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「…公哉、これは…」
「律ね、1ヶ月ほど日本に帰ってくることになったんだって。それで仮住まいを探してるっていうからここに連れてきたんだよ。伊織、ルームメイト探してるって言ってたじゃない」
「それは、そうだけど…」
元々この部屋は公哉も知る友人と一緒に借りた部屋だった。だが、その友人は付き合っていた彼女に子供ができてしまい、それを機に大学を辞め、先月彼女の実家のある九州にいってしまった。そのため、一人で払うには高すぎる家賃に伊織はルームメイトを捜していたのだが。
「…でも、俺…」
確かに少ない仕送りとアルバイトだけでは二人で払っていた家賃や光熱費を一人で支払っていくのはかなり苦しい。背に腹は代えられぬとはいうけれど、律だけは嫌だと思った。
「確かに1ヶ月っていう短い期間だけっていうのは伊織の意図とは違うと思う。けど、1ヶ月だけでも助かるならいいんじゃないの?その間に他の人をのんびり探すこともできるじゃない」
「……」
どうして伊織が難色示すのか、公哉は知っているはずなのに、知らぬ顔をして話を逸らす。その公哉に伊織はぎりぎりと胃の痛む思いをしながら目線をきつくした。
「…たった1ヶ月ならホテルでも泊まればいいじゃないか。それくらいの金、持ってるはずじゃないのか」
あの、桐原律なら可能なはずなのだ。その程度くらいは。
伊織は膝の上に乗せた手をぎゅっと握りながら、律を見ることなく、テーブルを睨み付けた。
桐原律、という男はピアニストだ。高校在学中に高名な音楽家に見いだされ、ドイツに留学。去年、有名なチェリストのコンサートツアーに参加し、そのピアニストとしての腕はもちろん、モデル顔負けのルックスにファンもつき、現在3枚発売されている彼のCDはどこのCDショップでも品薄の状態が続いているという。それほど稼いでいるはずの男が1ヶ月程度のホテル代が払えないはずはないのだ。
「久しぶりの日本でしょ、ホテル暮らしなんて味気ないこと可哀想じゃない」
だが、その伊織の抵抗に公哉はにっこりと笑って押し切ろうとした。
「僕のところは実家で部屋も余ってないし、桐原は高校1年になったばかりの頃に向こうに渡っているから僕ら以外に親しい友達なんていないからね。こんな時くらい旧友として、部屋を貸してあげたら?」
「…公哉…」
思わず睨み付けるた伊織に公哉は涼しい顔をして重ねて言う。
「まして今、伊織には伊織を理解してくれてる理恵子ちゃんがいるじゃない。問題ないでしょ」
「……」
なんだか、瞬間気まずかった。
なぜか理恵子の名を公哉が出したことが決まり悪くて、律がどう思っただろうと、気になってしまった。
気にするはずなんてないのに。
律は誰も気にしない。するはずがない、あの時だって。
「…伊織」
「…ッ…」
記憶よりもずっと低い声。けれど、優しい声の響きに思わず伊織はその声の方へと振り向いた。
「……」
律が笑う。
呼びかけに伊織が振り向いたことがとても嬉しいのだといわんばかりに律ははにかむように笑ってみせた。
「…なんだよ」
こんな顔で笑う男だっただろうかと、伊織は胸が苦しくなりながら、律を見た。その伊織に律は穏やかな口調で頼み込んだ。
「…迷惑なのは分かっている。けれど、1ヶ月だけでいいからおいてくれないか。その間の家賃も払う。光熱費なども支払うし、他に何か条件があるなら従うから」
「……」
縋るような目に伊織は息を飲んだ。
もう過去のことのはずだ。それは伊織だけではなく、律だってそのはずで、もう終わったことなのだ。
なのに、どうしてそんな目で見て、過去の記憶を揺り動かそうとするのだろう。
「はい、じゃあ決まり」
「…ぁ…」
公哉の声に瞬間、律と見つめ合っていたことに伊織は気付いて慌てて目を反らせた。
その伊織の肩をぽんと叩くと、公哉はまるでグラビア写真のアイドルのように完璧な笑顔を見せた。
「1ヶ月、よろしく、伊織」
「え、ちょっと公哉!」
そう宣言して出て行こうとする公哉を慌てて伊織は追った。
だが、公哉は耳を貸さず部屋を出てしまい、それでも伊織は諦めずに階段前で公哉を捕まえた。
「どういうことなんだよ、公哉!」
「僕、理恵子ちゃん、気に入ってるんだよね」
捕まえて文句を言おうとした伊織に公哉はなぜかそんなことを言って、むすっとした表情で伊織を見た。
「…なんだよ、それ」
