店にでも行けると藤堂にいったら、どこかに行かれては困りますと笑われた。
 事故の後遺症で以前と同じようには動いてくれない右手の人差し指と中指が焦れったいが、それでもピアノを弾いていることが楽しかった。
「やあ、いらっしゃいませ、ご無沙汰でしたね」
 その時、またドアが開いて、誰かが入ってきたのだが、その人物への藤堂の対応が違って、伊織は顔をそちらに向けた。
「あはは、忘れられないうちにと来ましたよ、正輝さん」
 正輝と、藤堂の名を呼ぶのはこの店では本当に一握りしかいない。
「や、理恵子ちゃん、伊織」
「公哉」
 公哉だった。華やいだ印象を身にまとって、公哉は店の中に入ろうとして、足を止めた。
「おいこら、何やってんの。中に入るよ」
 何か、店の外で揉めている。ピアノを弾きながら、伊織が怪訝に見ていると、公哉に腕を引っ張られて律が入ってきた。
「……!」
 思わず、一音外してしまった。
 小さく舌打ちをして、それでも伊織は何もなかったようにピアノを弾き続けた。
「お久しぶり、忠野くん」
「うん、久しぶり、まだ伊織と付き合ってんだって?」
 公哉は理恵子の隣に一席開けて座ると、軽口を叩いた。その公哉に理恵子は笑う。
「そう、付き合ってるの。プロポーズしちゃったし」
「うわー、俺がプロポーズしようと思ってたのに、理恵子ちゃんに」
「もう、またー」
 楽しげに笑い合う理恵子と公哉の声が聞こえる。背中を向けていても分かる、きっと二人とも笑顔でいるだろう。だが、その公哉の隣に座る律はどんな顔をしているのか。
 また、指が痛み出したのに、伊織は今の曲が終わったら休憩しようと、テーブルにカクテルを運んでいる藤堂を見た。
 休みたいという伊織の表情に藤堂は分かったと軽く頷いてくれて、少しだけホッとした。
「……」
 やがて、曲が終わる。伊織は最後まで弾き終えると、理恵子の元へと歩み寄った。
「伊織、はい」
 公哉と理恵子の間に座った伊織に理恵子はおしぼりを渡してくれた。
「指、痛い?」
 たまに指が痛むことを知っている理恵子が伊織の様子がおかしいことに、また痛み出したのかと顔をのぞき込んでくる。
 その心配そうな顔に伊織は殊更明るく笑った。
「平気、大丈夫。それより公哉とあんまり話しちゃだめ。こいつ、手癖悪いから」
「大丈夫よ、伊織しか見てないし」
 理恵子は酒の効果もあってか、少しほおを染めて笑った。
 愛らしくて可愛い理恵子。大丈夫、彼女を思っていれば律の存在に振り回されたりしない。
「あ、ねえ、忠野くんのお友達なの?そっちの人」
 その理恵子が律に興味を抱いて目を向けた。
 律が驚いた顔をして、理恵子を見る。その律の顔に理恵子はにっこりと笑った。
「わたし、三ツ木理恵子。伊織の彼女さん、やってます」
「俺…」
 律は何か言おうと数度口を開き、だが何を言っていいのか分からないという表情で口を閉ざしてしまった。
 その様子に伊織は腹が立ってきて、文句を言おうと口を開いたところで公哉に制された。
「こいつ、桐原律。俺と伊織の昔のピアノ仲間。一番の出世頭でもあるけどね」
「…桐原律」
 理恵子はその名に、まじまじと律を見ていたが、やがてはっと気づいたように小声で伊織に囁いた。
「あの、桐原律って、あの桐原律?」
「…あのってなんだよ、それ」
 理恵子のおそるおそるの言い方に、なんだか律の態度にむっときているのが馬鹿らしくなってきて伊織はくすりと笑った。
「…そ、理恵子の考えているとおりの人」
「そうなのー、へえ」
 至極関心して、それから理恵子は伊織を見た。
「だから、伊織のピアノは素敵なのね」
「…え?」
 何のことだと伊織がきょとんとすると、理恵子はとろけるような甘い笑顔を向けた。
「だって、桐原律って、子供の頃から天才って言われてたピアニストなんでしょう。その人とずっと仲間って言っていられるっていうの、すごいことよ。そんな天才が目の前にいたら、わたしなら拗ねてしまって、きっとその天才もピアノを嫌いになるわ。けど、伊織はピアノを続けてるもの。桐原律を仲間っていえる。だから、伊織のピアノは元気になれるのよ」
「…理恵子…」
 最高の賛辞だと、伊織は微笑んだ。
「俺のピアノは元気になれる?」
「うん、なれるよ。優しくしてくれるもの、すごく。だから、伊織も伊織のピアノも好きよ。…ずっと弾けたらいいのにね。まだ、指、痛い?」
「もう、大丈夫」
 伊織が続けてピアノが弾けない理由を理恵子は疲労よりも指の痛みのせいだと知っている。
 一度折ってしまった指は完全に元には戻らず、歪に曲がり、力が入りづらいために鍵盤を叩くという作業には適さない。長く続ければ、指が痛んでくる。
 ぎゅっと指をさする伊織に理恵子は自分の方が痛そうな顔をしている。
「律」
 その時、公哉が酒を飲んでいる律に声をかけた。
「おまえ、伊織の代わりに何か弾いてよ」
「公哉」
 驚く伊織に公哉は構わず言う。
「ほら、何でもいいから、一曲、弾いて」
「……」
 公哉の言葉に律はぐっと手にしていたグラスの中身を飲み干すと、椅子から立ち上がった。
「何がいい?」
 そして、伊織と視線を合わせて問いかけた。
「…え、あ…」
 瞬間浮かんだ曲があった。
 けれど、伊織はこらえて、隣の理恵子を見た。
「…理恵子は何が聞きたい?」
「伊織」
 だが、理恵子が言葉を返す前に律が再度伊織を呼んだ。
「伊織は何がいい?」
「……」
 理恵子の困った視線と、公哉の怒った視線を感じる。ただ、律だけはその底の見えない目でただ伊織を見ていた。
「…俺は…」
 伊織は下を向いて、小さく呟いた。
「…おまえと初めて会った時の曲を…」











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2007.5.27

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