13
その頃、伊織は律の控え室を探していた。数える程度だが、何度か演奏会で訪れたホールだ。だが、律は教室の生徒とは別の控え室を与えられているらしく、いったいどこにいるのか検討がつかなかった。
「…えい、くそっ」
口汚く罵って、伊織はぎりっと唇を噛んだ。
「こっちかも知れない…」
とにかく走った。会場中を一回りすれば見つかるんじゃないだろうかと、伊織は運動不足でもつれた足を叱咤して、とにかく走った。
「…ここ、かも」
一番奥の控え室。確か以前角田が使っているのを見たことのある部屋。大きなソファーもあって、このホールでは一番豪華な作りになっている控え室だった。
「……」
すうっと息を吸い込む。公哉が渡してくれた花束を胸に抱いて、理恵子の背中を押してくれた華奢で優しい手を思いながら、小さくノックした。
「…はい」
低く耳障りのいいテノール。ドア一枚挟んだ向こうに律がいる。
「……」
鍵がかかっているかも知れないと思いながら、そっとドアノブに触れた。
「…あ…」
鍵はかかっていなかった。
何の力も入れる必要なく、ゆっくりとドアが開いた。
「……」
律がいた。
こちらには背を向けて座っている律には伊織が見えていないのか、少し疲れた後ろ姿を見せていた。
「…角田先生?」
やがて、律はゆっくりと振り向いて。
「…ッ…!」
伊織の姿を見た途端、息を飲んだのを感じた。律は恐る恐る立ち上がると、ゆっくりと伊織へと歩いてきて、そっと手を伸ばした。
「…律…」
律だと、伊織は思った。
数日ぶりにみた律はひどく痩せていた。ステージ上では堂々としてみせていたのに、今ここにいる律は頬がこけ、目の下にうっすらと隈を作っていた。
けれど、あの青みがかった瞳だけはいつもと同じで、黙って伊織を写していた。
言いたいことはたくさんある。
この数日間、どこでどうやって暮らしていたのか。
あの曲は律が作ったものであっているのか。
それからドイツへの永住の話はどうなったのか。
本当に本当に。
―――――尋ねたいことがたくさんあるんだ、律。
「…伊織…」
律は泣き出しそうに顔をしかめ、大事そうに伊織の名前を呼んだ。
「…好きなんだ、伊織が好きなんだ…」
そして、律は目を細め、涙を零しながら、そっと呟いた。
「…律」
「…ごめん、俺なんかがずっと好きでいたなんて。…いやだろうって思ったけど、でも好きで、仕方なくて。…伊織、好き、ごめん…」
「……」
律はそんな恋の言葉を泣きながら、謝罪と一緒に口にする。
そうさせたのは自分なのだと、伊織はふっと足を一歩踏み出した。
「…律…」
伊織は自分がひどく弱いことを知っていた。
律が傍にいない、いなくなる、特別に思ってもらえていなかったと、そう自覚すれば、崩れてしまうことを知っているから、その全てを何も言わなかった薄情な律への憎しみにすり替えた。悪いのは全て律なのだと、そう思ってしまえば、伊織はそれ以上傷つかないですんだ。
けれど、そうすることで伊織が背負わなければならない分さえも、全ての重荷を律に背負わせてしまった。
「…好きだ、律」
ようやく伊織はその言葉を口にした。
ずっと思っていた言葉。胸の奥に沈み込めすぎて、どこか歪な形をしているだろうけれど、それでもずっと誰にも同じだけの思いをこめることもできずに大事にしまっておいた気持ちだった。
「…伊織…」
「ごめんな、ちゃんと言えなくて。…俺もずっとおまえが好きだった。誰と付き合っても、誰と一緒にいてもおまえしか好きになれなくて。…俺、結構女の子と付き合ったのにさ、キスすらできなくて、おまえとしたあのキスが初めてだったんだぜ…」
「…伊織…」
伊織は律がいつか言った、一番の笑顔を必死で浮かべて、花束を持った手をそのまま大きく広げた。
「律、早く抱き締めろって!」
「…伊織…」
律は伊織の言葉に応えるように、伊織の腕を掴むと、ぎゅっと強く抱きしめた。
「…伊織、伊織!」
「…理恵子まで泣かして、ここまできたよ。あんないい女、どんなに探したってもういないのに、それでもおまえの方がいいなんて、俺も終わってる。…初恋だって言ったら笑うか、律」
「…俺だって、伊織が好きで、好きで。…もう離さないから…」
「…うん、律」
遠回りばかりして、けれど結局この男の腕の中に居場所を見つけてしまった。
怖いと思った律の強い腕も今は嬉しくて心地よくて仕方がない。
理恵子の腕は甘くて優しかった。あの腕の中でまどろんでいることが伊織は好きだったけれど、今は律の腕の強さに居心地のよさを感じてしまっている。
いや、今も怖いなと、伊織は思う。
律の腕は女性の腕ではないから、やはり伊織に何かを与えるよりも奪うものだ。だが、伊織だって律の中から奪っているだろうから、それでいい。
未来を見る強さと、振り返ることをしない弱さを、律の中から奪っている。
「…5年前、留学する時のことを話してもいいだろうか、伊織。おまえにだけ、どうして言えなかったのか、聞いてほしい」
律の言葉に伊織は顔を少し上に向けて、その端正な顔を見つめた。