「……」
公哉はその伊織に至極大袈裟にため息をついた。
「伊織さ、君、女の子、とっかえひっかえしてるっていうの、自覚、ある?」
「……」
確かに交際期間が短く、長続きしないことは自覚している。けれど、理恵子とは1年続いているし、それは過去のことになるのではないだろうか。
何を言うんだと怪訝に眉を潜めた伊織に公哉はふうと肩を竦めた。
「自覚、ないみたいだからいうけど、初恋をきちんと終わらせないのはよくないと思うんだ、僕」
「…それは…」
口を開きかけ、それからまた黙り込んだ伊織に公哉はもう一度ため息をついた。
「理恵子ちゃんは伊織とのこと、ちゃんと未来まで見て考えてる。本当、あんなにいい子じゃなければ僕だってこんなこと、しない。伊織の付き合う子って、大抵伊織のその軽そうな可愛い外見にだけ惹かれてたから気にもしなかった。まあ、理恵子ちゃんだって、最初は伊織の外見が好きになったんだろうけど、今はちゃんと伊織の内面も見てる。そんな子を伊織の過去の亡霊のために傷つけたくないんだよ」
「…公哉」
お節介なと文句を言いたかった。けれど、公哉の目の中に本当に心配しているのだと訴えるものがあって、伊織は肩の力を抜いた。
「分かった。1ヶ月、あいつをここに置くことで、公哉が満足するならそうするよ。ま、何も変わらないと思うけど」
「…伊織」
伊織の言葉に公哉は眉間に皺を寄せた。
「ちゃんと律と話すんだよ。で、色々決着つけろって。いいな、そうするんだよ」
「…分かった」
伊織は降参とばかりに両手を上に上げた。その伊織の姿に公哉は苦笑しながら階段を下りていった。
「……」
公哉の姿が消えたとたん、ため息が零れた。
部屋には律がいる。
背も伸びて、体格もがっしりとした大人の風貌を見せて、その顔もあの時よりも甘さが抜けてかなり精悍になっていた律。染めることなく黒いままの髪、少しだけ深い青が点るあの目はあの時のままだろうか。
沈んだ思考を振り払おうと軽く伊織は首を振り、部屋に戻ろうとくるりと向き直った。
「…え…」
その視線の先、部屋のドアを開け、心配そうな顔で律が顔を覗かせていた。
「…おまえ…」
「俺、ここにいていいのか?」
驚いて近づいた伊織に律は心配そうな声で尋ねた。
勝手に公哉と二人して押し掛けておいて、何を気弱なことを。
伊織は肩を竦めると、律を部屋に押し込んで、自分も中に入った。
「おまえを追い出したら公哉に怒られそうだからな。1ヶ月だけだし、我慢してやる」
「…そうか…」
その時の顔。
律は整いすぎて表情の見えづらい面に柔らかな微笑を乗せて、至極幸福そうに表情を綻ばせた。親しいものしか悟れなかった律の感情だが、今ならこの顔を見れば誰もが嬉しそうだと言うだろう。
何がここまで彼を喜ばせるのか、伊織は理由を尋ねることなく、ソファーに放り投げておいた上着から携帯電話をとりだした。
「静かにしてろよ」
律に一言告げて、伊織は理恵子に電話をかけた。
今頃家で伊織の電話を待っている。タクシーを降りるときにああ言い残した場合、必ず理恵子は電話がかかってくるまで寝ないで待っているのだ。以前そういう理恵子の性格を分からずに、伊織は電話をしなかったことがあり、翌日泣いて怒られた。何かあったのかとよほど心配していたらしい理恵子に伊織はその後必ず電話するようにしていたのだ。
『…もしもし、伊織?』
「そう、伊織。電話、遅くなってごめん」
思った通り、電話の前でじっと待っていたらしい。1コールで出た理恵子が可愛くて、伊織は電話向こうの理恵子に微笑しながら声をかけた。
「電話握りしめて、待っててくれたんだ?」
『…切るよ、伊織』
「ごめんごめん、愛してるから許して」
その時、がたんと鈍い音がして、伊織はその音の方を見た。そこには律がいて、どうやら膝をテーブルにぶつけるか何かしたように見えた。
おかしなやつだと思いつつ、伊織は律から目を反らせて理恵子に話しかけた。
「それでさ、これから1ヶ月ほど、知り合いが俺のマンションに居候することになったんだよ。で、なかなか部屋に呼べなくなるけど、ごめんな」
『知り合いって、忠野くん?』
「ううん、違う。ピアノやってた頃の知り合い。まあ、機会があったら紹介するけど、相手、男だし、合い鍵で入ったりするなよ。二人っきりになんかなってたら、妬くぞ」
『あはは、分かった』
理恵子は伊織に妬く必要なんてないよと楽しげに笑った。
