17
昼間のカフェからバーへと変わる前、開店準備が済んでしまえば「ノクターン」は本当に静かで、穏やかだ。
開店すればずっとピアノを弾くことになる伊織の指を気遣って、今店の中に流れているのは有線だった。
「…この歌、いいね…」
伊織が流れてきた曲に耳を澄ませば、その横で公哉が笑った。
「そうだな、結構いい感じ」
「また、弾いてくださいよ」
公哉の声に藤堂の言葉が重なる。
今、店の中には藤堂と公哉、伊織の3人しかいない。バーテンとしてずっと藤堂の右腕で頑張っていた市倉はつい先日独立して、店を持った。
そう、あれから、2年が経っていた。
長いようで短かったと伊織は思っていた。今年、大学を卒業する伊織は卒業論文に追われていたが、それも先日どうにか終わった。公哉も同様で、卒論をさっさと片づけると、今はもう父親の会社に入り、父の元で働いているという。藤堂は相変わらずで、穏やかで人当たりのいいマスターとしてここで働いている。
そして、律は。
あの後、すぐに律はドイツに戻った。
あちらでデビューした律がおいそれと日本に拠点を移すことなぞできるわけもなく、拠点移動のための段階を必死で踏んでいるという。
その間、伊織は律の様子を知る術が、テレビや雑誌などのメディアがメインになってしまっていることに多少の不安や不満があったものの、あの5年に比べればと我慢した。
そして、その我慢も今日で終わり。
「…律、空港についたとこかな」
藤堂が出してくれた紅茶を飲みながら、ぼんやりと公哉が言うのに、伊織は頷いた。
「そうだな、飛行機の到着が遅れてなければ着いた頃じゃないか?きっと今頃こちらに向かってる」
淡々という伊織に公哉は苦笑いしてみせた。
「余裕だな、伊織。空港まで迎えにいかなくてよかったのか?」
「…焦っても仕方のないんだってこと、分かってるんだよ。それに焦っても俺にはいいことなんて今まで少しもなかったからな。ここで待ってろって律が言ったから、ここで待ってるよ」
歪に曲がったままの指をさすりながら、伊織は微笑んだ。
「…それにさ、これからはいつでも一緒にいられるんだから、いいんだよ」
「…そうだな…」
律は今日、やっと日本に戻る。
日本でのレコード会社も決まり、本格的に活動できるようになったおかげだ。今年からは日本を中心として、世界を回ることになっている。
そして、その律に伊織も付き添うことになったのだ。
「まさか、嫁入りするとは思わなかったなあ、俺」
「あのな、俺はマネージャーになったの。マネージャー!」
公哉の揶揄に、確かに嫁入りというのはあながち嘘ではないけれどと思いつつ、伊織は唇をとがらせた。
律が今年を帰国の年にしたのは何も偶然ではない。伊織が大学を卒業するタイミングを待っていたのだ。
律は想いが通じると、持ち前の独占欲とわがままを発揮して、伊織を公私ともに独占する方法を模索しはじめた。そしてその方法を、結婚したことで身動きのとれなくなった母の代わりにマネージャーとして雇うということに落ち着いたのだ。最初は律の母と二人でマネージャー業務を行うことになっているが、それもここ1年くらいで、あとは伊織が一人で見ることになった。
不安はある。知らぬ世界で、まして社会に出たばかりの子供ができる仕事なのかとも思ったが、律の母が笑ってその不安を打ち消してくれた。
「伊織くんほど、うちの律を理解して、理解しようとしてくれている人はいないもの。それに律だって、伊織くんのとってきた仕事なら文句言わずにやるから、すごくいいコンビよ」
にこにこ笑って彼女が迷う伊織の背を押してくれた。
その彼女に、理恵子を思い出したのは仕方のないことかも知れない。
「…なあ、公哉」
「…んー」
「…理恵子、元気かな」
ぽつんと伊織が言うと、公哉の代わりに藤堂が答えた。
「先日、お昼に男性を伴っておいでくださいましたよ。まだ彼氏ではないけれど、理恵子さんが5年後よりももっと先の未来を見ることのできる人だそうです」
「…そう…」
あれ以来連絡を取ることのなくなった理恵子。伊織の背を押してくれた優しくて強い人。
彼女には幸せになってほしいと、強く思っていた。
律の愛情を感じるたびに、いつも強く思った。
「…大丈夫、女は強い。っていうか、理恵子ちゃんはいい子だ。伊織みたいなのと別れて正解」
「おまえなあ」
友達だろうと伊織がむっとすると、公哉はハハハと軽く笑った。
「ばーか、おまえみたいなさ、過去に囚われてぐちぐち言って、結局元サヤな男にあんないい子はもったいないっての。おまえには律みたいな根性曲がりが似合いなの」
「…公哉、おまえね…」
