「結婚、してほしいの」
「へ?」
 馴染みのバーで飲んでいて、いきなり切り出された話に緒方伊織は間抜けな顔をさらして、プロポーズをした彼女に小さく笑われた。
「もう、何、その顔」
「あ、いや…」
 くすくすと笑う、理恵子の可愛い笑顔に伊織は頭を掻いて苦笑した。
 2才年上の理恵子とはつきあい始めて1年になる。可愛らしい外見に比べて、実際にはかなり男っぽいさばさばとした彼女の気性が好きで、一人の女性と長く付き合えなかった伊織だが、理恵子とはこの先のことを考えることができるくらい、気があっていた。
 伊織は今年大学2年になるのだが、昔ピアノを習っていて、その腕を生かし、夜にバーのピアノ弾きをやっている。その時に理恵子と知り合ったのだ。
「いい加減、気付きなさいよ」
 店から帰るところを待ち伏せされて、そう怒られたのが1年前。理恵子曰く、店にくるたびにピアノ曲を名前つきでリクエストしているというのに、誰がリクエストしているかなんて気にもしない伊織に腹が立って、文句を言ってやろうと待ち伏せしていたのだという。
 ぷうっと頬を膨らませて文句を言っている理恵子が可愛くて、少しドキドキしながらどうしてそんなことをと問いかけると、理恵子は夜目にも分かるくらい真っ赤になって言った。
「あなたに一目惚れしたからよ、あなたの気を惹きたかったからよ、悪いっ?」
 そして、その言葉に悪くないですと言って、携帯の番号とメールアドレスを交換して、店の外でも会うようになり、自然とつきあい始めた。
 確かに結婚するなら彼女がいいのだろうと思っていたのは確かだけれど。
「理恵子はもう働いているけど、俺、まだ学生だし」
「うん、分かってるわよ」
 伊織が困った顔で告げれば、理恵子はこくんと頷いた。
「けどね、結婚するなら伊織がいいなあ、とすごく理恵子さんは思ったわけですよ、ので、プロポーズしてみたの。今すぐしたいってわけじゃないの、5年後を想像して、その時に二人で一緒にいるのを想像してほしいなあと思ったの」
「…そうか」
 お世辞にも女らしいとはいえない理恵子だけれど、こういうところは女なんだなと、伊織は微笑した。
 5年経った時に、確かに理恵子と一緒にいられたなら、嬉しいかも知れない。
 5年後、とふっと想いを巡らせかけて、不意に5年前の記憶が蘇った。
『待ってなんかやらない』
 半分泣いている、少年の声。
 聞こえた声は5年前の自分のもの。伊織はその時の悲しみと切なさを同時に思い出して、身をびくりと震わせた。
「…どうしたの?」
「あ、いや…」
 嫌なことを思い出したものだ。もう5年も経つというのに、まだ忘れられないのか。
 体を強張らせた伊織に首を傾げた理恵子に向かって、軽く首を振り、それから上着のポケットを探った。
「…こいつだよ」
 ぶるぶると震えて、メールの着信を知らせる携帯を理恵子に見せて伊織は笑った。
「携帯の振動でぶるっちまうなんて、格好悪いなあ」
 身震いを携帯のせいにして、伊織は携帯を開いた。
「誰から?」
 画面を覗き込むような不躾な真似はしないが、それでも気になるらしい理恵子に伊織は安心させるようにこともなげに答えた。
「んんー、公哉、忠野公哉だよ。前に紹介しただろ、ピアノ教室のオトモダチ」
「ああ、忠野くん」
「そう」
 合点がいったと頷く理恵子に伊織はメールを送ってきた主の秀麗な顔を思い出した。
 忠野公哉というのは昔、伊織が通っていたピアノ教室に同じように通っていた友人だ。同い年ということもあって、気があった。ただ、公哉は高校に上がると同時にピアノをやめてしまい、その後はまったく音楽とは無縁の生活をしている。それは伊織自身もかわりないのだけれど。
 今は音楽とは全く関係のない私立大学に通う伊織、歪に曲がってしまっている右手の中指と人差し指がピアノを職業として目指すことのできなかった原因だ。
