12
「…着いたよ」
タクシーがあるホールに着く。角田ピアノ教室は市内では有名なピアノ教室で、教室内だけの発表とはいえ、発表会の際には大きなホールをいつも借りる。特に今回は律がゲストとして出るから、いつもよりも一回り大きなホールを借りているように思えた。
「ここのホールってさ、ベーゼンドルファーが常設されてるんだよ」
「…へえ」
公哉の説明を聞きながら、ホールへと近づいた。
「ああ、もう始まってるな」
中から音がかすかに聞こえてくる。
公哉は伊織を促しながら、中へと入っていった。
「どうもー」
受付の女性に公哉は声をかけて、中へと入っていった。
会場内は明かりが落とされ、ピアノの音だけが響いている。
「…公哉くん、伊織くん」
二人が入ってきたことに気づいた藤堂が前方の席で手を少しだけ挙げて手招きしてくれているのが見えた。
「…伊織」
「ああ」
その藤堂に二人は少し姿勢を低くしながら歩み寄った。
「…この後、律くんですよ」
藤堂はそういって、伊織にプログラムを渡してくれた。その藤堂の隣、伊織の隣でもある席に理恵子がいた。
「理恵子」
「…少しだけ、元気な顔になったわね」
そういえば、理恵子に会うこと自体が久しぶりだった。
理恵子の寂しそうな笑みに伊織は心の奥ですまないと謝罪した。
自分のことに精一杯で理恵子の心の内まで想像できなかった。
「…ごめん」
「謝らないで。わたしは伊織の元気な顔が見たいだけだから」
「…ありがとう」
理恵子の暖かい言葉に伊織は礼を言って、それから手元のプログラムを開いた。
演奏者名と曲目が並んでいる。
だが、律の演奏者名の横に、曲目はなかった。
「……」
いったいどうしてだろう。
疑問に思う伊織の前で、ピアノの音が途切れた。
「あ…」
律が出てくる。
燕尾服を身につけ、ステージの広さを忘れさせるほどの堂々とした姿で伊織の前に立っていた。
「……」
律の目が客席をさまよっているのを感じる。
やがて、その目が伊織を捕らえた。
「…ッ…」
あの深い藍色が揺れている。
律の目が伊織を絡め取って、その情念を伝えてくる。
伊織が息を飲むと同時に、律は伊織から視線を外し、ピアノの前に座った。
「……」
聞いたことのない曲だが、いい曲だと、最初の音を聞いただけで伊織は思った。
柔らかな旋律、優しく甘い響きだ。
律のピアノはいつも力強く強引で、聞く者をその世界に引きずり込む音だ。
だが、今のこの音は柔らかく繊細で、人を包み込む音だった。
そして、今までにない旋律を奏でていた。
「…あいつ、自分で作ったんだ…」
伊織の隣でぽつんと公哉は呟いて、伊織を見た。
「…伊織、この旋律、指で辿ってみろよ。…この曲はおまえのために作られたんだ」
「…え…」
伊織は驚いて、公哉の言うままに指を膝の上で滑らせた。
「…あ、…そんな…」
気づいた途端、涙があふれた。
この曲は右手の人差し指と中指を使わなくとも弾ける曲なのだ。
そのために微妙な音の響きになっているが、その不安定さを律は巧くカバーして曲を仕上げていた。
そう、これは伊織にだけ捧げる、律の音だ。
「…あいつ…」
流れる涙は止まらない。
伊織は何度も涙を拭いながら、必死で律を見た。
律は伊織の指をいつも見ていた。
痛くないか、しびれてはいないかと、何度も尋ねて気遣って。
そして、律は指の損傷で一度はピアノを捨てた伊織のために、もう2度とピアノを捨てることのないよう、指を気遣うことなく弾けるピアノ曲を作り上げたのだ。
「…律…」
伝わってくる心。
律の切ない気持ちが伝わって、伊織はしゃくり上げた。
やがて、曲は終焉へと向かい、最後の旋律を律はその指で奏で、そして静かにその手を下ろした。
「ブラボー!」
終わった途端、公哉が伊織に花束を投げ渡して立ち上がり、声を上げて手を叩いた。その公哉に答えるように、藤堂が立ち上がり、理恵子が立ち、やがて人々は全員立って律の演奏を称えた。
その嵐のような波の中、伊織は立つこともできずに律をじっと見つめていた。
涙が止まらなくて、律をじっと見つめていた。
律は立ち上がると、ステージの中央まで歩いてきて、ゆっくりと頭を下げ、人々のスタンディングオベレーションに答えた。
深々とした礼を終えると、律は伊織に一瞬目を向け、それからゆっくりとステージの裾へと下がっていった。
