14
「…いい、けど…」
「…けど?」
「…そろそろ先生たち、来そう…」
「……」
もうカーテンコールも終わって、皆控え室に戻ってくるだろう。この控え室は鍵がかかるだろうけれど、鍵をかけて閉じこもればおかしいと思われる。まして、この控え室の中にいるのは売り出し中のピアニストだ。
「…伊織、携帯貸してくれる?」
一瞬考えていた律は伊織にそう言って、手を差し出した。
「…あ、ああ」
いったい何をと思いつつ、伊織が携帯を差し出すと、その携帯を受け取って、伊織はこれなら分かると呟いてメールを打ち出した。
「あ、律?」
「…公哉にメールを打ったんだ。この後、少し消えるけど、後のことはよろしくって。今晩は行方不明になるけど、心配するなって」
「…おまえ…」
にやっと、一瞬人の悪い笑みを浮かべた律に伊織は赤くなりながら、睨み付けた。
「おまえ、ちゃんとおまえの名前、入れただろうなあ。俺の携帯だぞ、それ」
「…ああ、忘れてた」
「おまえ…っ」
しらっととぼけた律に伊織がむっとして怒ると、律が急に真剣な顔をして伊織の顔を覗き込んだ。
「…やめるなら今のうちだぞ、伊織。俺はおまえを一度手に入れたら手放せない。間違いなく、おまえが俺をいやになっても一生俺のものにする」
「……」
――――こうなってもまだ。
まだこんなふうにいうのか。
伊織は律に自分からキスをすると、安心させることができるようにと穏やかな微笑を浮かべた。
「…それは俺の方だって。俺はきっとおまえのこと、ずっと手放さないから」
「…伊織」
だが、その言葉は律を喜ばせただけだった。
律は満面の笑みを浮かべて、伊織を抱き寄せた。
「ずっとずっと手放さないで、俺を伊織のものにしていてくれ」
「…ん、分かった」
伊織も律の背に腕を回すと、ぽんぽんとその背を叩いた。
それから、二人揃って、控え室を出ると、まだ誰も表に出てきていないのを見ながら、ホールの前に止まっていたタクシーに乗り込んだ。
「…お願いします」
伊織を奥に押し込んで、自分は手前に乗り込むと、律はホテルの名前を告げた。そのホテルが以前理恵子と泊まったホテルと同じホテルだということに、伊織は偶然とは怖いなと、小さく笑うと、ぐいと手を律に引かれた。
「…何を思い出してる?」
「え、あ…」
律の目に嫉妬の色が浮かぶ。深い藍色がきらきらと瞳に宿っているのが綺麗で、伊織は思わずその瞳に酔いそうになる。
「…そのホテル、理恵子と泊まったことがあるなって…」
「……」
もう少し言いようがあったと思う。だが、律の目に魅入られたように、ぼんやりしてしまった伊織はそのままあったことを口に乗せてしまった。
「……」
一層に藍が深まる。
もしや、迂闊だったかなと思ったが、それもいいかと思った。
5年分の想いが伊織にもある。伊織だって、律の5年に嫉妬している。まして、メディアは律をとりあげる時、その恋愛遍歴すらも取り上げていたから。あの報道がすべて真実だとは思っていないが、まったくの嘘ばかりとも思えなかった。
「…伊織」
ホテルの正面玄関にタクシーが止められる。ボーイがドアを開けにきたのに、伊織は律に促されてタクシーを降りた。
すると、すぐに別のボーイが部屋のキーを持って二人の案内に立った。
「おかえりなさいませ」
「案内は結構です。鍵をいただけますか」
「分かりました」
ボーイから鍵を受け取ると、律は伊織の手を引いて、エレベーターへと向かった。
「…伊織」
「何?」
「…たくさん話したいことがあるんだ」
エレベーターの前で律はそう伊織に告げた。
「けど」
その時、エレベーターのドアが開き、エレベーターに乗り込むことで二人きりになった途端、律は切なげに伊織を見つめた。
「…今はただ伊織を抱きしめたい。全部俺のだって、思えるくらい、全部欲しい」
「……」
律の言葉に伊織は自分から律の手を握った。
「…俺も同じだよ」
「…伊織…」
エレベーターはやがて、一般客が入ってこられない、上階へとあがっていく。エレベーターにカードキーを差し込んだ律に伊織は住む場所が違っているのだと実感した。だが、それでも律は律だから。