 その公哉とは今も変わらず友人関係を続けていて、連絡も取り合っているのだが、ここ最近は連絡がなかった。その公哉からのいきなりのメールに一体どうしたのだろうと、メールを見るとたった一文だけあった。
『早く帰ってこんかい』
「……」
 思わず苦笑いがこぼれる。相変わらず、柔らかで優しい外見とは中身のギャップがありすぎる乱暴な男だと思いつつ、理恵子に伊織はメールを見せた。
「何、これー」
 ぷっと吹き出した理恵子に伊織もつられて笑った。
「相変わらずだよな、あいつ」
「うん、思う。見た目はすっごく綺麗でかっこいいのに、中身は伊織よりもずっと男前なんだよね、忠野くん」
「…あのなあ」
 ひどい言われようだと伊織は思いつつ、携帯を上着に戻した。
「ていうことだから、そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
「…理恵子」
「なに?」
 立ち上がりかけた理恵子に伊織はその手を掴むと、その大きな目を覗き込んで言った。
「俺も5年経って、その時に理恵子が隣にいたらいいなって思うよ」
「……」
 瞬間、理恵子は黙り込んだが、やがて幸せそうに微笑んだ。
「…ありがとう」
「こちらこそ」
 最近手を繋ぐなんてことはしていなかったけれど、理恵子の手を取ったまま、精算を済ませるときも離さないで、外に出た。
「もう遅いし、タクシーで帰るか」
「忠野くんも待ってるしねー」
「ああ、俺の部屋に上がり込んでるだろうからな」
 一人暮らしの伊織はマンションの鍵を親以外に理恵子と公哉に渡してある。あのメールの内容ならその合い鍵で中に入っていることだろう。早めに帰らなければ、せっかく買っておいたビールを公哉にすべて飲まれかねない。理恵子の言うとおり、外見はまるで美少女の風貌だというのに中身はかなり男前で、その上酒に関してはウワバミだ。
 内心焦りつつ、軽く手を挙げた伊織の前にタクシーが止まった。そのまま、理恵子の家を周り、自分のアパートへと向かう。
「部屋についたら、電話ちょうだい」
 自宅前についたタクシーから降りながら、理恵子がいつもと同じ台詞をいう。その理恵子に伊織は軽く答えた。
「分かってる」
 理恵子の家から数分で自分のマンションだ。理恵子に頷いて、彼女が家に入っていくのを見送ると、伊織はタクシーをマンションに向けた。
「やっぱりか」
 しばらくしてマンションにつく。タクシーを降りマンションを見上げると、案の定、3階角部屋の自分の部屋に灯りが点っているのが見えて、ため息が零れた。
 どうかビールが無事でありますように、と願いつつ階段を上がり、鍵の開いたままの部屋に呆れながら中に入った。
「公哉、鍵、閉めとけよな、なんかあったらどうするんだよ」
「何かなんてあるわけないよ」
 文句を言いつつ、ドアを開けると、公哉の耳障りのいい声が響いた。一体何の用があってこんな夜中に来たのだろうと思ったが、公哉という青年に常識というものは通用しないのだと伊織は思った。
 後ろ手で玄関の鍵をロックし、リビングへと入る。そして、ソファーに座っている公哉に目を向け、それからもう一人、誰かがいることに伊織は体を強張らせた。
「…公哉、これは…」
 ソファーに座る公哉の隣に座って、じっと伊織を見つめている目に体が強張る。
『待ってなんかやらない。どこへでもいけばいいんだ!』
 自分の鋭い声が頭の中で響いた。
「覚えてるだろ、律だよ。一時帰国だってさ」
「……」
 忘れたと思っていた。
 何度も忘れようと思って、忘れるんだと思った。
 けれど、どこかでいつも抜けなくて、棘のように刺さり続けた記憶。
 時折膿んで苦しくて、けれど泣けなかった。
 桐原律、忘れられない人がいた。











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