「公哉に言われた、悪い方向じゃなくて、いい方向でおまえが俺にだけ留学を言わなかった理由を考えてみろって。…どういう意味だったんだ?」
公哉にああ言われても、伊織にはどう考えればプラスの理由が生まれるのか分からなかった。ずっと律には捨てられたのだと、伊織が思うほど律は伊織を特別に思っていないのだと、そればかり思っていたから、そんなふうに考えを転化させることができなかった。
「…簡単なことだよ、伊織」
律は伊織の髪に手を滑らせながら、自嘲するように笑って答えた。
「留学が決まった時に皆言ってくれた。おめでとう、頑張れ、よかったなって。祝福ばかり、言ってくれた」
「……」
当たり前じゃないかと、伊織が目を開くと律は切なげに目を細めた。
「けど、俺はまだあの時、十五の子供で、外国なんて本当は怖くて仕方がなかったんだ。ドイツ語を習ってはいたけど、しゃべるなんて本当に自信がなくて、本当に怖いことや寂しいことばかりだったのに、みんなおめでとうばかり言う。頑張れってことばかりいう。…公哉は分かってくれるかと、電話したのに、あいつも同じようにおめでとうって笑った。…俺はいらないのかって思うと、すごく寂しくて、怖くて…」
ぎゅうっと律の腕に力がこもった。その力に伊織はすべて悟って、微笑んだ。
そういうことだったのだ。
少しだけ想像すれば分かったことだった。
あの時、確かに律は十五歳の子供で、日本の外に出たことのない、幼い子供だったのだ。伊織と少しも変わらない、幼い子供。自分だったらと、少し考えればすむことだった。
自分なら、もし伊織が同じように留学の誘いを受け、ドイツに渡るとなったとして、そして皆におめでとうと言われたのなら。
「…俺もおまえには言えないや…」
「伊織」
確かに律には言えないと思った。
律も皆と同じようにおめでとう、頑張れよと笑顔で言ったなら、伊織はきっとその言葉を刃として受け取るだろう。
寂しくて悲しくて、自分を不要だと言われたと、ひどく辛くなるだろう。
「…そうか、俺には言われたくなかったんだ、おめでとうって…」
「…うん」
小さな子供のように、こくんと頷いて、律は伊織に囁いた。
「俺は伊織と離れたくなかったんだ。ピアノは好きだ、ピアニストにもなりたい。ドイツに渡って、いい先生につけば、その夢が現実に繋がっていくんだってことはよく分かっていた。けど、俺は伊織と一緒にいたかったんだ。いつまでも伊織と一緒に連弾したり、遊んだりしたかった。だから、最後まで言えなかった。言えば何もかも終わってしまいそうで、いやで…」
「……そうか…」
この感情は置いていくものでしか分からないことかも知れない。
だが、想像はできた。律は本当に伊織と一緒にいたいと思ってくれていたのだ。いつまでも一緒にいたいと思っていたから、別れることを現実と自覚したくなくて、伊織には告げられずにいた。
おめでとうと、言われたくなかったのだ。
「俺はこんなに寂しくて仕方がないのに、もし伊織におめでとうって、頑張れって言って笑われたら、俺は寂しくて死にたくなったと思う。…伊織に、俺と同じだけ俺のことを特別に思ってもらえてるって、自信があの時、少しでもあったら俺はおまえにも言えたと思う。待っててって言えるだけの自信があったら、言えたけど、俺はおまえの側を離れたら、おまえの隣はきっと他の誰かのものになってしまうって思うと、どんどん言えなくて、結局おまえを傷つけて…」
「…あ…」
律の手がゆっくりと伸びてきて、伊織の右手を掴んだ。そして、その指にそっと律はキスをした。
「…この指のこと、公哉から聞いた」
「…そうか…」
「ああ…」
何度も指にキスをして、律は切なげに目を細めた。
「俺のせいだって思った。俺がちゃんとおまえに言っていれば、おまえからピアノを奪うこともなかったんだって。…指がこんなに曲がって、俺はおまえのピアノを俺の子供じみたわがままで奪ってしまったんだ…」
「おまえのせいじゃないよ、律」
伊織は律に囁きかけて、その顔を覗いた。
「一度は捨てたけど、今はちゃんと弾いてる。だから、もうそんな顔、するな、なあ、律」
「…伊織」
伊織の穏やかな言葉と表情に、律はまるで引き寄せられるように、その端正な顔を近づけた。
ああ、キスをされると伊織が目を伏せると、その唇を甘く塞がれた。
「…ん…」
二度目のキスは一度目よりもずっと甘くて、伊織は嬉しくなって律の唇を追いかけた。
「…律…」
「…もっと、していい?」
「うん、して…」
律の甘い囁きに、伊織はそっと唇を開いて律を受け入れた。
甘い口づけをずっと求めていたから。
そっと舌を絡み取られて、伊織がぎゅうっと律に縋ると、その腰を抱かれた。
「…もっと、欲しい。…伊織、おまえが欲しい…」
「……」
経験はなくても言葉の意味は分かる。律の情欲に潤んだ瞳を正面から見つめて、伊織は思わず俯いた。
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2007.8.4
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