伊織は律が起き出す前に部屋を出た。

 行く当てはないけれど、律と顔を合わせるのがいやで早くから開いているコーヒースタンドに立ち寄って時間を潰し、大学が開くと同時に構内に飛び込んだ。

「あれ、早いねー」

 授業まで時間を潰そうと、構内のテラスで缶コーヒー片手にぼんやりしていると、そこに見知った青年が近づいてきた。

「まあなー」

 誰だっただろうと顔は分かるのに名前が分からないと思いつつも、愛想よく笑って手をかざした。

「たまには真面目にやろうかと思って」

「またまた、緒方、大抵真面目に授業に出てるだろー」

 言いながら、たばこに火をつけた男に伊織はさりげに風上に体を動かした。

 バーでピアノ弾きをしているくせにと言われるだろうが、伊織はたばこが嫌いだ。

 以前ものは試しで吸った時にひどくむせてしまって、それからいやになってしまった。

 一種のトラウマのようなものだろうかと、伊織は思っていた。

「…あれ…」

 その時、男が怪訝そうな顔をした。

「あんなやつ、いたっけ、うち」

「…え?」

 男がじっと見ている先に目をやって、伊織は思わず立ち上がった。

「あいつ…」

 律だった。なぜかきょろきょろと首を動かして、何かを探しているようだ。

 その姿に伊織は手にもっていた缶コーヒーを飲み干して、ゴミ箱に缶を放り込むと慌てて律に駆け寄った。

「…律…ッ!」

 できるだけ小声で、けれどはっきりと律には聞こえる声で呼べば、律はふっと表情を和らげた。

「…伊織」

「何してんだよ、こんなとこで」

「……」

 思わず険しい表情できつい言葉で言えば、律はふっと表情を曇らせた。

「…朝、起きたらおまえがいないから、どこに行ったのかと思って…」

「大学にいってるって行っただろ。…ったく、公哉だな、ここのこと話したの。どうすんだよ…」

「…ごめん…」

 伊織が髪をかきむしって困った顔をすると、律は心底悪いと思ったのか、すまなそうに俯いた。

 その顔に伊織はどうしようかと悩んでいたが、構内に人が増え始めたのを感じて、逆にまずいと思った。

 律自身は日本にいなかったから分かっていないだろうが、日本では若き天才ピアニストとしてワイドショーで何度か律は取り上げられている。見た目も極上の律は特集を組まれることもあって、人の目に何度も入っている。

 それこそ一人でも騒いだらおしまいだ。

「…ちょっとこっち、こい」

「…伊織」

 仕方がないと伊織はぐいと律の腕を掴むとそのまま校外に出ようと足を向けた。

「伊織、大学は…」

「出れるか、馬鹿。おまえのせいで今日の授業、出れない」

「……」

 伊織の言葉に律はどこか悲しそうにしながら、それでも黙って伊織について歩いた。

「伊織、ごめん…」

 大学を出て、少し歩いたところでようやく足を止めた伊織に律は申し訳なさそうに謝った。その律に伊織はふうとため息をついた。

「謝るくらいならなんでくるんだ。おまえな、自分が有名人だっていうこと、自覚しろ。あっちじゃどうだったか知らないけど、こっちじゃおまえ、結構テレビに出てるんだ。おまえくらいになればマネージャーがついてるんだろ、言われてないのか?」