「こっち」
律が泊まっているのはデラックスツインと呼ばれるたぐいの部屋だという。こんなカーペットを廊下に敷くのかと、伊織が驚くと、律は楽しそうに笑った。
「どうぞ」
律はカードキーで部屋のドアを開けると、先に伊織を部屋の中に入れた。
「…なんか、すげーなあ」
ホテルなのに、廊下がある、ととぼけたことを言っていると、いきなり後ろから抱きすくめられた。
「…え…」
「…伊織…」
「…ッ…」
首筋に律の熱い吐息がかかる。その熱さにぶるりと震えると、律はきつく伊織を抱きしめながら、伊織の服野中に手を入れてきた。
「…あ、ちょっと待って、シャワー浴びたい…」
「後でいい」
「けど…ッ」
「後で一緒に入ろう。全部綺麗に洗ってあげるから、ね、今全部ちょうだい…」
「…うわ…」
だから浴びたいんだと伊織が思っても、律は伊織を離そうとしない。伊織が身をよじればよじるほど、律が必死で抱きしめてくるのに、伊織は体の力を抜いた。
「…分かったよ」
「…伊織…?」
伊織の態度に律が首を傾げると、伊織は体の向きを変えて、律の首に腕を回して微笑んだ。
「なら、ちゃんとキスしろ。おまえなあ、あん時、怖かったんだからな。初心者にあのキスはないだろ」
「ご、ごめん」
真っ赤になって謝る律に伊織は微笑んだ。
「だから、キスをくれ。で、俺をもらってくれ。…5年分、もらってくれよ」
「…分かった」
最初はついばむ甘いキスだった。
何度も重ねるキスがどんどん深くなっていく。
「…ん…」
そっと唇を開けば忍んできた舌が、口腔を愛撫する。唾液を注ぎ込まれても、いやな気はしなくて、ただ必死で受け入れた。
「…ベッド、行こう」
「うん…」
たかがキスだと思った。
なのに、律の甘いキスに絡め取られて足がおぼつかない。思わず縋り付いた伊織に律はくすりと笑うと、ひょいと横抱きに伊織の体を抱き上げた。
「え、ちょっと、律っ」
「じっとして。落とすよ」
「…け、けど、おまえ…」
腕を痛めるんじゃないかと、伊織が心配すると、律は楽しそうに笑った。
「これでもちゃんとジムに通って鍛えてるんだよ。プロのピアニストっていうのはツアーで回ることも多いし、何時間も続けて弾くから、体力をつけるのも仕事なんだ。おまえくらい何ともない」
「…でも、これは…」
男としてプライドにさわると、伊織が口ごもると、律は少し切なげな顔をして伊織の頬にキスをした。
「…色々したかったことがあるんだ。伊織にしたかったこと、全部とは言わないけど、させてほしい…」
「……」
そんなことをそんな顔で言われたら。
「…分かったよ」
もう何も言えないと、伊織はじっと律の腕に身を任せた。
「ありがとう、伊織」
律はその伊織に嬉しそうに笑うと、伊織を大事そうにベッドまで運んだ。
「…伊織」
ベッドの上、伊織をそっと置くと、律は嬉しそうに笑って伊織に身を寄せてきた。
「好き、伊織、すごく好き…」
「…律…」
ぎゅっと抱きしめてくる律に伊織は腕を回して微笑んだ。
「…伊織…」
「…うん…」
了解を得るように呼びかけた律に伊織は軽く頷いた。
「…ずっと…」
「うん…」
「…ずっとこうしたいって思ってて…」
「そっか…」
俺もだよと、笑えば、律も幸せそうに笑う。
ずいぶんと遠回りしてしまったものだと思う。律のこの手が欲しくて、ずっとそう思っていたのだけれど、まだ子供すぎて、律の心情まではかれずにいた。
今なら、とは思う。
今ならあの時と違って律の心も自分の想いも見誤ることなく、素直に感じられる。
衣服をはぎ取られ、素肌をさらされる、どんなに頼りない姿にされても、その行為を受け入れられる。
相手が律だという、ただそれだけで。
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2007.8.11
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