「俺…」
涙が止まらない。
悲しいんじゃない。ただ律の想いが溢れて、涙が止まらなくなってしまっていた。
「…伊織」
その伊織の手をそっと理恵子が取った。
「行っておいで」
「理恵子」
涙で汚れた顔を理恵子は気にするように、ハンカチで伊織の顔を拭ってやりながら微笑んだ。
「ずっと思ってたの、どうして伊織はわたしを本当の意味で恋人にしてくれないのかって」
「……」
本当の意味での恋人。
理恵子の言葉に伊織は申し訳なさに唇を噛んだ。
理恵子とは本当にいい関係だったと思う。だが、伊織は理恵子にキスすらしたこともなかった。
そう、今まで恋人関係にあった女性の誰に対しても伊織はそうだったのだ。
だから、長続きしなかった。
深い関係をねだる恋人に、伊織はどうしても子供の付き合い以上のものを与えることができず、そんな伊織に焦れて皆去っていってしまう。
理恵子だけがそんな伊織を黙って受け止めてくれていた。
あの日、ホテルに泊まった日ですら、伊織は理恵子を抱きしめて眠っただけだったのだ。
伊織の初めてのキスは理恵子とホテルに泊まった翌日に律にされたあの痛いキスだったのだ。
「…でも、どこかで分かってた。伊織には忘れられない人がいるんだって。…律さん、なんでしょう?」
「ごめん、理恵子…」
「謝らないで」
理恵子は涙のにじんだ目を向けて、伊織の不自由な指をそっと手で撫でた。
「律さんはわたしがどんなに努力しても伊織にあげられなかったものをあげられる人だったのよ。…わたしが伊織を幸せにしてあげたかったけれど、それは伊織の望む幸せじゃないの」
「…理恵子」
「ほら、伊織」
どうしたらいいんだと、躊躇する伊織に公哉がぽんとその肩を叩いて促した。
「行ってこい、律が待ってる。その花束はおまえに俺から渡す理由だよ。花束を持っていくって理由があればいけるだろう?」
「…ありがとう、公哉」
ステージ袖から、角田が演奏をした子供たちを連れて出てくるのが見える。その中に律は入っていない。恐らく控え室で一人、じっとしているに違いない。
「…理恵子も、ありがとう、それからごめん」
伊織は理恵子の顔を見て、そっと囁いた。
「俺も理恵子を幸せにしたかった。けど、俺が幸せになれる場所は違うとこにあって、たぶん俺でないと幸せにできない人がいるんだ。…そこに行きたい」
「…ん…」
理恵子は堪えきれなくなった大粒の涙をこぼして、しっかりと頷いてくれた。
「わたし、伊織が大好きだったわ」
「…ありがとう」
理恵子の言葉に後押しされて、伊織は姿勢を低くすることも忘れて客席から飛び出した。
「…悔しい」
その伊織の背に理恵子はしゃくり上げながら呟いた。
「今頃になって現れた人に伊織を取られちゃった…」
「理恵子ちゃんなら伊織の馬鹿なんかよりもずっといい男が見つかるよ」
公哉が苦笑して言えば、藤堂が援護するように言った。
「ええ、理恵子さんのような素敵な女性、世間の男は放っておきませんから」
「…そう?」
理恵子がしゃくり上げながら尋ねると、公哉と藤堂は強く頷いた。
「保証しますよ」
「俺も」
「……」
二人の言葉に理恵子はぷっと小さく吹き出して、涙を拭って微笑んだ。
「そうね、理恵子さんにお似合いの、もっと素敵な男性を捜すわ。そして、伊織が惜しいことをしたって悔しがるくらい、いい女になってやるの」
「そうだね、そうしなよ」
「では、その理恵子さんの新しい門出を祝って、今晩、好きなだけ奢りましょう。わたしの店で、ですが」
理恵子は微笑んで頷くと、それから公哉を見た。
「そうしたら忠野くんはわたしにピアノを弾いて。マスターの店と同じ名前の曲を」
「…了解。ノクターンを何度でも理恵子ちゃんのためにだけ弾いてあげる」
「では、わたしはノクターンオリジナルカクテルを好きなだけ」
「…ありがとう…」
藤堂と公哉の優しい言葉に理恵子は、女性は強いのだと言いたげに鮮やかに美しい微笑みを浮かべた。
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2007.7.28
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