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 伊織が思い出して表情を固くするのに、律も体を強ばらせた。

「何?」

「永住権の話」

「…ああ」

 伊織が剣呑とした口調で言ったにもかかわらず、律は微笑して答えた。

「あれは母の話。俺は関係ないんだ」

「…おばさんの」

「ああ」

 こくんと頷いて、律は伊織の髪をそっと愛しげに撫でながら答えた。

「俺、3枚ほどCDを出しているんだけど、そのCDのプロデューサーってずっと同じ人なんだ」

「…へえ」

 そうだったのかと、律の名を思い出したくなくてCDを買ってなかった伊織は知らなかったなと思いつつ頷いた。

「それが縁で、そのプロデューサーと母が結婚することになったんだよ」

「そうなのか、おめでとう」

「…ありがとう」

 伊織の祝いの言葉に律は本当に嬉しそうに笑った。

 律の母は律を自分一人で育ててきた人だ。父親は律がずっと幼い時に事故で亡くしたと言っていた。その父が角田の大学時代の後輩だったそうで、その繋がりで律はずっと角田のピアノ教室に通っていたのだという。最初はベビーシッター代わりだったと角田が笑っていたのを思い出した。

「それで俺も彼の籍に入れば永住権を取りやすくなるからそうしないかって話が持ち上がっていたんだ。けど、それ、俺は断ってて…」

「…え、なんで?」

 律のあっさりとした答えに伊織が驚けば、律は苦笑して答えた。

「…答えは簡単だよ。俺は日本を拠点にするって決めたから」

「…え、ちょっと待てよ。向こうにいたほうが色々いいんじゃ…」

 日本ではまだクラシックは馴染みが薄い。だが、ヨーロッパはクラシックを生み、育てた場所だけにピアニストには居心地よく、色々と吸収しやすい場所のはずなのだ。

 そこに永住できるかも知れないきっかけをわざわざ自分で手放し、日本に住むなんて。

「伊織」

 何を考えているんだと、むっとした伊織に律は微笑みかけた。

「…傲慢に聞こえるかも知れない、とんでもないわがままに思えるかも知れない。けど、ドイツには伊織がいない。もう、いやなんだ、伊織のいない場所でピアノを弾くのは。俺は伊織の側でピアノを弾いていたい」

「…律…」

 じっと律の目が伊織を見つめている。

 その目が一緒にいたいのだと、訴えるのを、伊織は奇跡を見るかのように見返した。

「…伊織の側で、伊織に聞いてもらうための俺の音をもっとちゃんと完成させていきたい。俺のピアノは伊織がいて、初めて完成するんだ。…俺の音は伊織に聞かせたいって思ったことで、俺の中に生まれたものだから」

「……」

 律の音は彼の言葉と同じだ。

 それは出会った時からずっと変わらなかった。

 だから、律のピアノを聞くだけで伊織は律の気持ちを知ることができた。

 言葉の少ない律にとって、そのピアノは律の想いそのものでもあったから。

「…あの曲」

 伊織は律の手をそっと掴んで、その細く長い指を見つめながら囁いた。

「…あの曲は俺のためか?」

「……」

 律はそっと伊織の手を握り替えして微笑んだ。

「…伊織が辛い思いをしなくてもいいような曲が欲しかった。痛いって、伊織が言わなくてもいいように、思う存分弾ける曲が欲しかった。…伊織は2本の指を失っていたって、ちゃんと弾けるって分かっていたけど、でもやっぱりしんどそうな顔を見るのはいやだったから。伊織のピアノをもっと聞きたいって思ったせいだけど…」

「…すごく嬉しかった」

 あの曲、演奏会で最後に律が弾いてくれたピアノが伊織には最高のラブソングに聞こえたから。

 だから隠すことなく素直に言った。

「律が好きだって、俺のことが特別だって言ってくれた気がして。…だから、俺も言わなきゃって思ったんだ」

 離れていた5年間、忘れることなく育んでいたのは律への憎しみではなくて、愛しさだけ。

 捨てられた、置いていかれたと思えば、ひどく胸が痛んだのは律が好きだったからだ。

 伊織の中にある律への想いが伊織をせめていたから。

「…好きだってさ、5年前だって、本当は律を見送りに行きたかったんだって。だから、俺にはこの曲がった指が素直になれなかったことへの罰だって思えてもいたから」

「伊織…」

「けど、もうそれも全部いいんだ…」

 伊織は律の胸に頬をつけると、目を閉じた。

「…律が好きで、好きで、すごく好きで。その気持ちが律と同じだって思えて、それだけでもう全部よくって。あの曲を聴いて、律が俺を俺と同じだけ好きでいてくれてるって分かったから、だからもういいんだ。律、…律、俺はおまえを好きでいいんだよな」

「伊織…」

 ぎゅっと腕の中に閉じこめられる。

 腕の強さが心を満たしてくれる。

 遠回りした理由はこの腕に包まれるためだったと思えた。

「…そうでなきゃいやだよ、伊織。俺を好きでいてくれ。俺はおまえなしではいられないから、俺と俺の音を守って、好きでいて。俺はおまえの全部を愛してるから…」

「…律…」

 律の情の強さも、その全てが伊織には必要なもの。

 愛しいと囁く声と、音にすべての想いが込められている。

 律の胸に耳をあてると、その心臓の音さえ好きだと言ってくれている気がする。

「…もう、離れるな」

 伊織の囁きに律がその全身で答えてくれた。

 もう、置いていかれる恐怖は感じない。











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2007.8.25

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