『お友達とケンカしないで、うまくやるんだよ。前の田淵くんみたいに楽しく過ごせたらいいね』
「…そうだな」
それは無理だと思うよ、理恵子。
胸の奥でルームメイトだった友人の田淵と律は違うのだと伊織は思いながら、それを理恵子にいっても仕方がないとあっさり肯定した。
その後、今度の休みの予定を聞いて、電話を切った。
「じゃ、おやすみ」
『うん、おやすみ、伊織』
ぷっと切れた電話に、余韻を味わうこともしないんだからと、あっさりとした気性の理恵子に苦笑して、伊織は携帯を置いて律を見た。
「……桐原」
名前を呼ぶ時のほんの少しの葛藤。律と名前で呼んでいたから、慣れぬ名字で呼ぶ時はどうしても一拍置いてしまう。
「何?」
先ほどと違い、少しだけ律の表情が暗い。理恵子との電話のせいだろうかと、なぜか思った自分に伊織は内心自嘲した。
あるわけがないのに。
律は伊織を置いていった。捨てていったのだ。その律が伊織の今の恋人を気にするはずがない。
まして、気にしていると伊織が思う必要もない。
「部屋だけど、そっちの右側だから、おまえの部屋。前の同居人がベッドとか布団とか、何もかも置いていったからどれを使ってもいい。後、食事だけど、勝手にやってくれる?俺、夜にバイトを入れてることが多いから、夕飯は外食だし、昼飯は大学の食堂で食ってるんだ。朝しかここでは食べないから、おまえも勝手にしてほしい」
「…分かった」
本当はもっと細かい光熱費のことも話さなくてはならないことは分かっている。けれど、律が真っ直ぐ自分を見てくる目が怖くなってきて、それ以上話すのが嫌になってきてしまった。
「…それから、これ、鍵」
だが、とにかくこれだけはと出ていったルームメイトが置いていった合い鍵を伊織は律の前に置いて、そこで立ち上がった。
「じゃあ、俺、寝るから。勝手にやってて」
「…風呂は?」
「……」
なぜかそこで傷つくかなと、試したくなった。
だから、理恵子とはただ外で食事をして飲んでいただけなのに、あたかもそんなことがあったかのようににやっと人の悪い笑みを浮かべて伊織は律を見ながら言った。
「…外で入ってきたから。家で入る必要、ないし」
「……」
律の顔から表情が瞬間消えた。
体を強張らせて、律は何かに耐えているような雰囲気さえ見せて。
「…おまえだって、彼女、いるんだろ?」
そんな律を見ているのが、伊織にはなぜかとてもいたたまれなくなってきて、思わずそう問えば、律はゆっくりとした動作で首を振った。
「いない。好きな人はいるけど、だめみたいだし。…恋人はその人がいいから、彼女なんていない」
「……」
どこかで期待が喉を鳴らした。
もしかして、もしかして――――。
けれど、その期待を何度も飲み込んで、伊織は何でもないかのように律に言った。
「…そっか、まあ、頑張れよ。俺には関係ないけどな」
「……」
きっとドイツにいる金髪碧眼の綺麗な少女のことを言っているに違いないのだ。
期待してはいけない。期待しても裏切られるだけ、まして今の自分には理恵子という恋人がいる。
伊織は上着と携帯を取ると、自室に入った。
ぱたんと戸を閉めると、伊織はぐっと拳を握った。
「…律だ…」
名を呟いた瞬間、胸がカッと熱くなった。
あの時よりも背が伸びて、体つきも大人の男を示すようにがっしりしたものになっていて、声も人に安心を与えるような低く柔らかい声になっていた。けれど、あの不思議な色の目だけは変わりなくて。
「……」
律は伊織にとって初恋の人だった。それは律だって変わりないはずだった。
出会いは十年以上前になる。
当時、伊織の家の近くに自宅で子供にピアノを教えているピアノ教室があった。
伊織の母親は昔から産まれてきた子供にはピアノを習わせたいという夢があり、その夢を実現させるために小学校にあがったばかりの伊織をピアノ教室に連れて行った。
その頃の伊織といえば、ピアノなんて全く興味がなく、そんなものに通わされたら外で遊ぶ時間がなくなると、必死で抵抗した。
そして、教室で母と先生が話している間にその場から逃げ出したのだ。
待ちなさいという母の声を振り切って、逃げたのはいいのだけれど、自宅の2倍以上ある大きな屋敷の中、案の定伊織は迷ってしまった。
その時、かすかにピアノの音が漏れ聞こえてきたのだ。
物憂げで哀しく、けれど綺麗な旋律に伊織はその音の方へと歩いていった。
「……」
少しだけ開いていたドア。その重いドアを開いて中に入ると、自分と歳の変わらない子供がピアノの椅子にちょこんと腰掛けてさきほどの音を奏でていた。