ひどい言われようだと、伊織が気色ばめば、カウンター内で藤堂が笑いをこらえられなくなったらしく、クックと低く笑っている。
どうもこの親友と雇い主は伊織で遊んでいるようにしか思えないことが多々あって仕方がない。
「…さてと」
いつまでもここにいてもからかわれるばかりだと、伊織は立ち上がるとピアノへと近づいた。
ここのピアノも好きだったなと思う。伊織のマネージャーになればピアノ弾きのアルバイトにも来られなくなるだろうけど、また弾きにきたいと思った。
「藤堂さん」
だから、藤堂に尋ねた。
「俺、またここに弾きに来ていいですか?」
また、ここでピアノを弾きたいと、バイトでなくていいから、ただ弾かせてほしいと。
すると、藤堂はひょいと片眉を上げて、何を言っているんですかと首を傾げた。
「わたしは伊織くん以外のピアニストを雇う気はありませんよ。君はいつまでもこのノクターンのただ一人のピアニストです」
「…藤堂さん…」
居場所をなくしていた伊織に、仮でもいいならと場所を与えてくれたのは藤堂だ。それだけでも甘えさせてもらっていると思ったのに、藤堂はまだこの場所を伊織に提供し続けてくれるというのか。
「…ありがとうございます…」
藤堂の姿が涙でかすんだ。こんなによく泣く方ではなかったのにと思いつつ、伊織がピアノの鍵盤に手をやった瞬間、店のドアが開いた。
「…あ…」
店の中に入ってきたのは忘れられなかった長身。
荷物はどうしたのか、小さなカバンひとつという気軽な格好で、伊織の待ち人はドイツからここに帰ってきた。
「…伊織」
律は少しだけのびた髪をなびかせて、ゆっくりと伊織へと歩いてきた。
穏やかな微笑の中に隠しきれない喜びを滲ませている。律は伊織の前に立つと、ふうと肩の力を抜いた。
「ただいま、伊織。一本早い飛行機に空席があったから、それに乗ってきてしまった。おまえにすごく会いたかったから」
笑った顔は出会った時そのまま。
律の笑いは浮かべた最初はどこかぎこちなくて、けれど話しているうちに優しい雰囲気と楽しさをにじませてくる。
だから、伊織はその笑顔をいつまでも見ていたいと思っていた。
「…おかえり、律。ずっと待ってた。帰ってきてくれてありがとう」
「……伊織も待っててくれて、ありがとう」
2年前、律はその5年前に言えなかった待っていてほしいという言葉を残して旅立った。伊織も言えなかった待っているという言葉を律に伝えて見送った。
好きで好きで、刷り込みみたいにお互いしか見えなくて。
ドイツに再び戻った律のピアノに深みが増したと言われるたびに伊織は嬉しくて、けれど律の音を聞く人すべてに嫉妬した。
仕事も徐々に増え、忙しくなったために連絡がなかなかできなくなった律から、時折かかってくる電話をまるで宝物のように大事にした。
押さえていた想いをはき出すように律だけを思って、その想いを抱えてここで待っていた。
「…律」
伊織はピアノに手をかざすと、律に向かって微笑んだ。
「リクエストは?」
「……」
公哉と藤堂の嬉しそうな顔も見える。不器用な二人を見守ってくれていた人、それからここにはいなくても伊織を思って泣いてくれた優しい理恵子。
だから、彼らのためにも幸せになろうと思った。
好きと言える、待っているからと言える立場を大事にしたいから。
―――――律。
おまえに何を聞かせようか。
「…『君の音』を」
あの日、演奏会で律が奏でたピアノは律のコンサートだけで弾かれる幻の曲となった。律は生涯その曲をCD化せず、自分以外の誰かが奏でることも許さないとした。
あの音は律だけの特別な曲だからと、そう言って。
業界でバッシングされても、律はそれだけは許さなかった。
『君の音』と名付けられた曲は律の伊織への言葉にできないほどの想いを伝えるための、言葉以外の律のたった一つの『言葉』だったから。
だから、この曲は律以外で弾いていいのは伊織だけだった。
「…分かった」
伊織はその手を鍵盤にそっと置いた。
歪んで曲がった指。普通に弾けば、その指が痛むけれど、この曲なら痛まない。何度でも何時間でも引き続けていられる。
伊織の溢れた想いを律に届けることができる。
「俺の音で、俺の思いで、律、おまえにだけ『君の音』を弾くよ」
「…伊織…」
最初の音を伊織の指が奏で始めた。
遠回りして、やっとたどり着いた、伊織だけの音が響き渡った。
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2007.9.3
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