「……」

 黙って俯いた律に伊織はふうとため息をついた。

「昨日もちょっとおかしいと思ったんだけど、おまえ、マネージャーは?おいてきたのか?」

「……」

 まるで言いたくないといわんばかりに律は唇を閉ざした。伊織よりも背の高い律の顔はたとえ俯いても伊織からはどんな顔をしているのかよく見える。

 なぜかひどく傷ついた顔をしているのに、伊織はもう一度ため息をつくと、ぐいとその手を引っ張った。

「こっちこい、ここだと目立つから」

 学生たちが増えてきている。律と伊織にたいして、ひそひそと囁くような声が聞こえてきて、騒ぎになる前にと伊織は律を先導して歩き始めた。

 後ろを歩く律に伊織は何だかひどく焦れ初めていた。こんなに気弱な顔をするのはどうしてだろう、と。

 出会った最初の印象こそ、どこか頼りなげだったが、律はいつも強引なくらい強気だった。天才という名を一身に受け、その名を当たり前のように感じているようにみえた。

 なのに今の律にその様子は見られない。ドイツに渡っている間に何かあったのだろうか。

 聞けばきっと答えるだろう、けれど聞きたくはなかった。

 律から話して欲しかった。いつも伊織ばかりが話し、伊織ばかりが律に尋ねていた。だから、今度は律の言葉を律の意志で話して欲しかった。

「ここ、入るから」

「…分かった」

 伊織が差したのは「ノクターン」という名の一軒のカフェ。

 実は伊織のバイト先でもある。昼間はカフェとして店を出しているが、夜になればバーになるのだ。ピアノの生演奏とカクテル中心の酒が評判の店だった。昼は昼でうまいコーヒーを出していて、店の雰囲気もいいために、ファンは多い。バイトを始める前から伊織の気に入りの場所だった。

「藤堂さん」

「ああ、いらっしゃい、伊織くん」

 ドアを開け、中に入ると、いつもどおり愛想よくマスターの藤堂が微笑んでくれた。四十を少し過ぎたばかりに見える藤堂は目尻に皺をよせ、優しげに伊織を見た。

「コーヒー二つください。んっと、奥いいですか?」

「どうぞ」

 藤堂の許可をもらって、伊織は律をカウンターの奥へと座らせた。ここなら死角になっていて、店に入ってきた客から律が見えない。

「どうぞ」

 水とおてふきを藤堂からサーブされて、伊織は律を見た。

「朝飯、食べたのか?」

「まだ、食べていない」

 案の定だと伊織は藤堂を見た。

「藤堂さん、モーニングひとつ追加、お願いします」

「分かりました」

 カウンターの中の藤堂に声をかけ、伊織は律を見た。

「おまえ、本当に朝から俺のこと探してたわけ?」

「……」

 伊織の言葉に律はこくんと頷いた。

「朝、起きたら伊織の気配がなくて、出ていったって思ったら、不安で仕方がなくて、迷惑かも知れないのは分かっていたけど、大学にいるかも知れないと思うと、いてもたってもいられなくなってしまって。…伊織に大学をサボらせる気はなかったんだけど」

「…なんかなあ…」

 あの時、置いていったのは律の方だというのに、置いていかれることには不安を感じるということか。

 なんて自分勝手なと思ったが、それくらい自己中心的でなければ芸術家になれないことは分かっていた。

 一種神懸かり的なインスピレーション、他の誰にも左右されない意志の強さ、ただ音楽を奏でるということだけにすべてを明け渡している。

 その姿を伊織はいつも律の中に見ていた。

 まだ子供といえる年齢だというのに、自分を指導している先生に曲の解釈で食ってかかっている姿を何度も見た。

 こういうふうに弾け、と言われても、自身の中の解釈と違えば、絶対にその言葉には従わない。律のピアノはいつも激しく大きくて、一種セオリーを無視してもいたはずだ。

 あんなふうには弾けないと、律のピアノを聞くたびに思った。軽い挫折感も味わった。けれど、そのたびに伊織は伊織のピアノを弾けばいいと思っていた。

 そうして自分さえ見失わなければ律と一緒にいられると思っていたのに。

「おまえはやっぱり自分勝手だよ」

「…伊織」

「何考えて帰国したんだか。俺には分からない」

「……」

 律はまた黙り込んでしまって、伊織は小さくため息をついた。

「藤堂さん」

「どうしました?」

「なんか面白い話、ないですか?」

 律が黙り込んでしまって、伊織は退屈だと主張するように藤堂に声をかけた。すると彼は小さく微笑んで、律と伊織にコーヒーを、それから律の前だけにトーストのセットを置いた。