「…誰?」
「……」
瞬間、よくできた人形だと思った。
瞳がきらきらと輝いて、その中に青い星が見えた。
子供は伊織が入ってきたことに気付いて、演奏をやめると、不思議そうに首を傾げて問いかけてきた。
「い、伊織!緒方伊織!お、おまえは?」
なぜか気をつけ、の格好で体をびしっと直立させて、伊織が名乗れば、子供はにっこり微笑んだ。
「桐原律。よろしく、伊織」
その瞬間、伊織はお姫様を見つけたと思った。
そして、直感で律と仲良くなるにはこのピアノ教室に入るしかないのだと理解して、ちょうど伊織を追ってやってきた母にピアノを習うと宣言した。
その後、お姫様は実は王子様で、その頃はまだ伊織よりも小柄だったために年下だと思っていたのだが、実は同い年で、このピアノ教室で天才と呼ばれている少年だと伊織は知った。
とはいえ、最初の予想と違っても、本当に楽しかった。
週に二度、教室に行くと律がいる。律は個人レッスン中心で、本当は伊織と会うことなんてないのだけれど、伊織のレッスン日にはいつも律は顔を出していた。そのうち、伊織と同じレッスン日の公哉と3人仲良くなって、始終一緒に遊ぶようになった。
その3人の関係をピアノ教室の先生はとても歓迎してくれた。律にとって公哉と伊織はいい刺激になったらしい。友人ができたことで音に深みが出、表現力が広がってきたそうなのだ。逆を言えば、伊織と公哉にも自分たちよりも巧い律と仲良くすることでもっとという欲が出て、練習にも熱が入り始めたからだ。
そして、そのまま3人、ピアノの道を進むのかと思えた。
だが、高校にあがった頃、公哉は実家の家業を継ぐということを夢にして、ピアノ教室をやめた。公哉が抜けても律がいるからと、それでも伊織は教室に残ったのだけれど。
「律くん、ドイツにいくんだってね」
ある日、母親がいきなり言い出した言葉。
その日も律と会っていたというのに、何も聞かされていなかった伊織は愕然とした。
伊織は律に何でも話していた。律にだけは隠し事をしたくなかったから、問われなくてもなんでも話した。そうすることで律に特別を伝えていたから。
伊織は律が好きだった。律も伊織を好いてくれているらしいことは分かっていた。言葉の少ない律の、その少ない言葉の中から特別な好意がいつも滲んでいて伊織を幸せにしてくれたからだ。まして律の言葉よりも饒舌にそのピアノが伊織を好きだと訴えてくれていたからだ。
なのに、伊織は律から何も聞かされず、とうとう、その出発1週間前になってやっと告げられた。
それも教室の懇親会で、他の生徒もいる前で、律ではなく先生からの報告という形で。
「伊織」
何か言おうとしていたのは分かっていた。
けれど、聞きたくなかった。
おめでとうなんていえないことが分かっていたから。
だから、近づいてきた律に背を向けたのだ。
「待ってなんかやらない。どこへでもいけばいいんだ!」
そう言い捨てて。
初恋にふたをして、律への思いも、律からの思いも心の奥底に深く沈めた。
戯れに抱き合ったことも、ほおにキスをしたことも。
好きだなと思ったことも、好かれていると思ったこともすべて。
――――すべてなかったものにしたというのに。
「……」
視界にピアノが見えた。結局捨てられなかったピアノ、今もピアノでバイトをし、幾ばくかの金を稼いでいる。
こんな歪にゆがんだ指ではもうプロのピアニストを目指せないのに、それでも離れられなくて。
たぶん、その先にあの男をかすかに見えているから。
もう一緒にはいられないというのに。
なぜなら、捨てていかれたから。
あんなにも一緒にいたのに、何も相談されず、とうとう本人の口からは全く留学のことを教えられなかった。
悲しくて悔しくて、それでも見送りにいこうとして、指に怪我を負った。
捨てられたのに、それでもと手を伸ばしたから、諦めろと指を奪われたのだろうか。
歪な指を握りしめて、伊織はよろよろとベッドに歩いていくと、その場に倒れ込んだ。
「どうして帰ってくるんだよ…」
ふうと吐息をついて、伊織は身を縮めるようにして目を閉じた。
頭の中で、あの時の律の音が聞こえた。
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2007.5.13
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