「面白い話、と言われましてもね。伊織くんのお眼鏡にかなうようないい話のストックはありませんよ」

「嘘ばっか。藤堂さんのさ、恋愛話とか、ないんですか?」

「恋愛ですか…」

 伊織よりも随分年上の彼の中に何もないはずはないと伊織が問えば、藤堂は軽く苦笑した。

「わたしの恋愛話は面白い話ではありませんよ。惚気て差し上げるような相手もいませんし。そんなことより伊織くんこそ、どうなんですか?理恵子さんとは?」

「理恵子とはうまくいってますよ。あんないい女、逃したら、それこそ罰が当たる」

「そうですね」

 惚気られたと藤堂は笑って、他の客にコーヒーを持っていった。

「…伊織」

「何?」

 ずっと黙っていた律が声を上げたのに、伊織は首を傾げ、律を見た。

「理恵子って、彼女?」

 伊織をじっと見る律、けれどその顔は何の感情も写していない。その律に伊織はまるで見せつけるように大きく頷いた。

「ああ、昨日電話してた相手。付き合ってるよ」

 事実を言ったはず。なのになぜか、付き合っていると言った瞬間に何かが逃げた気がした。

 手の中から、何かが逃げてしまった気がして、伊織は思わずコーヒーカップを持つ右手を見た。

 いや、元々この右手では何も掴めないはずなのだ。カップの持ち手を握るのすら、どこか不便に見える曲がった指。こんな指で何も掴めない。

「もう一年になる。いい子だよ」

「…幸せ?」

 不意に問いかけられて、伊織は微笑んだ。

 そうだと答えるつもりで口を開いて。

「おまえがそれを言うのか」

 だが、口から転がり出た言葉は全く違うもの。

 けれど、そう思った。

 想いを見せびらかされながら、結局告げてもらえなかった言葉。伊織から告げることさえ許されていないかのように、彼は姿を消した。

 なのに、今問われた言葉はなんだというのか。

「俺が幸せかどうかなんて、どうしておまえが聞くんだ。おまえにだけは聞かれたくない」

「…ッ…」

 律が息を飲んだのが分かる。小さくごめんと呟かれた言葉に伊織は右手が不意に痛み出して、左手で包み込むように握った。

 あの日、律が出発しようとした日に本当は伊織も見送りにいくつもりだった。

 律には何も言ってもらえなかったけれど、それでも最後に一目、律の顔が見たくて、その衝動に突き動かされるまま、空港へと向かったのだ。

 だが、その時に伊織は事故にあってしまった。

 その後遺症がこの曲がった2本の指。

「なんで今更日本に来たんだよ…」

「…伊織…」

 律はぐっと拳を作ると、席を立った。

「…おまえを傷つけてばかりいるんだな、俺…」

 そういうと、律は藤堂に代金を支払うと、店を出ていってしまった。

「伊織くん」

「…藤堂さん」

 出ていく律の足音だけを聞いて、伊織はその背を見ることもなく俯いていた。その伊織に藤堂は声をかけ、肩を優しく叩いた。

「…何があったのかは知りませんし、聞きません。けれど、そんな顔をしている君を放って置くことなんてできません。…奥で休んでらっしゃい。なんでしたら、バイトまで奥で眠っていてもいいのですよ。君はひどく疲れているようだ」

「すみません…」

 優しさに縋っている。けれど、突っぱねるだけの強さも今の律にはなくて、藤堂の優しさに甘えて奥の事務所に入ると、そこに置かれたソファーに横になった。

「…なんで今更…」

 ようやく忘れられたと思っていたのに、今更現れて、心を乱す。

 幼かった恋心がリアルに蘇って、現実味を帯びていく。

 理恵子が好きだという想いと、律への想いは何か根本的に違うということを伊織は分かっていた。

 後少し待ってさえくれていれば、こんなにも動揺することもなかったはずなのに。

 伊織はきつく目を閉じて、必死で眠ろうとした。

 ただ、そうすることが伊織にできることの最良だと思っていたから。











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2007.5.19

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